ぢんちゃうげ


  香レ 香レ ぢんちゃうげ 強ク香レ


 その人は大きな庭の小さな木の隣に立っていました。
 黒い黒い川の流れのような髪を白の着物に長く長く垂らして、ただじっと一本の木を見つめていました。
 あんまりその姿が綺麗だったので、僕はそっと近付いて、声をかけました。

「こんにちは」

 その人は僕に振り向いて、ほんの少し首を傾げてから言いました。

――こんにちは」

 びいどろの鐘を雨のしずくが叩いたような、そんな声でした。真っ白な顔に真っ黒な眼が二つ、すんなりとはまっていました。
「それ、なんの木ですか?」
 僕は小さな(と言っても、僕の背よりは大きかったのですけれど)木を指差して、訊きました。その木は幹も枝も細くて、緑色の手鞠を半分にして枯れ木の上にぽんと被せたような、そんな形をしていました。
 白い着物のその人は木の方を向いて、葉をゆっくり撫でながらぽつりと言いました。
「じんちょうげ」
 じんちょうげ、じんちょうげ。僕は頭の中で繰り返します。沈丁花。僕はその名前を知っていました。それは花の名前です。とても強い香りのする花の名前です。僕はその花を知っていました。けれどどんな花だか憶えていませんでした(ひょっとすると、僕はその花を見たことがないのかもしれません)。
「花はいつ咲くんですか?」
「もうすぐつぼみが出来るの」
 冬が終わってつぼみが出来て、春が来たら、花が咲くの。葉を撫でながらその人は言いました。
 大きな庭は今は庭は緑色と茶色の庭でした。春が来たら綺麗な色でいっぱいになるのでしょう。そのとき他の沢山の花と一緒に沈丁花も咲くのでしょう。
「春が来たら、咲くんですね」
「春が来たら、咲くの」


  香レ 香レ ぢんちゃうげ 強ク香レ


 僕は毎日その庭に通いました。姉様(その人は大人ではありませんでした。けれど僕より大きいのでそう呼ぶことにしました。僕は昔から姉様が欲しかったのです)は毎日沈丁花の木を見ていました。葉を撫でたり、雑草を抜いたりする姉様の指は白くて細くて、まるで陶器のお人形が動いているようでした。
 けれど姉様の手にはいつも傷がありました。
 それは何かではたかれたようなアザだったり、縄の痕だったり、小さな火傷だったりしました。姉様はお屋敷の人にいじめられていたのです。どこの家でも噂をしています。けれど僕は姉様に傷のことを聞きませんでした。多分、姉様も話したくないだろうと思ったものですから。

「さようなら、また明日」
 僕は毎日そう言って庭を出ます。さようなら、それはお別れの挨拶です。また明日。それは約束の言葉です。姉様も言います。さようなら、また明日。
 約束のあるお別れの挨拶は、寂しいものではありません。
 さようなら、また明日。
 僕は毎日そう言って庭を出ます。


 冬の匂いと、春の匂いが、段々と混ざってくるような頃になりました。沈丁花はつぼみをつけ始めました。
 赤い小さな小さなつぼみが、十個でしょうか、二十個でしょうか、丸くまとまって木のあちこちについています。僕は鼻を近づけてみました。まだ匂いはしませんでした。
 庭には他にも色々な木や花があったのですけれど、姉様は沈丁花だけを世話していました。姉様は沈丁花が好きなのでしょうか。僕は訊きました。
「なんで沈丁花を育てているんですか?」
 姉様は少し考えるような仕草をしてから、頭を倒して空を見上げました。

「空へ、行きたいから」

 ぽつりと声が落ちました。
 僕も空を見上げました。雲がゆっくりゆっくり流れていました。高くて青い空でした。


 沈丁花が咲いたのは、梅が咲いてから十と七日が過ぎた日のことでした。
 庭に入って僕はすぐ今までと違うものに気付きました。それは匂いでした。強い強い、花の匂い。
 僕は匂いを辿って歩きました。沈丁花がありました。姉様が立っていました。
「咲いたんですか?」
「昨日は、暖かかったから」
 一度に咲いたの。姉様は言いました。
「わあ」
 姉様の言うとおり、沢山のつぼみが開いていました。僕は嬉しくて、そして少しびっくりして、声を上げてしまいました。
 沈丁花は赤いつぼみを付けました。だから僕は赤い花が咲くと思っていたのです。けれど、沈丁花が咲かせたのは白い花でした。外が赤くて、中が白い花でした。
「嬉しいですか?」
 僕は訊きました。姉様は少し考えてから(多分姉様の癖なのだろうと思います)、黙ってこっくりと頷きました。


 沈丁花は不思議な花でした。とても小さな花なのに、とても強い香りがします。百合も金木犀も強い香りがするのですけれど、沈丁花は他の沢山の花のようなふんわりとした優しい香りではなくて、もっともっと、刺すような、尖ったような、そんな匂いがするのです。
 沈丁花は厚くて固い花びらを持っています。厚くて固い花びらを持つ小さな花が、十個、二十個、丸く集まって咲いています。そしてとても強い香りがします。だから僕は、沈丁花はとても丈夫な花なのだと思っていました。
 けれど、違いました。
 沈丁花は桜のようにひらひらとは散りません。その代わりに落ちてしまいます。花ごと落ちてしまうのです。丸く集まった花をそっと撫でると、ぽろぽろ、ぽろぽろ、あっという間に落ちてしまうのです。雨のようで、雪のようで、落ち葉のようで、ぴったり似合う言葉が僕には見つけられません。


