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           ◇

 事件は突然起こった。
 鞠探しから三日。前日に晴れたら智樹とともに雑貨屋へ鞠を買いに行こうと話していた。
 それを聞いて、沙矢は嬉しそうに笑っていた。
 その、沙矢が。

「ほ……本当ですか? そんな、まさか……」

 池に落ちて、――死んだ。

 屋敷の女性から話を聞いた私は、朝の霧をかき分けるようにして池へ走った。
 池の周りには既に屋敷のほとんどの人間が集まっていた。私はその輪の中から身を乗り出して池を見やった。
 紺色の着物。肩で切りそろえられた濡れ羽色の髪。
 白い、白い顔。
 池の縁に頭を置いて、体を水の上に揺らすその人形のような少女の亡骸は、まさしく沙矢のものだった。
 声が出なかった。
 気がつくと、隣に智樹が立っていた。
「藤野先生、あれは――
 まるで感情のこもらない声で呟きながら、ゆっくりと腕を持ち上げる。
 私はそれを目で追った。
 腕が止まり、指が指すのは池の中心。
 私の脳内を疑問符が駆け巡った。
 水面にぷかりと浮かんでいたのは、消えたはずの、あの赤い鞠だった。


「藤野先生」
「……智樹?」
 縁側で背を丸めていると、後ろから智樹が声をかけてきた。顔を伏せたまま私は返した。
 突然の出来事ににわかに屋敷の中が慌しくなり、人が駆け回っている。部外者である私は手伝うことも出来ず、ただこうして想いに身を任せている。
 今までに近しい人間の死に向かい合ったことは何度もあった。だが、今度のことはあまりにも衝撃的だった。
 ほんの一日前には少女は確かにここで笑っていた。寝る間際に撫でたあの子の髪の感触さえ、まだこの手には残っているというのに……
「先生、お願いがあるんです」
「え?」
 私はようやく顔を上げた。
 智樹は声音こそいつもと変わりなかったが、表情は冷たく凍り付いていた。見たことがある。初めて屋敷を訪れたあの日の、白い能面の顔。
「……なんだい?」
 人のことなど言えやしない。私も憔悴しきったような顔をしていることだろう。
 智樹は言った。
「鞠を買ってきて欲しいんです。棺に入れてあげたくて」
「鞠を? でも、あれは……」
「池に浮いている鞠は危なくて取れないみたいなんです。それに、濡れてぼろぼろになっているだろうし。僕も行きたいけれど、どうせしばらくは駄目だろうから」
 ああ、と私はうなずいた。それに考えてみると明日は雑貨屋の主人の都合で店の開いていない曜日なのだ。行くなら今日のほうがいいのだろう。
 承諾の旨を伝えて私が立ち上がると、先生、と呼び止められた。
「さっきの話、本当でしょうか」
「さっきの話? ……事故についてのかい」
 探していた鞠が池に浮かんでいるのを見て、取ろうと近寄り落ちたのだ――事故の原因についてはその言葉で異論なくまとめられた。警察にはもう連絡したのだろうか。おそらくその説が採用されることだろうが。
「確かにもっともな話だけれどね」
 だがどこか、いびつに感じる。
「沙矢は、あれでも頭のいい子だったんです。そんなことで落ちるなんて……それに朝早くの深い霧で、沙矢に池の上の鞠が見えたんでしょうか。万が一そうだったとしても、もし、もし……」
 そこまで言って、智樹ははっとしたように口をつぐんだ。
「すみません。……お願いします」
 深く一礼して早足に去っていくその背中が、ひどく痛々しく見えた。

「やあ先生、いらっしゃい」
 歩みが遅かったのだろうか、昼過ぎに屋敷を出、いつもの雑貨屋についた頃には、もう日も傾き始めていた。
 主人は店の前で丸椅子に腰掛け新聞を読んでいたが、私と目が合うと立ち上がって愛想よく笑った。
「お一人ですか」
「ええ」
 私はいつもそうするように勧められた椅子に腰掛ける。すると主人は店の奥からもう一つ(ないしは二つ)椅子を持ってきて自分もまた座り、茶など飲みながら長々と世間話に興じるのだ。
 だが今日は。
「……あの、今日は、実は探し物があって来たんです」
 椅子を手に戻ってきた主人に、私は意を決して言った。
「そりゃ珍しい。何をですかな?」
「鞠を。……赤い鞠は、置いてありませんか」
「鞠?」
 主人はどうだったかなあ、と首をひねった。
「鞠はあったと思いますが、七条さんのお眼鏡に適うような綺麗なのだったか……ちょいと奥を見てきますから、待っててください」
「すみません」
「いえいえ」

