不知夜


 陽が落ちかけている。
 暮れ空の下、木々深い峠道を一人の男が歩いている。山向こうに薄れる日の光を追って足を早めることもなく、ゆったりと進む歩の間に、しゃらり、しゃらり、銅の輪錫が金音を刻む。纏う墨染めの衣と簡素な袈裟は確かな法姿を顕しながら、菅笠を目深にした有髪の頭の隣、肩の上に一羽の鴉がとまり、いささか異妙の体である。
 苔むした賽の神の像を過ぎ、横手に杉の立ち並ぶ道を行く法師の足が、つと、止まった。
 右に顔を振り向け、菅笠の下から木の間を透かし見るようにする。朱染めの陽に影濃い緑の中、自然のものとは見えぬ一条の彩色が落ちている。しゃらり、肩にひとつ錫杖を鳴らし、法師は道を外れて木立ちに足を踏み入れた。
 下草茂る黒土に腰降ろしたその影は、若く美しい女であった。極彩の小袖打掛けに包んだ身を年経た大杉に寄せ、地に投げ預けた足の上、石かと見える白磁色の塊を腕で包み抱くようにしている。下げ髪の艶やかな黒に、目伏せた顔がいっそう白い。
 もし。
 ひとつ呼びかけが落ちる。すうと女の目が開き、正面に数歩の間を置いて立つ法衣の人姿を見上げた。
「いかが、なされました」
 続く言葉に女はしばし沈黙を流し、やがて、
「さあ、私にも良くわからぬのです。法師どの」
 今何をしているのか、これから何をするのか。静かに、しかし厳然とした声音で、そう返した。法師がさらに重ね問う。
「その出で立ち、どこぞ卑しからぬ身すじの方とお見受けします。このような人寂しい山中に、いかな所以があって在られますのか」
 女の目が我が身を見下ろす。上等の銀朱の地の上、色様々な糸の紋様も鮮やかに仕立てた衣裳。降り来る夜に淡く光さえ散らし見せようかという、紛れもない貴人の装い。ふっと、口が薄く笑みを形作り、声を落とす。
「この姿は全てまがい物。色も華も言の葉も、飾りはみないずこかへ失せてしまった。今やこの身は裸も同じ。どうぞお捨て置き下され、法師どの」
 その言葉は淡々として響かず、ただ鳴り、消える。
 と、法師の肩上の鴉の首が動き、何事か囁き示した。法師が笠の下で眉を寄せ、先を制するように黒い嘴を撫で抑える。そうして小さく息落とすのに、女はひそやかに笑い、
「お連れは、私に戒言があると見える」
 と言う。法師が背を正し侘びの礼をする。
「申し訳ありません。どうにも偏屈者で」
 女はゆるりと首を振った。
「いえ、まさに。愚かしいと言われても仕様のないこと。いずれ空ろの身、自ずに散れば世も絶えなく流るであろうに、このうえ何を(いまし)むのか……何を惜しむのか、己が事ながら、己にしかりとせぬのです。この地に我が身を繋ぐ(かせ)の名も、形も」
 つと腕を上げ、そこに鎖が見えぬのを確かめるように眺めてから、また膝の白い(くれ)の上に戻す。
「今はただ、黙して遠い朝を待つばかり」
 深と、夜落ちた森にしじまがさざめく。
 法師の肩に銅錫が鳴り、
「愚かしいとただ捨てても、何故とただ問うてもいずれ詮無きこと。我が事の全て、内に篭る心の全てを我が胸で知る人間などありましょうか。道究めた方にも難いはず。ましてそれを語るとなれば、なおさらに果たし難い」
 しかし。朗と言葉が続く。
「しかし……独り裸の身に、山の夜気はお寒うございましょう」
 穏やかに笑む顔を見上げ、
「我が心、聞いて下さるか。法師どの」
 ひそり声が落ちるのに、
「それが私の務めにございますれば」
 しゃらり、輪錫をひとつ揺らして頷き、法師は地面に腰を下ろした。
 宵霧と申します。短く名乗り、女は静かに語り始めた。

       ◇

 武家の一子として生まれた故か、昔から事に動じぬ性であった。
 城崎(きざき)宵霧(よいぎり)姫は、笑いも泣きもせぬそうな。そんな民の噂すら耳にしたことがある。無論それは突飛に過ぎた評であったが、あまり意情や表情というものを、並の女ほどに顕し活かさなかったのも確かである。
 城崎は特別に秀でた家柄ではなかったが、領地はそれなりの広さを持ち、非常な豊かでもない、しかし貧しくはない、煩慮と言えば領境に出るや出ぬやと言う物の怪の風説ほどの、ゆたりとした郷であった。領民は城崎の名を敬って呼んだ。この穏やかな地に争いの炎が上がるなど、誰一人とて考えていなかったものだ。
 秋を迎える祭りの夜である。
 火種を投げたのは隣国の市河という武家であった。十年来の親交を布告なく破り、祭りに酔う郷に戦具に身を固めた数百の兵士が風巻いて押し寄せ、号と共に人を地を踏み荒らした。何もが一瞬の内だった。
 屋敷の内で祭りを眺めていた宵霧は、突然の侵襲に惑う女中たちを制し集め、奥部屋へと身を潜めた。そこに甲冑姿の家臣が飛び込むように現れ、叫んだ。
「姫、外へお逃げ下さい。火が参ります」
「父上たちはどうした? 母上は外にいたのだろう、ご無事か」
 返した問いに家臣の顔がこわばり、沈痛を浮かべて首を振る。その言葉無き応えひとつで、事を知るには充分だった。今は迷う時ではない。さわさわと上がる嘆き声と己の胸とに言い聞かせ、手招く家臣の後を追った。
 赤い。
 屋敷を出、顔を上げたその一瞬、眼前に広がる血と炎に染まった我が郷の姿に宵霧は瞠目した。目を伏せ惨景を拒むことすら、夢であれと願うことすら出来ぬほどの無残の様。耳裂く怒号と叫びが休みなく上がり消える。
「姫、こちらへ」
 手を引かれるまま厩に入る。家臣は逃げず隅に留まっている鹿毛の馬のくつわを取り、ごめん、と言って宵霧の身体を抱え上げその背に乗せた。自分もまたがり、
「山向こうまで行けば、頼る家がありましょう」
 言って馬の頭を外へ巡らせる。
「着けると思うか?」
 奇妙に落ち着いた胸でもって、宵霧は家臣の背に真っ直ぐ問うた。数瞬の躊躇いの間を置き、やがて答えが返った。
「わかりませぬ」
 馬は駆け始めた。

