てまりうた


 私があの子供達に出会ったのは、もう十年も前のことになるだろうか。
 その頃の自分の年齢と今の年齢とを考え、指折り数えて、そう、確かに十年と、そんな手順を踏んで初めて納得するほどに朧げな、ともすればあれは夢であったのではないかと錯覚さえするような、遠く霞んだ思い出。あの出来事は、水とその表面に張った厚い油膜のように、混ざり溶け合うことなくしかし決して切り離すことの出来ぬものとして、今もただ私の記憶の中に在るのだ。
 今日のような日は私にあの出来事を思い出させる。あの日も今私が見上げているのとよく似た、今にも――そう、"今にも泣き出しそうな"という月並みな表現がまさにふさわしい、暗く澱んだ雲の立ち込める空が、漫然と頭上に広がっていた。

 その家を初めて訪れた時、呆気に取られて思わずその場に立ち尽くしてしまったのを憶えている。
 家庭教師という職に就いて二年目を迎えた年のことだった。個人の家庭教師ではなく、その頃はまだ珍しかった企業勤めの家庭教師である。初めて担当した生徒を無事志望校に合格させてほっとしていた私は、ある日、唐突に上司からこんな言葉をもらった。藤野――というのが私の名だが――君、ちょっと住み込みで稼ぎに行く気はないか。
 その仕事の内容というのが、山梨県の旧家、七條家での家庭教師だった。
 家が奥地にあって通うことが出来ないので、住み込みという面倒な形になる。その代わり月謝は高く出すと向こうも言ってる。もちろん君にも特別手当を払おう――上司の言葉に一も二もなくうなずいた。経済状況の良くない私には願ってもない話であったし、特に家庭持ちにとっては面倒であろう住み込みというスタイルも、「旧家」という響きに気後れしこそすれ、それほど大儀なことには感じられなかった。
 そして五月も半ばを過ぎた頃、私は七條家の門の前に立っていた。

           ◇

 村の中心部から車で三十分。例年より二週間も早く訪れた梅雨の灰色の空気は、それでも山を遠く背にどしりと構えた屋敷の大きさを全て覆い隠すには至っていなかった。
 渡された地図の赤丸を指でなぞっては目の前の屋敷を見つめ、という意味のない行為を私は何度も何度も繰り返した。驚きを超え、動揺していた。東京で生まれ東京で育った私にとっては旅館としか思えないような規模の大きさであった。
 風はそよとも吹かず、濃い霧がなお重くかぶさってくるような心持がしてくる。私は意を決して木造りの門に歩み寄り、呼び鈴を鳴らした。
「はい」
「あ、わたくし東京から参りました川島家庭教師センターの藤野と申します」
 声が上ずっていた。
「家庭教師の方ですね。伺っております。少々お待ちください」
 はい、と答えたつもりだったが、音にならない息が口から漏れただけだった。ばつの悪さと情けなさを感じて顔を伏せていると、さほど間も置かずに門が開いた。
「どうぞお入りください」
 中から現れたのは先ほどの声の主と思われる和服姿の女性。私は咄嗟に頭を下げて、促されるまま後に続いて門を抜けた。
 広い庭は整然としており、その静けさに寒気さえ感じられる。何か口に出したほうが或いは楽かと必死に頭を巡らせたが、気の利いた言葉一つ浮かばず、私はただ黙って古風な建物へと伸びる石畳の上を耐え歩いていた。
 不意に、背後から高い声がかかった。
「お客さん?」
 私はほとんど飛び上がるようにして振り向いた。立っていたのは鶯色の着物を着た一人の少年だった。
「まあ智樹様、風邪の具合はもうよろしいんですか?」
「お客さんなんでしょう。僕が父さんのところに案内するから、春江さんはもういいよ」
 慌てた女性の様子とは裏腹に、少年は至極落ち着いてそう言った。ただでさえ色白の顔は能面のように動かず、声にも子供らしい柔らかさがない。私は驚きに忘れた寒気がまた戻ってくるのを感じた。
「いえ、そのようなわけには……ほら、この方が家庭教師さんなんですよ。智樹様にご案内させたら私が旦那様に叱られます」
 しどろもどろになっている女性に、少年はそれ以上何も言わなかった。女性がそっと安堵の息をついたのが、私にはわかった。
「さあ、藤野さん」
「あ、はい」
 返事をしつつ、私は少年から目を離せなかった。少年は相変わらずの無表情でしばらくこちらを見つめていたが、つときびすを返すと厚い霧の中へ姿を消した。
 私は無意識に何度も頭を振っていた。