 その場に残された私は、一人屋敷を出るときに聞いた智樹の言葉を思い出していた。
 あのとき智樹が続けようとした言葉が、わかったような気がする。もし。
 もし誰かがそばにいたのなら――
 虚しすぎる言葉。他が遠ざかる少女の「存在」が、彼女の「存在」を奪ってしまったのだ。
 だが智樹はその前提である、誤って池に落ちたのだという推測を否定してもいた。
 「誤って」という言葉は子供の死因を語るに最も筋の通ったものだ。私もそれ以外にうなずけるものがない。しかし、いびつに感じるのだ。どこか、何かが。
 そして思考の歩みはこの問いにたどり着く。

 ――ならばいかにして少女は池に落ちたというのか?

 堂々巡りの輪は断ち切れない。
 智樹の言葉を、親しい者の思い込みだと切り捨てることはたやすいのかもしれない。
 だが私は見たのだ。
 屋敷を出る間際に、智樹が一人じっと妹の亡骸に寄り添っているのを。
 そして聞いたのだ。

『守ってやれなくてごめんよ……すぐに、すぐに欲しかった赤い鞠を、お前にあげるからね』

 少年の口から紡ぎだされた、何よりも悲痛なその声を。
 私は彼に、いや、彼らに何ができるだろう。

「先生、ありましたよ」
 顔を上げると、雑貨屋の主人が立っていた。
「うまい具合に綺麗なやつが一個残っていました。ほら、どうでしょう」
 主人は手に持った鞠を私へよこした。
 赤地に金の糸が編み込まれた、可愛らしい手鞠。
 そうだ、ともかくこの鞠を屋敷へ持って帰ろう。今できるのは、それだけだ。
「ああ、ありがとうございます。お代は?」
「いやあいいですよ。奥にしまいこんでたやつですし」
「そうですか、どうもすみません」
 これが自分のものなら食い下がっていたろうが、沙矢に、と思うと、すんなり言葉が出た。
 じゃあ、と腰を上げようとすると、
「ああ先生、お茶を入れましたからゆっくりしていってくださいよ。丁度話し相手も欲しかったもんですから」
 引き止められ、私は再度椅子に腰を落ち着けた。
 早く帰ろうという気持ちはあった。だがそれ以上に、なぜだろう、今この瞬間、あの屋敷に戻りたくないと思ってしまったのだ。
 帰っても邪魔になるだけだからか? いや……
 手の中で鞠を転がす。そして、ふっと思い浮かんだ言葉をそのまま口の中で呟いた。
「花の模様だ」
 主人がえ、と振り返るのに、私は何も答えなかった。

 気付けばいつものように随分と長く話し込んでしまっていた。
 途中幾度もぼうっとして言葉を聞き返す私に、しかし主人は深く尋ねずにいてくれた。
 茶を入れなおして出てきた主人に、私はふと思いついて尋ねようとした。
「あの、手鞠歌を……」
 その言葉は主人の声に遮られた。
「あれ、煙でしょうか?」
「え?」
 私は主人の視線を追った。木々の間から、確かに一筋の黒煙が立ち上っていた。
 あれは、あの方角は――
「し、七條さんのお屋敷のほうじゃないですかね?」
 私の心を代弁するように主人が慌て声で言った。
 弾かれたように立ち上がって、叫んだ。
「車を、車を貸してください!」

 日が今しも沈もうとしている。主人の運転するワゴン車の中、私は鞠を胸にかき抱いて必死に祈っていた。
 だが想いとは裏腹に、屋敷に車が近付くにつれ、それはあらわになってきた。
 見間違いではない。確かに煙が――炎が、目指すその場所から暗い空に高々と上がっていた。