 町を蹂躙するに夢中の敵方の兵たちの目をまずは首尾よく逃れ、焼けた家と林の間を抜け、月明かりのもと単騎夜を進む。
「そなた、父上に会うたのか」
 騒乱を背中に宵霧は尋ねた。はい。低い声が返る。
「私が着いたときには、もはや息も絶え絶えの様にございました。姫を頼むと言い遺され、そのまま」
「――そうか」
「は……憎きは市河の古狢。城崎様にあれほどの恩を受けながら、なんという狂業か。この上は、彼奴めの首を落とさねば気が収まりませぬ。しかし今はここを離れねば」
 言い終わらぬうちだった。ひょうと風を裂く音が聞こえ、あ、と声が上がるが先か、矢が鎧の間から顕わになった家臣の首と馬の身体に深々と突き立った。高い苦痛の嘶きとともに視界がぐらりと回り、次の瞬間には身が地面に叩きつけられていた。脚に走った鋭い痛みに喉から声が漏れる。なんとか上体を起こして前を向くと、市河の旗印を立てた兵士の一群が林の陰から現れ、こちらに歩み寄ってくるのが見えた。
「姫……」
 細い声。吹き出す血で汚れた口がかすれた音を搾り出し、
「姫、お逃げ下さ……」
 それきり、事切れた。
 具足の鳴る音が近付く。もはや逃げようはないと知れていた。足掻いても無駄ならば、せめて城崎の誇りにもとる無様な振る舞いだけは。すうと心を冷やし、地に身を臥したまま待ち構える。
 と、不意に具足の音が絶え、代わりにざわめきが、怯えの色すら入り混じった声の波が広がり始める。不審に顔を上げると、市河の兵たちは一様に宵霧の後方に目を据え立ち尽くしていた。宵霧は足に響かぬようそっと首をねじり、それを見た。
狗鬼(いぬおに)だ」
 ざわめきの中にひとつ高く上がった兵士の言葉が、まさにその異容の姿を型に捉えた。身の丈七尺はあろうかという巨体に、袖破れた寸の合わぬ長着と袴を紐ぎれで無理矢理に締めている。両の足で立つ背格好こそ人のそれながら、褐色の毛に覆われた身の頂きに乗っているのは紛れもない犬の頭。牙覗く裂けた口から血が滴っている。手に掴んだ兵士の、二つに割れた身からもまた。
 これが境に出るという物の怪か。心中では頷きつつも、まだ我が目が疑われる。出る声もなく臥していると、その頭の上を先の矢音が越えた。矢は「狗鬼」の顔をすんででかすめ、闇向こうに消えた。それを合図のように十数の矢が異形に向けて放たれる。うおう。吠え声が響き、獣の足が地を蹴って跳んだ。一瞬後、最前に立っていた兵士の胸が鋭い爪に貫かれ、夜闇に血飛沫が上がった。
 金切る悲鳴の中ある者は倒れ、ある者は逃げ、数度の目瞬きのうちに兵たちの姿はなくなった。夜気が粛然と落ち、腕に受けた矢傷から流れる血と、それ以上の人間の返り血で紅く毛を染めた人獣が、ゆっくりと宵霧に身を向けた。一歩、二歩、緩やかに足が近付く。半身を起こし、物言わずそれを見詰める宵霧の正面に、「狗鬼」の巨体が立ち止まる。と思った次の間に、ひゅうと風裂く音高く、獣の腕が宵霧の首目がけて振り出された。
 宵霧は動かなかった。長く鋭い爪が、喉元でひたり、止まった。
 ひと凪ぎの静寂が過ぎ、やがて、
「お前、人間カ?」
 爪を宵霧の首に突き付けたまま、低い確かな人の言葉で、「狗鬼」が短く問いを発した。
 宵霧は爪から毛に覆われた腕を辿り、獣の顔を見上げた。鋭く切れた眼窩にはまった鳶色の瞳は、己の言葉の奇妙に揺らぐこともなくただ月の白光だけをその(おもて)に張っている。
「……人間に見えぬか?」
 問いに問いを重ねて返す。いや、と獣は首を振り、
「人間に見えル」
 落とした簡潔な言葉は、いっそう奇妙の色に鳴った。
「ならば何故、そのようなことを聞く」
「泣かヌ」
「泣く?」
「人間は泣くものダ」
 泣き、喚き、逃げようと暴れ足掻く。逃げられぬとわかれば、無様に命乞いをする。そういうものだ。淡々と、獣は語る。そうして、なお動かぬ宵霧をじと見下ろす。
「そうかもしれぬ。だが私の如き人間もいる。ただそれだけだ」
 簡明に言えば、
「何故ダ?」
 何故、お前は泣かぬのだ? 何を求めるのか、「狗鬼」は執拗に問いを紡ぐ。考え、宵霧は静かに返す。
「さあ、わからぬ」
 泣く理由を人に問うてもしかと答えは出ぬであろうに、まして泣かぬ理由など言葉に現せようか。わからぬ。己の胸を確かめるよう繰り返し、
「もとより逃げようにも脚が立たぬ。身を運ぼうと思えば這うよりないが、こうあっては今更に姿を隠せるわけもあるまい。殺すがいい。暴れはせぬ。もはや帰るを望む場所も失くした」
 厳然と言い落として、異形の顔を正面に見上げた。異形は獲物の顔を見下ろした。双方ひとつの声も無く、ひとつの目瞬きすらも無く、ただ月照らす二つの影の間を沈黙だけが過ぎた。
 深い不言の雲を裂いたのは、獣の不慮の所作であり、虚をつかれ漏れ出た宵霧の声であった。
「何を……」
 首から爪の切っ先が引かれたかと思う間もなく、その腕が宵霧の懐に潜り、肩の上に身が引き上げられる。急の動きに痛みが足からじんと響いた。
 ぐるりと向きを変え、宵霧を抱えたまま獣は歩き始めた。道をそれた足は木々茂る森の中へ、山へと進む。
「どこへ行く?」
 問いに答えは返らなかった。獣は黙し、宵霧もまた続く言葉を発することなく黙した。頭上の月を見、眼前の闇を見、目を閉じて我が郷を焦がす赤の色を思った。親しき者たち、死んだ兵たちの流す赤の色を思った。その彩景も既に遠く薄れ始めていた。胸の震えが絶え、後に残ったのは無辺に広がる静安であった。

