Dear tear


 弟が死んで一年が経った。人はもう一年と言い、私はまだ一年と言う。時間なんて単なる日の昇り沈みに過ぎない。私一人立ち止まっても地球は回り続ける。
 両親を早くに亡くし、以来支えあうようにして生きてきたたった一人の肉親。小さな命はひき逃げという陳腐な事件でいとも簡単に壊された。
 何も残っていない。在るのは枯れない涙だけ。

           ◇

 夢を見た。
 独りきりでアスファルトの道を歩いていた。なぜだかすぐにこれは夢だと感じた。目は覚めなかった。
 横手に胸の高さほどの塀があり、眼下には海が広がっている。私は海の上に作られた橋状の道路を歩いているのだった。
 道路の上には白いセンターラインが引かれているが、車の姿はまるでない。目の届く限り――道は前にも後ろにも遥か遠くまで続いている――の場所にいるのは私ただ一人だけだ。
 足を止め、コンクリート塀の頭に両腕を、その上にあごを乗せ、背を丸める。水平線に太陽が近付き、空と海とを赤に、橙に、紫に、じんわりと染め上げていた。
 いつのまにか頬にとめどなく涙が伝っていた。

 どれほど時間がたっただろう。日が落ちていないところを見るとほんの少しの間だったのか、或いは夢に時間など存在しないのか。

「なんで泣いてるの」

 間近で聞こえた声に我に帰った。
 首だけを振り向かせてそちらに目をやると、すぐ隣に一人の少年が立っていた。
 赤茶けた髪の毛。心持ち吊り上がった大きな瞳。確かに会ったことも見たこともない。それでも不思議に懐かしいような気がした。
「なんで泣いてるの」
 少年は再び同じ質問を繰り返した。私の頬の涙は乾いていなかった。
 私は顔を海の方へ向け直した。波が夕陽を淡く写し取り、穏やかに揺らめいている。

「弟が死んだの」
 ぽつりと言った。

「いつ?」
「一年前」
 この言葉を言うたび、意味のない言葉を噛みしめるたび、虚しさに襲われる。
「あなたも情けないと思う? 私はあの日から泣いてばかりいる。他に何もないから」
 友人のように尋ねてくる少年に、私も友人のように話し掛けた。本当の友人でないからそう出来た。
「夕陽、綺麗だ」
 少年は質問には答えず、そう言って私と同じように塀に寄りかかった。
「ええ。――綺麗ね。とても」
 答えなんて元々いらなかったから、私もそう言った。
 かすかな波のざわめきが心地よく耳に響いた。

「ねえ。人間はどういうときに泣くのか知ってる?」
 少しの沈黙の後、少年は現れた時と同じように、唐突に質問を口にした。
 悲しいとき、嬉しいとき、感動したとき――思いつく言葉はどれも正解であって正解でないような気がした。

「心が――

 それなのに、私は泣いている。

「心が、カラのとき?」

 いつまでも、泣くしかないでいる。

「ブー。違います」
 少年は冗談めかした口調でひとこと言った。
「じゃあ、どんなときに泣くの」
 さっきまで自分が実際に泣いていたというのに、おかしな質問だとは思う。
 少年は笑って「知りたい」と聞いた。私は「ええ」と答えた。

「人間は心が一杯になったときに泣くのです」

 少年の口から出てきた言葉は、私の答えとは正反対のものだった。

 私が口を開く前に、少年はひょいと塀に飛び乗りそのまま腰掛けた。危ないと止めることすらためらわれるような、あまりに手馴れた動作だった。
 少年につられるように海を見やった。日は沈んでいなかった。きっと沈まないのだろうと勝手に納得した。
 綺麗な海だった。物悲しささえ感じるほどに。
 足を小さく揺らしながら、少年は言葉を続ける。
「急にたくさんの気持ちが心に入ってくると、心の中は一杯になってしまいます。代わりにいらなくなった気持ちが涙と一緒に流れていくのです。悲しいときには喜びが、嬉しいときには悲しみが。だから本当は悲しいときに流す涙が『綺麗な涙』なのかもしれません。動物はいつも飢えているから、心が一杯にならないから人間と同じように泣きません」
「でも私は。――心が空になっているような気がする」
「あなたの心の中には『虚しさ』が詰まっています。あとからあとから入ってくる虚しさが、あとからあとから虚しさを押し出しています。涙と一緒に」
 すらすらと紡がれる言葉が、一筋の風となって私の胸を通り抜けていく。
 私の流している涙は『虚ろの涙』なのだろうか。
 汚くもない、綺麗でもない。灰色の涙。
 きっとこの広大な海の中に零れ落ちても、混ざることなく沈んでいくのだろう。
「どうすれば人間は泣くのをやめるの」
 どうすれば、やめられるの――頭の中で繰り返し続けた問いの答えを、私は少年に求めた。

「心を空にすればいいのです」
 少年はすぐに答えた。単純なその回答を、私は問いと並べて何度も繰り返した。
「悲しいのね。忘れることでしか、涙を止められないなんて」
 私はその答えを知らないのではなかった。
 私はその答えを否定し続けていた。
 それでも少年は、言った。

「忘れないでもいいんだ」

 風が震えて胸の中で渦を巻き、すぐに消えた。

「空にするのは『気持ち』だから。『気持ち』がなくなっても『思い』は決して消えないから」
 忘れなくていいんだ。忘れないんだ。少年はどこか訴えるような口調で繰り返した。大きな瞳に揺れ光る橙色の海が映っていた。赤茶けた髪の毛が風に揺れ、夕陽と同じ色に輝いた。

 私は尋ねた。

「あなたは、なぜそんなに涙のことをよく知っているの」

 少年は小さく小さく微笑んで答えた。

「涙を流せないから」

 海が果てしなく広がっていた。道が果てしなく続いていた。いるのは私たちただ二人だけだった。
 私であり少年である世界は、沈むことを忘れた夕陽にいつまでもいつまでも照らされ続けていた。

           ◇

 目を開くといつもの朝だった。
 にじみぼやけたような、不思議な感覚が胸にうずくまっている。頬に残った涙の筋が、今朝はあまり気にならなかった。
 まだ鳴っていない目覚し時計をオフにしてベッドに腰掛ける。足を揺らしてみる。
 不意に、かりかり、というかすかな音が外の方から聞こえてきた。
 立ち上がってガラス戸に近付き、カーテンを開いた。眩しさに目がくらむ。手を顔の前にかざして片目を開くと、戸の向こうには見慣れた風景があった。
 かりかり、音が足元から聞こえた。視線を下ろすと小さな猫が戸をひっかいている。弟の可愛がっていた野良猫だった。弟が死んでからこっち、ふっつりと姿を見せなくなった猫の体はずいぶんと大きくなっているように見えた。
 戸を開くと猫は滑るようにして部屋の中に入り、私の足元に座り込んだ。抱き上げると一声小さくにゃあと泣き声を立てた。
 ふわふわとした赤茶けた毛が光に輝いていた。
 夕陽のように見えた。


 弟が死んで一年が経った。


 心の中を空にするべき日が、きっともう来ている。



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 文藝部部誌より再録。書いてみた感が強い……うむむ。
 「夕陽の沈む海を走る道路」のビジュアルではまた他で何か一本挑戦してみたいところです。

<02/11/23>
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