 車が止まる。開け放ったドアもそのままに、私は屋敷の大きな木造りの門へ駆け寄った。
「先生、危ないですよっ」
 主人の声が背中から追いかけてくる。その一瞬後、目の前で轟音が響き、門の屋根の一角が崩れ落ちてきた。開いたままだった門は再び木に塞がれてしまった。
 私は崩れ落ちた木の塊りにすがりついた。熱い。どうしてこんなときに限って空気が乾いているのだろう。あまりに炎の勢いが強すぎる。
「消防はっ?」
 叫んだ。
「電話はしておきましたが、消防署は村の一番遠いところにあるんですよ。あと二、三十分は――
 主人の声を聞きながら、私は木のかけらを必死に取り除いた。ぼろっと一角が崩れて、顔の高さのあたりに小さな隙間が出来た。
 そこに――
「智樹!」
 門の向こう側に、少年が立っていた。
「先生」
「智樹! こっちへ来るんだ!」
 私は隙間から腕を差し入れ、大声で叫んだ。
 だが智樹はゆるゆると首を振り、
「……先生、鞠は?」
 静かにそう言った。私は鞠を抱いたままだった。
「鞠は、鞠はここにある。いいから智樹、早く……」
「鞠をこっちに放ってください、先生」
「何を言ってるんだ! 来るんだ智樹!」
「鞠を、下さい」
 何度呼んでも少年の表情は動かなかった。私は逡巡し、ままよと鞠を隙間から押し込んだ。
 鞠は一回弾んで智樹の足元に転がっていった。智樹が鞠を拾ってこちらへ一歩二歩と近付いてくる。
 だが私の腕が届かないぎりぎりの場所で、ぴたりと足は止まった。
「智樹……」
「今までお世話になりました先生。僕らに優しくしてくれたのは、あなただけだった」
「智樹お願いだ。こっちへ来てくれ……。私は、私は君たちを救いたいんだ」
 わけのわからぬまま、私は懇願するように言った。
 智樹は微笑んだ。
「救われるんです」
 そう言って、鞠を抱えた手をゆっくりと持ち上げて見せる。私、は。
「と、智樹っ。それは、そんな」
「さよなら、藤野さん。ありがとう」
 少年は深く一礼してきびすを返し、ゆったりと屋敷の奥へ向かって歩き出した。
「やめろ! 待つんだ! 智樹、智樹ーっ!」
 私は木に組み付いたまま無我夢中で叫び続けた。あらん限りの声で、少年を呼び続けた。
 嘘だ、そんなはずがない。
 私は目がどうかしているのだ。全て錯覚だ。
 でなければ見えるはずがない。思うはずがない。

 少年の手が、赤く濡れていたなどと!

「先生危ない、離れんと駄目ですっ」
「嘘、だ……」
 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!
「智樹ーっ!」
 主人が私を門から引き剥がして後ろに倒れこんだその瞬間、まるで砂山の芯を抜いたかのように、木造りの門は地響きと共にばらばらに崩れ落ちた。
 そして私は見た。
 屋敷を包む業火を。
 それはまるで。


『赤い鞠を、お前にあげる――


「赤い……」
 力の抜けきった私の耳に、火事を告げる消防車の警報音が遠く聞こえてきた。

           ◇

「お屋敷の跡に行ってみませんか」
 民宿に寝床を借りていた私のもとに雑貨屋の主人が訪ねてきたのは、火事から一週間目のことだった。
 私は去らぬ梅雨と共に未だ村に残っていた。
 何しろあの屋敷に暮らしていた人間だということで、警察の事情聴取を受けねばならないということがあったのである。
 屋敷のあちこちに撒かれた灯油の痕跡から、警察は放火だと決めたらしい。
 私も放火犯候補に挙げられていたのだろうが、明確な不在の証明があったからか、それについての尋問などは無かった。
 警察との話の中で、ひとつ気になることがあった。
 沙矢の死が警察に届けられていなかったようなのである。私はあの事故の後、すぐに連絡を入れたものと思っていた。
 しかし屋敷の人間が全員いなくなってしまった今となっては、そこにどんないきさつがあったのかは知る由もない。
 そう。私はただ一人の存命者だった。
 屋敷内の全ての人間が、あの炎の中で――
『妙な話です。全員死亡というのは。年寄りばかりだったわけでもないし、誰か逃げおおせていてもおかしくないんですがね』
 そんな警察官の言葉に、私は何も返せなかった。

「屋敷へ? 入れるんですか」
「ええ、現場検証も終わっていますし。役所のほうに頼んできましたから」
 私はすぐにその誘いを受けた。事情聴取が済み、東京へ帰るきっかけを探していた頃だった。
 改めて別れを告げに行こうと、心に決めた。

「もうほとんど何も残っていないそうですがね」
 車を降り、屋敷へと歩を進める。
 主人の言葉どおり、炎と放水とで庭も建物も見る影なく崩れ荒れ果てていた。あの日私がこの手に触れた木造りの門も、今やただの黒い炭と成り果てている。
 村から屋敷に至る狭い林道は消防車の進むを拒み、私たちが呆然と座り込むその前で、猛る炎は全てを焼き尽くした。
「無残なものですね」
 瓦礫の中を歩きながら、しかし私は不思議と落ち着いていた。
 そして不謹慎にも思う。
 止まっていた時が、やっと動き始めたようだ、と。