 道無き山を獣の足は慣れた調子で危なげなく登り、やがて中腹に流れる沢のそば、濃い木の陰に隠れるようにして山肌に刻まれた岩窟に辿り着いた。背を折って踏み入り、月影の届くや届かぬやという辺りの穴の半ばに宵霧の身体をどさりと降ろす。屋敷の部屋ひとつほどの広さの岩穴、そのひとつ分の間を置いて、一方の壁に宵霧、そして向き合う一方の壁に「狗鬼」が座った。
 何をも表さずただ座したままの獣を前に、宵霧は首を回して岩屋の中を一渡り眺めた。入り口近い壁に沿って置かれたふち欠けの石甕に張られた水に、月明かりがぼやりと照り映っている。その他に人の手による道具は見えない。
「そなたの住処か?」
 問う。獣は答えぬ。
「人を喰うのか」
 また問う。答えはない。が、地に落ちた顔が緩やかに上がり、獣の目が宵霧を向いた。鳶色の瞳が光を宿して閃いた。
「私を喰らうか?」
 岩穴の奥に転がる幾片もの白い塊を見やり、宵霧は言った。野の獣の物とは見えなかった。力任せに割られ砕かれた、確かに人の骨だった。
 低く、声が返った。
「お前のような痩せた人間の肉なド、喰ったところで二日も保たヌ」
「ならば何故ここに連れてきた」
 喰わぬのならば、あの場でただ殺せば良かったものを。思うままに言う。言った次の間に、ならばと獣が立ち上がり、その鋭い爪が我が胸を貫く様を描いている。
 だが獣は座して動かず、ひと言、
「知らヌ」
 ごく明朗な、そして異妙な言葉を返し、視線をまた膝下に落とした。その眼に浮かぶ点光が視界から去ると共に、辺りの全てから、まだ沈まぬ月からさえも、一切の光が失せたように思えた。宵霧は目を閉じ闇に身を預けた。形を成さぬ想疑の念が流れては消え、やがて緩慢な眠りが訪れた。

       ◇

 目を覚ますと、「狗鬼」の姿は前の壁から消えていた。外は既に陽が高く上っているらしく、木々の間から落ちる陽光を通して鳥のさえずる声が聞こえてくる。
 他に何をするでもなく、何を想うでもなく、宵霧は岩壁に背を寄せ穴の口から覗く山の景を眺めていた。岩屋の主がいないとは言え、痛めた足を引きずり独り山を降りることはまず無慮の愚。「狗鬼」もそれをわかっているからこそ躊躇なく留守にしたのであろうし、また宵霧も、たとえ身が自由に動いたところで行くあてなく逃げ出そうという思いは持たなかった。
 そうして半刻ほどが過ぎた頃であろうか、景色に不意の影が差し、人獣の巨体が岩窟の口に現れた。座した宵霧をちらと見、そのまま奥に歩を進めてくる異形の裂けた口と爪から、赤い血滴が地面に流れている。はたはたと落ちる水の粒が岩土に朱の紋様を残し消える。
「噂に聞いた。境に出る物の怪――人を喰らう鬼の話」
 昨夜と同じ場所に身を据えた獣に向かうともなく向かい、宵霧は口を開いた。
「そなたは鬼か? 『狗鬼』と、市河の兵たちは呼んでいたが」
 郷で聞いた話では、その名はこの上なくおぞましい姿をした化け物として響いた。前に座る「鬼」は確かに異形の者ではある。が、衣を着け、人の言葉を解し、話す。噂の描く「鬼」とは大分に差があるようにも見える。
 問いにしばしの間を置き、やがて、
「女の腹から出た狗頭の赤子を人間どもが鬼と呼ぶなラ、俺は鬼なのだろうとモ」
 汚物を吐き捨てるようにして、獣は低く言葉を返した。鳶色の瞳の奥に鋭い光が揺れた。
「人の腹から生まれたと?」
 確かめるように出した声には是の葉も否の葉も戻らず、異形は煩わしげに鼻を鳴らし、顔横にこびりついた血を腕でぐいとぬぐった。喰ろうただけでは済まぬ量だな。したたかに毛を濡らす赤の色を見、宵霧はひそりと呟いた。
「人を殺すわけはそれか?」
 異容の姿を疎んだ人間への――そう言い差したを遮り、
「わけなど無イ」
 ひとつ声が落ちる。
「そうして生きてきタ。石を投げる人間を殺しタ。欲で肥った人間を殺しタ。泣き喚いて逃げる人間を殺しタ。身体が殺せと言ウ。頭が殺せと言ウ。だから殺ス」
「生まれてから今まで、ずっとか」
「そうダ。ずっとダ。これからもずっト」
 声は冷ややかに、揺らぎなく鳴りただ落ちる。己の言葉のみがただひとつの真であると、一縷の疑いも惑いも持たぬ、声。
 ならば。宵霧は言う。
「ならば何故私を殺さぬ? 私は人だ。父は城崎の領主、母は隣国の二の姫、その血も紛い無き人間だ。殺すがいい。それがそなたの生の途ならば」
 言って、獣の顔を見詰める。
 獣は一度緩やかに目を瞬かせ、
「死にたいのカ」
「――わからぬ」
 短く問われ、そう曖昧な言葉を戻すよりほかなかった。動かぬこの身で何を望むのか。何を望めば良いのか? 父母の変事を聞き、馴染んだ屋敷を離れ、あの赤色を目にしたその瞬間から、身の内から何かが昏い闇の中に漏れ落ち続けているように思えた。
「いずれにしたところで、こうして座していればやがて死ぬだけだ。今もわずかな先も変わりはない」
 言葉を切り落とし、目を伏せる。瞼の裏でふっと風が動き、かすかな獣の足音が洞の口へと向かうのが感ぜられた。慌ただしいことだ、と顔を振り向けると、しかしそこに見えたのは里に下りる背ではなく、一度外に抜けた足のまま岩屋に戻る獣の姿と、その腕に掴まれた着物の彩色であった。
 ぼうとその奇容を眺める宵霧の前で足は止まり、気付けば昨夜のように身体が獣の肩の上にあった。
 何をと聞いたところで答えは返らぬのであろうと、宵霧はただ身の内の痛みを散らすことにのみ心を割いて、結んだ唇ごと硬い獣の毛の中に顔を伏せた。