 当主の七條誠吾郎は病床の身だとかで、寝所での会話は形式的にすぐ終わった。
 息子の智樹は小学校の六年生なのだが、通っていた学校が今春廃校になった。代わりに通うことになる学校は家からあまりに遠い。ならば家にいたまま勉強をさせ受験に備えたほうがいいだろうと貴方を雇った……
 布団から半身を浮かせて咳をする男の姿は、とてもあの幼い少年の親とは思えぬほど老い衰えていた。

 寝所を出てすぐに部屋に案内すると言われたが、私は庭を歩かせて頂きたいのでと断った。なら車の荷物だけ運んでおきましょうと言う女性と共に、再び庭へ出た。
 少年が立っていた。
「智樹様……」
「父さんとの話はもう終わったんでしょう? 今度は僕が庭を案内するよ」
 まるで私たちの会話を聞いていたかのように言う。
「しかし」
「私なら構いませんよ。これ、車の鍵です」
 あまりにも自然に、素早く言葉が出てきたので、私自身驚いた。
「そうですか……お荷物はお部屋に置いておきますね」
 私の手から鍵を受け取って頭を下げると、女性はそそくさとその場からいなくなった。躊躇いを押し込めて、私は少年に話し掛けた。
「智樹君、だったかな」
「智樹でいいです。藤野先生でしょう、東京から来た……。この家はあまり人が来ないから、楽しみにしてたんです」
 思いがけないその答えと年相応の表情とに、私は別の戸惑いを覚えてしまった。
 今目の前に立っているのは、数十分前に女性と話していた少年だろうか? いや、あの時の少年のほうが、本当は存在しないのではないか?
 滑稽な疑いが頭の中を巡る。
「風邪を引いていると言っていたけど、大丈夫なのかい」
 そう聞いたのは、確かめる意味でもあったろうか。
「風邪だなんて、そんな大したことじゃないんです。皆が騒ぐから」
 目を伏せて答える、まるで幼さを感じさせない、いや、かと言って大人びているとも言いがたい独特なその表情は、確かに先ほど見た少年のものだった。
 私は知らず知らずのうちに深く息を漏らしていた。

 霧の落ちた庭は初見から想像された以上に広く、庭と言うよりは、むしろ公園と言ったほうが近いように思えた。丁寧に手入れをされた木々草花は、青空の下にあればさぞ見栄えがいいことだろう。
 少年の隣に並んでゆっくり足を勧めていると、木の向こうからかすかに声が――歌が、聞こえてきた。


 てんてん てまり てんてまり
 ひとつ日暮れの緋衣草 甘い蜜香に蝶ぞ寄る
 ふたつ文待つ庄屋どの 藤の女の便りはまだか
 みっつ水面に流るる日 都忘れと咲き散りぬ

 てんてん てまり てんてまり
 よっつ潮鳴り遠く聞き 静かの園に石楠花開く
 いつつ御形に降る雪の 五色に溶くは小春風
 むっつ娘のかんざしに 紫詰め草採り送ろうか

 てんてん てまり てんてまり……


――妹です」
 足を止めた私が問う前に、智樹が静かに言った。
「沙矢」
 呼びかけて、低い並木を回り込む。
 蓮の浮かぶ大きな池。そしてその横には、紺色の着物を着た幼い少女が立っていた。
 ころころ、と赤い鞠が私たちのほうへ転がってくる。
 少女はこちらに振り向いた。
 小さな白い顔。肩で切り揃えられた濡れ羽色の髪。年の頃は六、七歳といったところだろうか。
 人形のようだ。使い古されたその言い回しを、私はそのとき咄嗟に思いついた。
「あまり池のそばで鞠をついてはいけないよ。この池は深くて、危ないからね」
 足元の赤い鞠を拾って妹の手に渡してやりながら、智樹は穏やかにさとした。
 うん、と鈴の鳴るような声を漏らして少女がうなずく。そして不意に、
「にいさま、だあれ?」
 黒目がちな瞳がこちらを向く。ぼんやりとしていた私は、その視線に情けなくも思わずすくんでしまった。
「藤野先生。今日からうちに泊まるんだよ」
「ふじの、せんせえ」
 たどたどしく名を反復する妹に笑んで、智樹はそっと頭を撫でてやっている。
 その光景に私は何を挟むこともできず、代わりに顔を上げて向こうの池に目をやった。
 大きさも相当なものだが、なるほど深さもだいぶありそうである。こんな場所で少女が一人鞠をついていて、屋敷の人間は誰も注意しなかったのだろうか。これぐらいの年の子供の危うさなど、誰でも承知していることだろうに。
「藤野先生?」
「あ、ああ? ごめん」
 智樹に呼びかけられて我に帰った。どうもぼうっとしている。普段はこんなことはないのだが、戸惑いと好奇心がごちゃごちゃと絡まっているようで、胸のつかえが落ちない。
 場違いなところに来て緊張しているのだろう。二人の後を追って歩きながら、繰り返しそう自分に言い聞かせた。