  香レ 香レ ぢんちゃうげ 強ク香レ


 沈丁花が咲いて五日が過ぎました。その日僕が庭で(僕はまだ庭に入ってはいませんでしたけれど)最初に聞いたのは、姉様の声ではありませんでした。
「この、泥棒猫!」
 びっくりするほど大きな声でした。それがこのお屋敷の奥様の声だということを、僕は知っていました。声に続いてばしんという音と、がちゃんという何かが割れた音が聞こえました。
「養ってやってる恩も忘れて、人の夫をたぶらかすなんて、一体何を考えているんだいこの小娘は!」
 ばしんという音がもう一度聞こえて、それきり静かになりました。僕はそうっと庭に入って沈丁花の所へ行きました。
 姉様は足を地面に寝かせて座り込んでいました。顔に大きなあざがありました。白の着物は汚れて黒くなっています。鉢植えのかけらが転がっています。
「姉様」
 姉様のせいではないことを僕は知っていました。お屋敷の旦那様はとても乱暴な人でした。けれど僕は何も言いませんでした。姉様は立ち上がってぱたぱたと着物をはたきました。沈丁花の香りがしました。
「ずいぶん、落ちてしまいましたね」
 足元に沈丁花の花が絨毯を作っていました。
「ええ」
 姉様はいつもと同じ顔で言いました。どんなことがあっても姉様は泣いたり怒ったりしません。姉様はいつも同じ顔で、その顔はいつも綺麗でした。けれど僕は、姉様の笑った顔が見たいと思いました。
 きっとそれは、とてもとても、綺麗なお顔でしょうから。

「香れ、香れ……」
「え?」
 お別れの挨拶の前に、姉様は小さな声で、歌うように言いました。僕は訊き返したのですけれど、姉様はそれっきり何も言いませんでした。その代わりいつかのように空を見上げました。姉様はあまり喋らない人でした。僕は姉様の声が好きだったので、それはとても残念なことでした。

「さようなら、また明日」
「さようなら」


  香レ 香レ ぢんちゃうげ 強ク香レ


 次の日、庭からは沈丁花の匂いがしませんでした。
 昨日はとても風の強い夜でした。きっと強くて弱い沈丁花はみんな花を落としてしまったのでしょう。僕は沈丁花の所へ急ぎました。匂いの代わりに音がしました。ぽつりぽつり、雨が降るような音でした。けれど空には雲は一つもありませんでした。
 沈丁花の隣には姉様がいました。姉様は立ってはいませんでした。座っても、寝てもいませんでした。

 姉様の身体は沈丁花の隣の大きな木に吊るされて、ゆうらり、ゆうらり、静かに揺れていました。

 胸で結わえた帯が伸びて木の枝にかかっています。ぽつりぽつり、その音は姉様の身体からしずくが落ちる音でした。
 しずくは真っ赤でした。
 白の着物も真っ赤でした。

 女の人の甲高い声と、男の人の太い声が後ろから重なって聞こえました。それがこのお屋敷の奥様と旦那様の声だということを、僕は知っていました。一度大きな声を上げて、あとは二人とも何も言いませんでした。木を見上げて震えていました。

 匂いがしました。
 沈丁花の匂いでした。

 姉様の身体から、ぽろぽろ、ぽろぽろ、何かがこぼれ落ちました。いいえ、何かではありません。それは姉様の身体そのものでした。匂いがしました。沈丁花の匂いでした。
 ぽろぽろ、ぽろぽろ、足の先からこぼれていく身体は、地面に落ちる寸前にふわりと浮かびました。それは鳥でした。小さな小さな鳥でした。白くて赤い姉様の身体は白くて赤い沢山の鳥になって、ぽろぽろ、ぽろぽろ、こぼれ落ちて飛んでいきました。旦那様と奥様は泡を吹いて倒れてしまいました。そしてもう起き上がりませんでした。
 ぽろぽろ、ぽろぽろ、姉様の身体はみんな鳥になりました。鳥になって空へ飛んでいきました。
 高くて青い空でした。

「さようなら」

 さようなら、それはお別れの挨拶です。今日は約束の言葉は言いません。
 約束のないお別れの挨拶は、少し寂しいものです。僕は少し寂しくて、そして少し嬉しい気持ちになります。
 最後にこぼれ落ちた姉様の顔は、笑っていました。
 とてもとても、綺麗なお顔でした。

「さようなら」

 来年も、その次の年も、その次の年も、沈丁花は咲くのでしょう。強い香りで庭をいっぱいにするでしょう。
 けれど、僕はお別れの挨拶をします。

 さようなら。きっと、もう来ません。

 僕は大きな庭を出ました。


  香レ 香レ ぢんちゃうげ 強ク香レ


  人 鳥ト 化ス 花ヨ 。



 ―了―

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 部誌より再録。沈丁花は作者の好きな花です。匂いはかなりきつい。
 不思議な少女と不思議な少年の不思議な対話……という感じが出したかった作品でした。
 果たして大オチの言葉遊びがわかって頂けますかどうか;

<03/09/11>
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上の写真はhihincoWEB様より頂きました。