 どさりと降ろされたのは、岩屋からそれほど離れもしない山中の一角、茂る下草の中に湧き水が広く溜まった泉の(はた)であった。
 地面に付いた腰の横に先の着物が投げ落とされる。宵霧がその意を確かめる前に、獣はひとつの声も発することなく足を返してその場を大股に去っていった。
 事を掴めぬまま独り残され、宵霧は所在無く傍らの着物を引き寄せた。表に見えた朱染めの小袖だけではなく、それにくるまれるようにして、襦袢や帯、足袋に至る女物の衣裳が一揃いになっている。数本の手拭いも中に紛れている。一体どこから、と考え、よもや屍体から剥いだのでもあるまいと布地を鼻に寄せると、かすかに乾いた木の匂いが香った。つづらに仕舞われていた誰ぞの召し着をそのまま一掴みにしてきた物でもあろうか。
 膝上の小袖と横手の泉とを順に見やり、ふとこの様から測るべき行いがひとつしかないことに思い至って、我なく声を立てて笑った。襟元を合わせ引き上げる。土と、草と、火と、煙と、汗の匂い。
 鬼め、囚人(めしうど)に身を清めよと言うか。
 ひとしきり耐え得ぬ笑いを落とし、やがて半身を真っ直ぐに起こして泉に向かい両の手をすと合わせてから、手拭いを取り上げ水に浸した。痛めた足に気をやりながら祭り仕立ての鮮やかな衣裳を解き、固絞りにした手拭いで汗と垢を落とし身を清める。清水に冷えた布地で肌を擦る度、我が身の外から内から熱が流れ落ち、森の下生えとその根を抱く土の懐、山の懐に染み入り散り広がっていくような心持ちがした。

 身を適当に浄め、小用を済ませて着物を身に着ける。いずれこの先用がないとは思えど、祭りの夜にと父母に贈られた物を無下に脱ぎ落としておくことも出来ず、元の銀朱織りの一揃えは一度水にさらし、低い枝に差した。
 じき陽が傾こうかという頃、「狗鬼」が朽ち葉をかすかに鳴らしながら山を登ってきた。ちらと着物に一瞥をくれ、また何も言わずに宵霧の身体を抱え上げる。血の匂いがした。見ると肩に真新しい刀傷が深く口を開いていた。宵霧の腕が傷をかすめても獣は身じろぎひとつせず、ただ前を向き岩屋への道を進んだ。
 湿った洞、先と同じ場所に宵霧を降ろすと、「狗鬼」は再び岩屋をふらりと出、今度は着物ではなく数個の布袋と椀を手に戻り、それらを宵霧の前に無造作に置いた。袋の口を手で割ると、干し(いい)と肉や魚の塩漬けとおぼしき物が中に見えた。椀には何も入っていない。ふちが欠け、上等な品とは言いがたいが、何かを――水を――汲む器としてはなんら不足ない。
「喰えと?」
 向かいの岩壁に背を寄せ胡坐をかく人獣に問いを放る。獣はわずかに首を動かして宵霧を見、ひとつ目瞬きをしてまたそらした。ただ否の(しるし)でないことだけが見て取れた。
 空腹を感じてはいなかったが、一つ二つと取り上げて口に運び、石甕から汲んだ水で流し込んだ。硬い肉のかけらと共に滑稽な思いを噛み締め砕く。笑いすら今度は口を出る前に割れ失せた。
 郷を焼かれ、父母を、親しき者たちを殺され、今なお自分は生きている。泉で身を禊ぎ、洞穴で飯を食い、眠り、人を殺め喰らう鬼に生かされている――