           ◇

 初日の不安とは裏腹に、私は割合早く七條家に馴染むことができた。
 と言っても家そのものに馴染んだとは言いがたい。元来子供好きな私は、どこかよそよそしい大人たちにはあまり接触せず、もっぱら子供達と共に――まあそれが仕事でもあるわけなのだが――過ごしていた。
 幸いにもと言うべきか、幼い兄弟もよく私になついてくれた。あるいはこの屋敷内の人間の中で、私に対する親しみが一番大きいのではないかと思えるほどに。
 智樹は育った環境のせいでもあるのだろうか、最初の印象どおり随分と大人びている。頭もよく、教えたこともすらすらと憶えていく。そのような、ある意味で「子供らしくない」ところが、家の後継ぎであるという要因も加わって、大人達を近付きがたくさせるのだろう。本人も意図的に避けている節がある。
 だが私はそれ以上に、屋敷の人間が常に見せる、妹の沙矢への対応が奇妙に思えていた。
 「見せる」という言葉は正しくない。
 彼らは沙矢への対応を何も「見せない」。対応しないのである。
 沙矢は今年五歳になるという(初めて見たときにもう少し上と予想したのは和装のせいだろうか)。普通に考えれば遊び盛りの年頃だ。その子供ながらに整った顔立ちは、私が子供好きであるという掛け値を除いても確かに可愛らしい。
 だが、屋敷の大人達は少女を構おうとはしない。
 沙矢はと言えば、決して自己主張をしない子ではない。しかし同じ年頃の子供達の快活さと比べるとすると、首を傾げざるを得ないだろう。
 智樹や私と遊んでいるとき以外は、いつも一人で静かに鞠をついている。そばには女中も誰もいない。今までに私が知り合った子供達を考えるとおよそ信じがたい光景である。
 これではまるで、異質な存在として扱われているようではないか――
 そんな私の考えがあながち間違っていなかったことを知ったのは、屋敷に来て二週間ほど経った日のことであった。

 その頃になると、私は暇を潰しに村の中心部まで、ときには智樹などと一緒に散歩がてらぶらぶらと出ていくようになった。
 そしていつしか、村から屋敷に至る道沿いに一軒ひっそりと建つ雑貨屋の主人と親しくなった。主人は私よりもだいぶ年上だったが気さくで人がよく、また話し好きでもあるようで、村のことなど何でも教えてくれた。
 そんなある日、一人で店を尋ねた私に、主人が言った。
「しかしね先生、かわいそうなもんですよ。沙矢ちゃんも本当にあの家の子だったらねえ」
「え? どういうことです?」
「ありゃりゃ。知らなかったんですか。これは失言だったかな。……いえね、大きな声じゃ言えないんですがね、つまりそのう……不義の子ってやつなんですよ。沙矢ちゃんは。お妾さんとの」
 その言葉で、やっと私は合点がいったのだった。

 智樹の母親が亡くなってすぐ、若い女性が赤ん坊の沙矢を抱いて七條家に現れた。センセーショナルな事件に一時村も騒然となったそうだが、当主の誠吾郎は意外にもすぐに沙矢を自分の子として認めたという。
 女性はやはり七條家の遺産が目的でもあったろう。だが後妻として納まる前に、彼女もまたこの世を去ってしまった。
 そして幼い少女が残された。
 亡き本妻を慕うもの、名分を気にする者、突如として曲げられた遺産相続に気を奪われる者。様々な思いに、屋敷の大人達は、沙矢を見ないのだ。

「智樹君も知ってると思いますよ。それでもあんなに沙矢ちゃんを可愛がってねえ。優しい子ですなあ」

 智樹は周りの大人達をどう見ているのだろう。父親にどんな想いを抱いているのだろう。
 あの初めて出会ったときに見た、虚ろな能面の顔。
 あれが全てを物語っているのかもしれない。
 何の感慨すら、持つに値していないのかもしれない。


