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「あなた、いくつ? どのくらいここに住んでいるの」
「さて。どうだろうかな。俺は年を指折って数えるほど几帳面ではないのでな」
 
 帰りの列車は明日。外に出る気もせず、かと言って何もない家ですることもなく、葉子はもう一泊という頼みをいささかの逡巡もなく受けた家主に向かい、ぽつりぽつりと話しかけていた。
 自分から話題を立てることこそなかったが、男は饒舌であった。そして、話せば話すだけその存在がわからなくなっていく。初見では葉子と同じか、それ以下に見えた年齢も、時経つにつれ青年のようにも壮年のようにも、あるいは少年にさえ思えた。常に口の端に薄く笑みの色を差したような表情を作り、薄い唇を開いて朗と語る。ひどく人間くさいようで、まるで人間というものを感じさせない。

「こんな物がないところで、いつも何をしているの」
「何ということもないがね。外に出れば庭の草取りだの釣りだの、ま、大概は笛を吹いているさ」
「一日中?」
「うむ」
 飄々とした口ぶり。掴みどころのない言葉を乗せるは、高くもなく低くもない、特徴を欠いた、しかし耳に響き良い声。
 それは風であった。風に入り混じり心を揺さぶる笛の音であった。
「今日は一度も吹いてないわ」
 そう言うと、白笛はちらと葉子の顔に視線を走らせ、
「望んで音(ね)に刺されることもないと思うがね」
 ぽつり、呟く。え、と疑問の声を発して見詰め返した時には、男の目は既によそへ向き、すました顔で湯呑みの茶をすすっている。
 刺される。やわらかな和笛の調べには重ねがたい奇妙の言葉に、夕暮れの山に鳴っていた、あの笛の音を思い出す。ゆうべこの質素な部屋を満たした音と同じながらに違う、深く鋭い笛の音。

   ……んでしまえばいいのに。
   ……いるから、私は、

 どくり、と胸の底が波打つ。込み上げる衝動のまま立ち上がった。
 ちょっと、と言い置いて廊下へと足を向ける。白笛は顔を上げたが、小さく頷いただけで葉子を追う言葉はなく、また葉子もそれを構う間を持たなかった。真っ直ぐ畳の間に向かい、隅に置いたバッグをひっくり返して、荷の底に貼り付いていた写真を取り出し、視界に捉えることなく握りしめる。
 駆けるようにして板間へと戻り、座した男の前に薄い紙片を置いた。見上げる顔に、かさついた声を落とす。
「見て、もらいたいの」
 勤めている社のオフィスで同僚が撮り散らしていた中の一枚。数日後、その同僚が躊躇いながら葉子に手渡してきた。もしなんだったら、捨てていいから。葉子の顔を見ることなく同僚は言い、すぐに立ち去った。
 白笛が着物の袂を押さえてゆっくり写真を手に取り上げる。光沢の乗った狭い画面。被写体を誤ったのか、雑然としたオフィスの画を中心に、壁ぎわ、ほとんど写真の角に見切れるようにして、独り葉子がよそを向いて立っている。その傍らにひとつ、濃い影が寄り添うように浮かんでいる。目を凝らして見るまでもなく、影は明らかな人の形を作っている。社員のスーツ姿ではない、乱れた長髪を肩に垂らした女性の形を。
 受け取った瞬間、馬鹿馬鹿しいと思いつつ、目の前で何かがきしりと歪むのを感じた。幾度もごみ箱の上に持っていき、しかし手から薄ぺらい紙一枚を落とすことが出来なかった。日に日に写真を睨む時間が増え、ただひとつの拠り代であった社でも浮きがちになり、知人たちは葉子から離れていった。
「夢を見るの」
 思うままに言葉を漏らす。
「夢」
「毎日同じ、暗い夢。いいえ、本当は違うのかもしれない。ただ同じだって感覚があるだけで、ただ、『悪夢』だと思っているだけで」
 寄せては返し、返しては寄せ、定かな色も形も持たない夢は、ただその存在だけは明然と、夜のごとに訪れる。
「どんな夢だね」
「私と、もう一人。女の人がいる。その写真の人かもしれないし、違うかもしれない。何もかも、全部が真っ暗で、ぼやけてる」
 写真と夢とどちらが先か、それさえも知らない。問いに返す言葉すら、立てた膝に埋めた自分の口ではなく、どこか別の場所から聞こえてくるもののようだった。
 夢の初めの頃は、困惑し、助けを様々に求めた。したり顔に語る本や医者、占師。いわく、それは前世の業だという。いわく、それは胸の底に潜む意思だという。全てに頭を痛め、やがて全てを捨てた。無形の夢は変わらず訪れ続けた。
「忘れている。思い出せ――何かが呼びかけてくる。思い出せ」
 何か、何か重大なことを。
「わからない」
 わからない、わからない。耳をふさぎ、首を振り。
 そして代わりに浮かび上がった、
(一人の男が)
 古い、話。