 そうして幾日かが過ぎた。
 「狗鬼」は翌日もその翌も、決まって日に一度午過ぎに宵霧を抱え泉に連れ出し、一刻ほど姿を消して、戻ると岩屋へ連れ帰った。牙の並ぶ口はついぞ開かず、陳ずられる葉一枚とてなく。
 獣が宵霧に対するのはその間だけだった。時折ふと思い出したように視線をよこし、また余所へそらす。獣はしげく家を留守にした。日ごとに新たな傷が増え、夜ごとに癒え、戻る度に血が薫った。宵霧は見えるものを見、聞こえるものを聞き、半ば身と心を別ったようにただ座して過ごした。
 五日目、「狗鬼」はまた泉に宵霧を置いてふらりと姿を消していた。日暮れ時分、所用済んで独り泉の前に座す宵霧の耳に、がさりと葉鳴りの音が届いた。
 山の主が戻ったかとぼやり思い、しかしその音高さに、いや、と心中の首を振る。気遣いなく歩くように見えても、獣の足はこのほどに騒がしく山の草木を揺らすことはなかった。がさりがさりと近付く穏やかならぬ音と気配に振り向き身構える。丈高い草の向こうにその姿が覗く前に、耳はゆい金物鳴りがそれを野の者ではないと知らせた。
 長い葉が割れ、二つの影が立つ。旗は無くとも忘れようのない揃えの甲冑の色形がその名を語る。誰何の声は新参の二人の男の口から先に発せられた。
「城崎の娘だな?」
 答えを待たず兵は腰の長巻を抜いて刃を正面に掲げ、ついで、共に来てもらう、と威圧高く言い放った。
「いかにも、私は城崎の家の者だ」
 宵霧は小さく首肯し、だが、と続ける。
「市河の者よ。その命を聞くことはできぬ」
「何を」
「私を屋敷に連れても、市河の名を復すようなことは言わぬ。親しき里を騙し討ったのだと後の世に語り継がれような。真のことだ。何を惜しむのかと主に伝えてやれ」
 淡如に言いのけると、
「命が惜しくないのか」
 陣笠を被った兵が手にした笹穂の槍をしごき、怒声も露わに、親が親なら子も子だ、と捨てるように言う。ひくりと喉が動くのが我にしてわかったが、何も返さず、
「殺すが良い」
 それだけを口にした。
 長巻の兵の具足が近付く。顔色ひとつ変えん。娘の方がいっそう薄気味悪い――呟きが鳴り、目を伏せた宵霧の上にひょうと刃が振り上げられた。
 一瞬の間、過ぎ、けぶる血飛沫と共に落ちたのは、目を見開いた兵の首であった。
 うわあ、と陣笠の兵が高い悲鳴を上げる。周りに影が落ちていた。ゆっくりと顔を起こす。宵霧と市河の兵との間に、爪から人の肉を提げた人獣が立ちそびえていた。いぬおに、と兵の口が声出さず動いた。
「うわあっ」
 震える号と共に槍が突き出される。獣はその鈍い槍の柄を捉えて跳ね除け、襟元をむんずと引き寄せて兵士の体を宙に掴み上げた。そのまま物言わず男の顔を見下ろす。兵士の口が震えて開き、
「化け物!」
 声が上がった。
 次の間には、獣の牙がその首を噛み潰していた。

 どさり、と身が岩土に降ろされる。獣は常の場所に戻らず、低い岩屋の天井に背を曲げたまま宵霧の前に立っていた。しばしの沈黙ののち、
「何故ダ?」
 問いがひとつ落ちた。
 その意を判じ取れずただ獣の顔を見ていると、また声が落ちる。
「何故、逃げヌ」
 ああ、と宵霧は頷き、
「逃げられようもない。脚が立たぬ」
 前にしたと同じ答えを返す。獣がじと宵霧を見下ろす。毛に覆われた身体には今付いたものではないだろう赤い汚れがそこかしこに見え、血の臭いがひときわ強く薫っている。黙し動かぬその眼の中に、宵霧は光が瞬くのを見た。
 闇が見えた。
 闇の中に立ち、天仰ぎ吠える狗頭(くとう)の異形の姿が、鬼の姿が見えた。鬼は血に濡れていた。立つ足の横に血の河が流れていた。千切れた人の身体が浮き沈みしていた。己の流す血と死んだ人の流す血に身を染めた鬼は、尽きぬ咆哮を闇に上げ続けた。
 高く、高く、高く――。
 ふっと気が戻る。眼前の獣はまた何故だ、と小さく口にし、しかし答えは求めずきびすを返して前の壁に向かった。
 霧薄れた頭が唇を動かす。問いならば我が胸にも様々にあった。なぜ自分をここに置くのか、なぜ助けたのか。問いの意味、闇の意味――あまた口の内に転がし、だがいざ音を成したのはひとつきり、取るに足らぬ言葉だった。
「そなた、名は?」
 穴に満ちた沈黙に声は深と響いた。いつもの場所に座り込んだ人獣は顔を起こし、数度の目瞬きとたっぷりの間を置いて、名、と低い声を返した。
「『狗鬼』は人の付けた名であろう。真の名を持たぬのか。野の獣が呼ぶものでも、ほかの鬼が呼ぶものでも」
 また間。狗の顔に色はない。
 やがてほつり、
「『えん』と呼ぶ者もいル」
 だが俺は知らぬと続かん程の淡然とした音で、答えが返った。
「えん」
 繰り返し、獣の顔を見詰める。鳶色の瞳に鋭い閃きが揺れている。それは山向こうに沈みかけた陽の色を返すものでもなく、空に浮かび上がった白い月の影を映すものでもないのだと、宵霧は知った。
「焔か。……似合いの名だ」
 それは炎なのだと、知った。
 家に半刻の身も落ち着けず、山と里とを行き来して人を喰らい殺め、かと思えば何故とも言わず我が棲家で生かす。人の道具を使い、知恵を持ち、言葉を話す――。人が口々に恐れる鬼とはそのようなものであったのかと、岩屋に落ちるしじまの中に思い、物言わず座る姿に、これはただ狗の頭をした人なのではないか、狗の皮を剥がせば下に人の頭があるのではないかという奇想すら描いた。
 だがかの者は人ではなかった。それは確かに鬼であった。狗の眼の中に、人の形をした獣の身の中に宿るのは、ふつふつと燻りを立てる猛き炎であるのだと知った。
 もしこの獣の身体を裂いたなら、噴き出す炎が裂いた者を喰らい、天までも燃やし尽くすだろう。
「焔よ、なぜ私を生かす?」
 一度した問いを再び投げた。鬼は宵霧の顔を正面から見返し、
「死にたいのカ」
 こちらも同じ問いを重ねて落とした。
 鬼の言葉を胸の内で反芻し、
「死にたくないと言えば、嘘だ」
 口からひそり落とした答えは、二度目の音ではなかった。
「死にたくないわけではない。だが、死にたいわけでもない」
 音にしてからその響きの奇妙に薄く笑う。先の己への問いを振り返る。
「生きて、何を望むか……身体も立たず、帰る郷も焼かれ、失くしたばかりの身で何を望めば良いのか。いや」
 望むものがひとつとてないと、そう言い落とすのもまた違った。ただその望みが、望みとも呼べぬその思いが、
「果たせぬと知っているから、望むこともできぬ。そのためにことさら生きようとも思わぬ」
 言うと、「何を望ム?」と鬼が問うた。宵霧はゆるゆると首を振った。
「焔よ、鬼よ。私はもはやそなたよりものを持たぬ。郷もなく、家もなく、生きる術もなく、生きる道もない。今私にあるのはただこの身と――名だけだ」
 名、と鬼が先と同じ音を繰り返した。
「身に流れる父母の血、祖の血。城崎の名。郷を守り、郷に住む者を守り、共に生きた城崎の名。みな、我が誉れ、我が誇りだった」
 我が姿を見下ろす。昼に着物を換え、また父母に贈られた祭り仕立てを身に着けていた。
「母上はあの騒乱に亡くなったと思っていた」
 手を喉に寄せ、震えがないのを確かめ、言う。
「先の兵士の言葉で知った。自刃されたのだ。心ならぬ振る舞いを強いられる前に」
 みな、我が誇りだった。あの祭りの夜が来るまでは。あの赤の色が、全てを呑み押し流すまでは。
 この身から何かが、何か掴み得ぬものが、失せてしまうまでは。
「市河の狢め、この念が形となるなら、千里を駆けて憑り殺してやるものを」
 落とした怨言を区切りにしばし洞穴に沈黙が戻った。陽は落ち、夜が降りていた。
「今は、闇が心地良い」
 ぽつりと言った。鬼が目瞬きをした。
 夜気に腕を伸ばす。夜の源に手が触れれば指の先から身が融けだし、流れ消えていくのではないかと思った。それでも良い、と、思った。
「焔、私を喰らおうと思うなら気兼ねは要らぬ。痩せ身が不味ければいつでも殺すがいい。もはや何を腹に入れたところで肥えもせぬ」
 鬼は答えなかった。
「何か、私に望みがあるのか?」
 知らぬ、とは返らなかった。声ひとつも返らなかった。ただ宵霧を見詰める鬼の瞳の奥に、炎が静かに揺らめいていた。