 よっつ潮鳴り遠く聞き 静かの園に石楠花開く
 いつつ御形に降る雪の 五色に溶くは小春風
 むっつ娘のかんざしに 紫詰め草採り送ろうか

 てんてん てまり てんてまり……


 そして今日も沙矢は鞠をついている。
 鈴の鳴るような細い声で紡がれる手鞠歌は、いつでも同じものだ。何度も聞くうちに私もいつのまにか詞を全て憶えていた。
 私は縁側に腰掛けて鞠つきを眺めながら、同じく隣に座る智樹に尋ねた。
「あの歌、七から先はないのかい」
 初めに聞いたときは、智樹が声をかけたので途中で途切れたのだと思っていた。だが違うのだ。沙矢はこの歌をいつも「むっつ」で終えるのだ。ずっと不思議に思っていたが、聞こうとして伸び伸びになっていた。
「あるんじゃないかな。でも誰も知らないんです」
「知らない? 屋敷の人も?」
「はい。父さんも知らないって」
 不思議なものだ。あのような手鞠歌なら普通は十まで数えるはずである。
 歌には数ごとに音を揃えた花の名前が入っている。緋衣草(ひごろもそう)、藤、都忘れ、石楠花(しゃくなげ)、御形(ごぎょう)、紫詰め草。あまり聞き慣れない名前もあるが、あとで調べてみると、緋衣草とは東京の街中でもよく見るサルビアのことだった。御形はハハコグサ、春の七草の「ごぎょう」のことだ。
 七から先にも同じように花の名前が入っているのだろうか。とすると、「な」「や」「こ」「と」の文字で始まる花……いや、「よっつ」「いつつ」の節が「し」「ご」で始まっているところを見ると、その四文字に限ったことではないだろう。しかし七から先は一体どこに消えてしまったのか? このあたりだけで歌われるものなのかもしれない。少なくとも私はこの手鞠歌を過去に一度も聞いたことはないが――
 取り留めもないそんな憶測は次第に深くなっていき、以来暇があると私は歌の続きを考えるようにさえなってしまっていた。

           ◇

 七條家に滞在し始めて早一か月が経とうとしていた。
 梅雨の霧は日増しに濃くなり、灰色の空の下、雨の匂いがなお強く地面から薫り立つ。
 詩に描かれるような幻想的な風景を目の前に眺めながら、私はその日もぼんやりと縁側に座って沙矢の手鞠歌を頭の中で反復していた。隣にはいつものように智樹が腰掛け、静かに本を読んでいる。

「にいさま、せんせえ」
 鈴の鳴るような声に私は顔を上げた。沙矢が霧の中から歩み出て、私たちを呼ぶ。
「あのね、さやのまりが、どこかへ行ってしまったの」
「鞠が?」
 智樹は本を置いて立ち上がった。
「まりが、ないの」
 繰り返し言う。いつもは気に入りの赤い鞠を抱えている手が、所在なげに下にさげられている。
「知りませんか?」
 智樹に振り返られて、私は首を振った。
「見ていないな。昨日は雨だったから、一昨日どこかに置き忘れて、そのままになってるんじゃないのかな?」
 沙矢は首をかしげる。私は一昨日の記憶を頭の中でたどってみたが、沙矢が実際に鞠をついていた場面しか思い浮かばなかった。
「大丈夫だよ、どこかにきっとあるから。探しに行こう」
 智樹に促され、沙矢は声なくうなずく。私も腰をあげて子供達の後を追った。

 縁側の下、並木の根元、建物の影、そして常々近づいてはいけないといっている池の周りさえも、私達は鞠を探して歩いたが、影もない。屋敷の人間に尋ねても首を振られるばかりで一向に見つからなかった。
 探す範囲はさして広くはない。それほど労せず見つけられるだろうと思っていたのだが、当てが外れたか。
「ないな……」
 智樹達と別れて一人屋敷の裏手を歩く。時代のある土蔵が立っているだけのこの辺りには、普段ほとんど人が来ないので、あまり期待はしていなかった。
 土蔵の中にも珍しいものが眠っているのだろう。一度中を見てみたいものだな――などと勝手なことを考えながら、私は漆喰の壁をさらに奥へと回り込んだ。
 地面に落としていた視線を上げる。そして。
 息を、飲んだ。