 私達は屋敷の奥へ奥へと歩き、唯一形の残る建物の前で足を止めた。
 それはあの土蔵であった。
「さすがにこれは焼けなかったんですな。いやはや、他はひどいもんだ」
 黒ずんだ漆喰の壁をぱんぱんと叩いて、主人が感心したように言った。
「この中のものは全部村の所有になるんですか?」
「そうらしいですよ。七條さんには他に親戚がいなかったそうで」
 それは私も聞いていた。
 遺産でそれほど悩まずにあの世へ逝けますよ。
 そんな当主誠吾郎の言葉が思い返される。
 私は鉄作りの扉に手をかけ、軽く引いてみた。
「あっ」
 動いた。
 中が見たい――そう思った。
「入ってみましょうか、先生」
「えっ?」
 まるで心を見透かされたようで、私はびくりとした。
「なあに、見るだけなら構いませんよ。どうせそのうち博物館行きです」
 好奇心の強い主人が笑う。
「そう、ですね」
 主人の提案に乗る形で、私は望みどおり重い蔵の扉を開いた。

 蔵の中は暗く、空気が湿気ている。外からはかなり大きく見えたのだが、物がほとんど満杯に詰まっているため、実際どれほどの広さなのかはわからなかった。
「やあ、こりゃ凄いなあ」
 奥にはとても入れそうになかった。主人がきょろきょろとやっている後ろで、私はふと年代物の箪笥の陰になった一冊の本に目が止まった。
 すっかり黄ばんだその本を慎重に取り上げて、ぱらぱらと中をめくってみる。ほこりがひどい。いつの時代のものか、かろうじて字が読み取れるほど。意味はほとんどわからなかった。
 が、紙が終わりかけた瞬間、私は憶えのある文句をその本の中に見つけた。
 数枚めくり戻り、目を走らせる。
「手鞠歌だ……」
 そう、そこにはあの手鞠歌の詞が、一語一句たがわずに書かれていたのだ。
 指で字をたどり、唇で文句をなぞる。
 ひとつ、ふたつ、みっつ……


 よっつ潮鳴り遠く聞き 静かの園に石楠花開く
 いつつ御形に降る雪の 五色に溶くは小春風
 むっつ娘のかんざしに 紫詰め草採り送ろうか

 てんてん てまり てんてまり


 私ははやる思いで紙をめくった。だが予想に反し、歌はそこでふつりと終わっていた。
 やはり、先は存在しないのか?
 そう思ったとき、つまんでいた紙がかさりと横にずれた。
 貼り付けてあるのだ。
 私は本を破らんばかりの勢いで詞の書かれた紙を剥がし、裏に返した。
 そこには私の求めているものが、確かにあった。
 だが、これは――

 私は眩暈を覚えて背後の壁にもたれかかった。
 喉が急速に渇いていく。声が、かすれる。
「これは……なん……」
 何という、何ということだろう。
 忘れられた手鞠歌。
 止まった時の中に消えた最後の一節。
 古い額の中に閉じ込められた、色褪せた絵画。
 真紅の炎に絵は焼け落ちた。
 時は再び動き始めた。
 これは、起こるべくして起こったことなのか。
 全て、義務付けられていたことだったと言うのか。
 遥か昔から、全て――

 私は紙を両手に持ったまま、ふらふらと足をもつれさせながら蔵を出た。
 蔵の中の闇と湿気に凍りついた体が光を求めている。だが、相変わらず空は暗雲に閉ざされ、焼け跡が地面を覆い、そして……


 紅い、紫陽花。
 紅い、紅い、梅雨の花。
 目蓋の裏に、何かが揺れる。
 無声映画のフィルムがゆっくりと回りだす――



  紺色の着物を着た少女が、大人の手に引かれて歩いている。
  歩む二人の姿をいくつかの人の目が見つめている。
  池の前で二人の足が止まる。少女が首を振る。
  手が池をぴたりと指し示す。
  少女は池の縁に立ち、身を乗り出す。
  深い霧をすかすように懸命に指の先を見やる。
  池を指差す手は次第に少女の後ろに回り、
  少女の背を、強く――

「な、なん……やめ」

  声が、鈴の音のような幼い叫びが、頭の中に響く。
 『たすけて。にいさま、せんせえ、たすけ――
  冷えた空気にしぶきの軌跡を、池の面(おもて)に波紋を残し。
  後に残るは言葉なく池を見つめる数多の目と、目と、目と。
  ゆらり揺れる赤い鞠。



「やめろ、やめてくれ」
 幻影を引き剥がそうと必死に振りかざす手は、ただ虚空を斬るばかり。
「やめてくれ――
 違う。
 違う、狂っているのは私ではない。
 狂っていたのは。
 狂って、――ああ。


 狂っていなかった人間こそ、私だけであったのだ!