       ◇

 それから幾日かがまた変わらず過ぎた。宵霧は岩屋に座し、鬼は山と里とを行き来して過ごした。時折言葉を交わした。話はいつも唐突に始まり、唐突に終わった。
 厚い雲の陰に月の出ない晩だった。
 ぐと胸が絞まり、喉がえづいて胃の中身を吐き戻した。水とわずかばかりの菜と、ほとんどが、血だった。
 鬼が立ち起きかけたのを、手を振って制した。
 急のことではなかった。馬から投げ落とされたときに、足ばかりでなく身の内の臓腑を損ねたことはわかっていた。
「まだしばらくは、間があろう」
 無理に身体を動かさねば、さほどの障りもなく過ごせるだろう実覚がある。だが境を越えれば、その先は――
「死ぬのカ」
 鬼が呟くように言った。
「であろうな」
 短く返すと、
「良いのカ」
 問い。また短く返葉。
「いつかは死ぬものだ」
 鬼の眼だけが宵霧を向いたまま問答は絶え、岩屋にまた沈黙が降りた。
 手を胸の前に引き上げ、表裏と返しながら眺める。血の気が失せ、痩せて骨ばってはいるが、まだ我が意のままに動く。
 本当ならあの夜に死んでいた。今こうして生きていることこそ白昼の夢のようなものだ。郷を逃れ市川の刃を逃れて、山中の岩屋に座し、狗頭の鬼と言葉を交わし、その瞳の宿す炎に、我が郷を焼いた炎に――
 ――魅せられている。
 ふと心中に浮かび上がった言葉に胸を突かれて目を開き、やがて、くつくつと笑う。そうとも、魅せられている。自分はこの鬼に魅せられているのだ。我に由も見えぬまま、猛き炎に、闇の下に吠えるその姿に、魅せられている。
 全く、夢のようなものだ。
 それきりその晩は終わり、翌日からまた同じように日が巡った。

 鬼の身体に見える傷が徐々に増えていることに宵霧は気付いていた。その理由もうっすらと測れるところがあった。その意だけが宙に浮いて判ぜられぬまま、己が身の内の傷も深まり、血を吐く回数が増した。
 その日、鬼は昼から岩屋を出ており、日が暮れてもまだ戻っていなかった。手に吐いた血を拭い、椀の水を流して洗っていると、外で木ががさりと鳴る音が聞こえ、次いで洞の口に風が揺れた。鼻をつく臭い。荒れた呼吸の音。
 気配の奇妙に身構えつつ宵霧は振り向いた。一瞬、次の息をするのを忘れた。
 月明かりに長い影を引いて立つ、血濡れの鬼の姿があった。

 はたはたと赤が落ちる。その血が常のごとく人の返り血でないことはすぐに見て取れた。
「焔」
 呆然と呼ぶ。鬼の足がゆっくりと進み、三歩目にくず折れた。
「何があった?」
 手で這って傍らに寄る。ぐらりと仰向けになった口が開き、並ぶ牙の奥から嗄れた声が流れ出た。
「狸狩りをしてきタ」
 鳶色の瞳に炎が燃えていた。
「まさか、そなた市河の」
「麓まで首を持ってきたガ……邪魔になって捨てタ」
 でかい頭だった、ときしんだ笑い声が鳴る。
「わざわざ屋敷まで行ったのか」
 返る言葉はなく、鬼は血の混じる咳をした。それが答えのようなものだった。争乱の熱冷めぬ市河の巣に狗頭の異形が卒然と現れ、咆哮と共に跳び、目を見開く市河の領主に長い爪をかける姿を、四方から矢を刀を受け身を朱染めにしながら、兵士たちを打ち倒していく猛き炎を宿した鬼の姿を、宵霧はありありと頭に描くことが出来た。
 広がる血に膝が濡れた。傷の数もその深さも尋常のものではない。
「何故、そのような」
 そのようなことを、と言い差してやめ、
「……何故、そうまでした」
 そう問うた。鬼が自分に何をかを求めていることは明らかだった。自分の言葉がこの行に種を蒔いたのは明らかだった。ただその意が、わからなかった。
 鬼の目が、炎が宵霧を見詰める。
 ぎしりと骨が鳴る音が見えるかのほどにゆっくりと、裂けた狗の口が動いた。落ちるかすれがすれの声。
「名が欲しかっタ。名があれバ」
 鬼は言った。
 ――名があれば、お前のようになれると思った。