 それは紫陽花だった。
 梅雨になればそこかしこで見られる、ありふれた花。
 もちろん私は、その存在に驚いたのではない。私が目を奪われたのは、青い紫陽花の中にひとつ咲いた。
 毒々しいほど鮮やかに彩られた、赤い紫陽花。



 ぱきり、と枝の折れる音で、私は瞬時に振り向いた。
 音の主は智樹だった。私と目を合わせると(私は相当焦ったような顔だったのだろう)、不思議そうに言った。
「……鞠、ありましたか?」
「あ、いや」
 私はゆっくりと息を吐いて、胸に手を当てた。驚くほど心臓が高鳴っている。
「見つからなかったよ。ここは来たばかりで探していないけど」
 嘘をついた。私自身、自分がこの場に来てどれほど経ったのかわかっていなかった。
 でも、と言って智樹は辺りを見回した。
「ないみたいですね。ここには人も来ないし」
「そのようだね」
 私が何とか相槌を打つと、智樹の後ろから沙矢が進み出てきた。
 私の横をすり抜けて、歩いていく先は、赤い――
「まり」
 低い位置に咲いた緋色の紫陽花を両手に抱えるようにして、沙矢はぽつりと言った。
「まりよ。にいさま」
 智樹が少女に歩み寄る。
「そうだね。似ているね……。でもこれはお花だよ。沙矢の鞠じゃない。ほら、手を離して。お花が壊れてしまうよ」
「まり――
 沙矢は丸く咲き集まった緋色の花を見つめたまま、そっと手を下ろした。
「その紫陽花は、元々ここにあったのかい?」
「はい。随分前からありますよ。毎年この一本だけ真っ赤に咲くんです」
 事もなげに智樹は答えた。
 私はこの場所に来たのは初めてではない。初めて庭を回った時に歩いたはずだ。それなのにこの紫陽花が突然現れたように思ってしまったのは、そのときは花がまだ咲いていなかったせいだろうか。
「この紫陽花が何か?」
「あ、いや、少し珍しいと思って」
 そうだ。珍しいがそれだけではないか。紫陽花の色が一つでないことは知っているし、赤い花など何度も見たことがある。
 たかが花ひとつで何故あれほど動揺したのだろう。
 私は首をひねり、自分を滑稽だと笑ったが、その突如として沸き上がった感情を否定し消し去ることは出来なかった。

「沙矢、あの鞠はどこかへ消えてしまったみたいだね。でもおうちにまだ他の鞠があったろう? 明日からそれを使って遊ぼう」
 智樹はまだ緋色の紫陽花を見つめている沙矢の隣にしゃがみこみ、そう言って頭を撫でた。
 だが沙矢はぶんぶんと首を振った。
「いや。赤いのよ、赤いのがいいの。さやは、赤いまりがほしいの……」
 必死に言葉をつなぐ沙矢の瞳からは、今にも涙が零れ落ちそうだった。
 智樹は赤いの、赤いの、と繰り返す沙矢の頭に手を置いたまま、そっと小さく息をついた。
「じゃあね、今度にいさまが沙矢に赤い鞠を買ってきてあげるから。それまでは我慢しよう。すぐに買ってきてあげるからね」
「ほんとう? ぜったい、ぜったいよ」
「うん、だからほら、泣いちゃだめだよ」
 智樹が微笑む。沙矢が涙の溜まった目をきつく拭う。
 兄妹の背後には緋色の紫陽花が咲いている。
 まるで絵画のようだ。私は思った。

「さあ沙矢、おうちに戻ろうか」
 智樹達の後ろについて蔵を曲がろうとしたところで、私は一人立ち止まって後ろを振り返った。

 毒々しいほど鮮やかに彩られた、赤い紫陽花。

 その丸く形作られた花は、湿った霧の中でなるほど赤い鞠のようにも見えた。
 だが――だがそう納得してなお、何かが胸の中にうずくまっている。ざわり、と膨れ上がるこの感情は?
 これは、違和感?

 屋敷に来て一か月。
 私はこの場所に慣れたか?
 慣れたと言っていい。
 では初日のような動揺は消えたか?
 動揺は消えていない。
 私は、今も確かに動揺している。

 あの兄妹の姿を見て、絵画のようだと思った。
 そう、絵画なのだ。
 重い霧、古風な家、和装の人々、そして赤い紫陽花と終わりを知らない手鞠歌。
 滑稽だと知りながら、その言葉は確信へと歩んでいく。
 そして思う。
 何十年も昔に描かれた時の進まぬ絵画の中に、今、私は立っているのだと――


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