「昔、この村の話を聞いたことがあったの」
「ほ」
 あれは中学校に通っていた時分だったろうか? 家族旅行の途中、いきさつはもはや定かではないが、山奥の民家に数刻だけ立ち寄った時間があった。家の主人と談笑している両親を横目に、葉子は縁側で陽に当たりながら、家の老婆の話に耳を傾けていた。強い訛りで語られるそれを子どもだった己が全て理解できたわけもなかったが、深い皺の寄った口から流れる老婆のゆるやかな声に、不思議に心が惹かれたのを憶えている。
 それはいくつもの昔話の最後に、短く語られた。
「どこかの山の奥に、霞辺という名前の村がある。とても小さな村だけれど、村の中にはたくさんの古い神が宿っている。そしてその村には、不思議な人間が住んでるんだ、って。その人はずっと何十年も何百年も昔から村にいて、歳を取ることもない」
 一度言葉を切って、男の顔をちらと見上げた。男は何も言わず、常の表情を崩すこともなく、ただ自然に目を伏せて座っていた。
 息を吸い、葉子は続けた。
「それは一見普通の人間に見えるけれど、どんな呪いも落とすことのできる、どんな霊や憑き物も祓うことができる、特別な力を持っている人だって――。後になって思い返して、それからずっと、良くある噂話だと思ってた。でも」
 今、自分はその村にいる。老婆が神が住まうと語った村にいる。そして、目の前に座る、一人の。
「ねえ。――あなたのことなの?」
 異質な地に住む異質な男。風のように語り、笛を奏でる。
 あなたなの。胸の内で繰り返す。
 もし。もし、そうなら。

 が、葉子が続く声を発する前に、白笛は口に手を当ててくつりくつりと笑い出した。
「噂かね。人の噂ほど信用できぬものはないぞ。水と同じで流れるほどに姿を変える」
 終わりに行き着く頃には湧き口など誰も知らん。もっともらしく白笛は言う。
「俺は坊主でも行者でもない。ましてや霊を取り祓うなどと、大層な力は持たんよ。お前がそれを求めるのなら、寺か社にでも行ったがいいさ」
「私は……別にその人に会うために、この村に来たわけじゃないわ」
 なら何故この旅を望んだのか。
 ただ枝の支えをなくした朽ち葉が風に流されるがごとく、ふらふらり、何を求め、何を想い――
「なんだか最近、記憶だけじゃなくて、自分自身までが、ぼんやりとしてる」
 出勤し、働き、家へ帰り、寝て、起きて、また出勤して。ぴくりとも動かないサイクル。元々自分はこうだったのだろうか? それが人間の「本質」なのだろうか? 同じような悩みを語る友人は多くいた。だが彼らは己の感じるような思いを同様に持っているのだろうか? まるで身体が内から溶け出して、そのうちにこの世から消えてなくなってしまいそうな、そんな想いを。
「あなた、人の本質を、人の『真』を、知っているの」
 昨日と同じ問いをする。
「さてなあ」
 昨日と同じ答えが返る。
「あなた、誰なの? なんなの」
 半ば答えを諦めている己。
「何だと思うね」
 答えず逆に問いを返す相手。
「あなた」
 浮かされたように、言葉がこぼれる。