「私のように、だと」
 その言葉は雲のように手をすり抜けて浮かび、形を成さぬまま消えた。焔、と尋ねかけた宵霧の声を遮り、
「お前ハ」
 鬼が血濡れの口で、言葉を紡ぐ。
「お前ハ、怖くないと言っタ。闇モ、死モ」
 目瞬き。炎が消え、灯る。深く息がつかれ、声が鳴る。
 俺は、怖い。
 今度はかすれずに、朗と、鬼は語る。
「俺は怖イ。闇モ、死も怖イ。痛みモ、人モ、己モ、全部が怖イ」
 鬼の身も声も鳶色の瞳とその内に燃える炎も、いささかに震えを宿してはいなかった。その有り様だけを見れば言葉は滑稽な冗談のように響いた。だが確かに鬼は、ありのまま己の心を吐き出していた。
「俺はお前のようになりたかっタ。捨てたかっタ。何も恐れないものニ、なりたかっタ」
 何故お前は泣かぬのかと、あの夜聞いた鬼の言葉が闇から返って鳴った。
 何故、と、今は宵霧の胸にその言葉が巡る。何故、そう思う? 何故私を求める? 問う。鬼は宵霧を見、目瞬いた。強い明かりを覗くかのごとく、眩しげに。
 人に疎まれ蔑まれ恐れを抱かれ、人を喰らい、殺める異形の鬼は、静かに、告げた。
「綺麗だっタ」
「なに?」
「綺麗だっタ。闇の中に座るお前ハ、今まで俺が見たどんな物より一番、美しかっタ」
 何かを成して名を得られれば。
 何も恐れずにいられれば、お前のようになれると思った。
 鬼の手が上がってすうと宵霧の髪を掴み、梳き、また落ちた。
「――焔」
 名を呼んだ。
 馬鹿め、と胸には言葉が溢れ、しかしまた名だけを口にした。
「焔」
 ただそれだけしか、出る声がなかった。
「何を望ム?」
 鬼が言う。宵霧は怪訝に首を傾げる。
「里に降ろしてやル。人の家に行けバ、死なずに済ム」
 麓を探せば狸の首も見つかるかも知れぬ、と笑い、ぐ、とその上体が起き上がりかけた。傷口から血が噴き出した。
「よせ」
 肩に手を当てて押しとどめる。
「里には降りぬ」
 降りたところでどうにもならぬと我が身は知っていたし、鬼がこの深手のまま人ひとり抱えて山を降れるとは到底思えなかった。
 焔、と顔を覗いて呼びかける。
「私を、喰え」
 閉じかけていた狗の瞳が大きく開いた。
「人を喰わなくなったから、傷が癒えぬのだろう」
 いつからか、鬼が岩屋に戻る度に薫る血臭が、日ごと薄くなるのに気付いた。身はいつも屠った人間の返り血に汚れていたが、身の内から漂う血の臭いがかすれていた。代わりに、前は一夜に消えていた傷が増え始めた。
「痩せてはいても人は人だ。私ひとり喰らえば、そのような傷、一晩に癒えよう。焔、そなたが延ばした命だ。そなたが死ねば、どうせ私もすぐに死ぬ」
 気兼ねは要らぬ。喰え。繰り返す宵霧に鬼の手が伸びる。髪に触れ、肩に触れ、血に濡れた手に触れ、また戻る。
「死ぬのは怖イ」
 鬼は言う。
「だガ、喰わヌ」
 言い落として、眩しげに、ひとつ目瞬きをする。
 宵霧は鬼の顔を見返した。その瞳の中に炎が消えぬのをしばらく見詰めて、平静の声で、わかった、と頷いた。
「ならば、焔」
 ひとつ望みがある。深い闇向こうを仰いで言う。
「外に行こう。私は這っていく。五歩でも、十歩でも良い。歩ける限り、洞の外に」
 鬼は小さく頷いた。

 岩屋の口が木々に隠れるほどのところ、年経た大杉の下に並んで腰を据え、身を夜に預けた。風はなかった。夜鳥の声ひとつ、木のざわ鳴りの音ひとつ、聞こえなかった。
 深い闇。異形の鬼の心のごとく、今ここにして漸く掴み得た我が心のごとく、深い、深い――
「焔よ」
 ほつりと言う。
「何ダ」
「そなたが死んだら、私は泣くやもしれぬ」
「そうカ」
 鬼が短く答え、しばし間を置いて、続ける。
「なラ、俺はそれを見るのは叶わぬナ」
 お前の涙は、美しいだろうな。

 言葉は絶えた。
 濃い静黙と共に時が過ぎ、半刻ほどで陽が昇ろうかという頃であったろうか、夜が白み始める前に、鬼の息は音もなく絶えていた。
 宵霧は目を伏せた。半身が冷えていくのを感じながら、硬い木の肌に背を寄せ、独りじっと物言わぬ闇の中に座していた。
 涙は流れなかった。
 それぎり――