「先生、どうしたんですっ?」
 蔵を回り込んだ私を追ってきた主人の声が、私を現(うつつ)に連れ戻す。
 鮮明な白昼夢が、霧に溶け、消えた。
「……すみません、少し、いえ、なんでもないんです」
 荒い息をつきつつ、私は手を振った。
 ゆっくり、ゆっくり、視線を戻す。主人が言う。
「ああその紫陽花、よくまあ、あの火事で焼けなかったもんですなあ」
 無残に焼け崩れた灰色の木々の残骸の中に、炎に包まれる前と変わらず、いやむしろ――あの業火を映し取ったかのように、なお色濃く咲き誇るそれは。
 赤い手鞠と言うよりは、
 紅く焼け爛れた、人の――あた

「……ん、その丸いのは?」
 言って、主人は地面を指した。
 紫陽花の根元。よろよろと近寄り手に取り上げる。
 きっと内心予想がついていたのだろう。こびりついたすすを落としてその丸い物体の正体がわかっても、私はそれほど驚かなかった。
 それは少年に渡した小さな赤い鞠だった。
 両眼から涙が吹きこぼれたのが先か、梅雨の雨が頬に落ち始めたのが先か、私にはわからなかった。



【七條家における火災についての暫定報告書】

 敷地・家屋ほぼ全焼 裏手の土蔵のみ残存
 死者 男性七名 女性五名 幼児二名
 (以上いずれも焼死)
 生存者 なし 
 ただし屋敷に住み込み中の家庭教師の男性(東京の社に勤務)のみ火災当時不在(証明有)のため存命
 現在同男性に事情聴取中
 現場に多量の灯油の痕跡残留 火災原因は内部の人間による放火と見られる

 ・備考・
 死者のうち十三名の遺体は全て建物内にて発見
 七條智樹(十二)とみられる遺体のみ裏手の土蔵近くにて発見
 当主七條誠吾郎の病状は当時悪化の傾向 主治医により余命一か月と診断
 相続に関し専属の弁護士と数度会合との証言有り



           ○

 水面の油膜は混ざり崩れて小さく散らばり、年経るごとに曖昧で朧なものになっていく。
 滝のような記憶の流れにもまれ、千切れて、それでも決して溶け消えることは、ない。
 ふとした弾みに細切れの粒子は結合し、膜を成し、断片的ながら鮮明な過去を、私の頭に蘇らせる。
 そう、今日のような、雨のそぞろ降る日に――

「もう梅雨ですね」
「ん? ……そうだね」
 遅い相槌を打って、生徒の視線に習い、目を窓の外に向ける。
 壁にもたれかかるようにして咲いている、青色の。
「紫陽花、は」
「え?」
「紫陽花は土の成分によって色が変わるそうだね」
「ああ、聞いたことあります」

 あの日以来、赤い紫陽花を見ていない。
 本当に存在していたのかと、疑うことすらある。

「うちのは青ですね」
「まあ、それが一般的だろうね」

 だが私は知っている。

――私は、珍しい紫陽花を見たことがあるよ」

 忌まわしくも美しい、あの紅い紫陽花を、知っている。



 過去は日ごとに積み重なり、思いは夜ごとに遠くなる。
 油膜は破れ、再び小さな粒子となり、記憶の波に散っていく。
 後にはただ幻惑だけを残し、また平凡な日常がとくとくと時を刻み始める。
 誰もが知っている。人はいつまでも何かを引きずってはいられないと。
 だが――だが毎年この季節が巡ってくる度、私はどうしようもなく口ずさみたくなるのだ。
 私一人の心に封じ込めた古の手鞠歌を。
 時の止まった屋敷と共にこの世から去っていった、二人の幼子に捧げる悲しき鎮魂歌を――


 ななつ撫子泣き揺れる 名も無き人の手の内に
 やっつ蓮浮く池の端に 花枯れゆくは梅雨の朝

 ここのつ紅紫陽花に 狂う御霊の闇衣
 ときの焔に燃え堕つるかな。

 てんてん てまり てんてまり……



 ―了―

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 部誌より再録。
 警察関係の描写のへたれぶりに後悔しきりです……
 しかし結局一番大変だったのはたった十行の手鞠歌でした。

白飯さんから頂いたイメージイラスト

<03/03/11>
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