       ◇

「――それぎり、我が身の上から夜が明けることはありませぬ」
 そうして語りを終えた女はふと笑い、十の年か百の年か、我が手に絡む形なき枷を見た。
 法師が問う。
「姫。貴女はその故をもう、本当は我が胸に決めておられるのでは?」
 女は一度笠の下の法師の顔を見やり、次に山に深く降りた夜を眺めるようにしてから、目を膝上に落として緩やかに言った。
「夜は暗いものだと、思っていました」
 すうと手が白磁色の塊を撫でる。
「しかし私は夜を知らなかった。(まこと)の闇を知らなかった。私の見る夜の暗さなど、他の者にはいかばかりのものであったか――世の何も、見えてはいなかった」
 夜を、闇を知らぬ者に、真の朝もまた訪れようか。
 あの獣が瞳に宿した、燃え猛る焔のごとき光が。
「私は、恐れなかったのではない。知らなかったのです。あの日に流れ落ちたのではない、もとよりこの身に持たなかったものをああして知らしめられながら、なお目を向けなかった。夜を見ず、朝を見ず、ただ」
 ただ、あの炎だけを見ていた。瞼の裏に残る影を追うように、女は目を伏せ、滔々と語る。 
「恐れを知るからこそあの者は生きていた。身の内に炎を抱いていた。私など生まれ落ちてから既に死んでいたも同じこと……。美しい、などと」
 私にはあの鬼の方がよほどに、美しく見えた。
 
 しゃらり。
 木に寄せた輪錫が枝揺れにひとつ音を立てた。山の夜は色深く、もはやその身に次の陽を灯さぬかのように、見えた。
 厚い沈黙を裂き、嗄れた声が落ちた。
「獣ハ偽リヲ言ワヌ」
 法師の肩上、闇色の鳥が女に向き、その嘴から人の言葉が澱みなく流れ出る。
「人間ハ、何故ソウシテ疑心バカリヲ抱クノデアロウナ。獣ハ己ノ心ノママニシカ語ラヌ。何故、他ニ真ヲ拾オウトスル? オ前ヲ美シイト獣ガ言ッタナラ、其レが真デハナイノカ」

 何故、恐レル?

 落ちた言葉に女は瞠目して鴉を見返した。法師が静かに笑み、言った。
「恐れを知らぬ故に、枷が在るのではない。人は恐れる故に我が身に枷を成す。それは常の、人の生の至当。病み責めることではございません。知らぬ故なら仕様もありますまいが、恐れの故なら、それを呑み、克えれば、鎖もおのずと切れましょう」
「恐れ……私は」
 かたり、と膝上の塊が音を立てる。夜を恐れ、闇を恐れ、人を恐れ、己を恐れ、死を恐れ、天仰ぎ吠えながら、声ひとつ無く逝った鬼の遺骸。
 ふんと息を鳴らし、鴉が嗄れ声を漏らした。
「骸ハ人ヲ責メヌガ、語リモセヌゾ。モシ黄泉ノ道上デ獣ガオ前ヲ醜キ者ト、己ヲ殺シタ者ト忌ミ疎ンデイタナラ、我ハコノ首ヲクレテヤル」
 そうだ、疎み、罵れば良かったのだ。喰らってくれれば良かったのだ。そなたは鬼なのだから。
 焼き尽くしてくれればよかったのだ。欠けたこの身をその眼にまたさらす前に、焼き尽くしてくれれば、良かったのだ。
 しゃらり、しゃらり、邪祓いの音が鳴る。
「焔」
 膝上の塊、異形の頭骨に声を落とす。
「焔、とんだ愚か者だったようだぞ。そなたも、私も、どちらもとんだ愚か者だった」
 はたりはたりと水が白磁色の骨に落ち、にじみ、消える。
 我を空蝉と見て互いに抱くものを互いに求め、行く道のなんと昏く迂遠であったことか。
 そこに見た灯の、なんと美しかったことか。
 目落としたまま女が言う。
「法師どの、お聞きしたいことがございます」
 なんなりと。法師が返す。
「人と鬼の魂が、またしかと相まみえることはありましょうか」
 沈思の間、すぐに流れ、
「易くは、ございますまい」
 しかし、と続く。
「幾万の時の内に、輪廻は果てず巡る。その道が交わる時が、いずれ来るでしょう」
「左様か」
 焔。心の――枷も鎖も身も薄れ、もはやそればかりになりつつある心の内で、鬼の名を呼ぶ。
 焔よ。鬼よ。百も千も年を経てもしも再び出会ったなら、その時こそはきっと私を喰ろうておくれ。この身も魂も何もかも。
 私は迷わず身をくべよう。その猛き炎の中に。

 しゃらり。
 彩色が散り、輪錫がひとつ鳴った。
 夜が白み始めていた。
     
       ○

「主。恐レヲ知ラヌ人間ガ、コノ世ニ在ルト思ウカ?」
 曙光の中に歩を進める法師の肩の上で、鴉が鳴く。
「さあ、私は世の全てを知るほど歩いたわけではないからね」
「誤魔化スナ」
 だから人間は、とでも続きそうな供の声音に法師は笑い、言う。
「人の身には、夜闇は濃く深い。朝はもう来ぬやもしれぬ、と思えるのだよ」
「下ラヌ」
 夜闇の色を身に宿した鳥はひと声に返す。はいはいと頷き、それでも私の知る限り、朝は必ず来る、と言葉を続ける。それがどうした。鴉がこぼす。
 昇る陽を仰いで銅錫を鳴らし、法師は言う。
「その心が夜であるのなら、闇であるのなら。忌み捨てるべきもの、持てぬ者が在ると言い得る心であるのなら、こうして夜は明けるだろうか」
 それは朝を迎える。夜を知らぬ朝。光――
 炎と見る者も、いるだろう。


 其れ、朝を()うる心。(たれ)ぞ其の心、不知夜(しらずや)



―了―

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 ベタを目指したはずが、蓋を開けると……あれ。
 日は進めど場所は動かずの設定がかなり難しく、登場人物がどっちもあまり喋らないのも相まって少し走っていますね。もっと長くしても良かったかもしれません。とは言え久々の女性視点、和言葉を楽しんで書けました。

 『』・『かたしろの君』より法師と鴉が三たび登場。当初はもっと喋っていた鴉、いかに影を薄くするか、に骨を折りました; そしてやっぱりカナ言葉は見づらい……

<07/06/17>
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