「あなた、笛?」

「ほ、ほ。そうともな、白笛さ、俺は」
 心底おかしそうに、くつりくつり、男は笑う。
「見たままね」
「良いのだよ。わかればな」
 わかると言っても、それは真ではない。
 ああ本当に。我が夢に『悪夢』と名を付けてやったところで、その真はまるきり解らぬではないか。
 知らないのではない。忘れているのだ。思い出せ。思い出せ。思い出せ。
 強い想いは、しかし穏やかな風鳴りに砕かれ千切れ、散っていく。
 しんと、人ふたりばかりには広い板張りの間に、どこか心地よい沈黙が落ち、その沈黙よりも静けさを響かせる声音で、白笛がゆるやかに語り出した。
「ものには真がある。皆それぞれに、己の在るべきところを持っている。迷い、惑い、それでも自ずとそこに在る」
 在るべきところ。繰り返す葉子の声はただ音ひとつになり、男の奏でる笛の音のなかに紛れて消える。
「人も、獣も、鳥も、虫も、山、川、全てに在るべきところがある。お前も、な」
「私にも、あるの」
「ある。俺にもある。この女にも」
 言って、白笛は写真をすと前に差し出した。
 葉子は黙ってそれを受け取り、強く手に握りしめた。

 変わらず質素な夕餉を終え、この日も家主を置いて早くに床につく。明日は、発つのだ。ふと浮かんだ自身の言葉が信じられなかった。自分の帰るところ、在るべきところは、あの無機質なビル立ち並ぶ街ではない。そんな気がした。
 ならばどこなのだろう。目を閉じればただ闇があった。
 不意に、音が届く。ひそやかな、しかし確かな旋律。
 笛?
 あ、と思った時には、眠りについていた。

 

 単調な世界にいた。何もかもが遠く、何もかもが霞んでいた。
   ……んでしまえばいいのに
(何?)
 灰色の画の中にぼやりと紅い唇が浮かび
   ……がいるから、私は
(誰)
 漏れる息がかすかな音を鳴らして
   ……んたなんか
(何を、してるの)
 腕が
(何を)
 腕ガ
(やめて)
 ワタシの腕ガ
(やめて、お願い、やめ)
 ワタシの腕ガ彼女ノ首ニ伸ビて力を込メルと目ガかっト開イてソレはマルデびい玉ノヨウでコボレ落チタらキット音ヲ立テて砕ケルノダロうアイタ口カラべらりト舌ガ垂レテイる羽化スル前の蛹ノヨウに膨レ上がガッテイるワタシは力を入レ続ケる彼女ガ何カ言ッテイルケレど遠過ギて聞コエナい多分ワタシを罵ッテイルノだワタシとソックリな顔でワタシを罵ッテイルノだアナタナンか

   ……死んでしまえば

死ンデシマエバイイノにワタシは力を入レ続ケる彼女ノ腕ガだらりト落チるワタシの腕ノ中デ彼女ノ体ガ朽チテイく朽チテイくだらりト崩レて床ニ落チる落チる落チる声ガスるズット遠クノ方で声ガスる苦シイ苦シイ苦シい苦しい苦しい……

 そしてただ残る、静寂。

          ◇

 朝だ。鳥の声で頭が咄嗟にそう認識した。見慣れぬ天井の木目が己の所在を告げた。朝だ。胸に巣食う強烈な違和感が何度も当然のことを確認させる。
 朝だ。起きなければ。聞かなければ。笛、笛を。
 あの男こそ、あの笛の音こそ、この昏い旅に終わりをもたらしてくれる。それは願いでも想いでもなくただただ確信だった。

「どうした。あまり力を入れると戸が外れるぞ」
 葉子が勢い良く板の間へ駆け込むと、白笛は驚いた様子もなく手の湯呑みから顔を上げることもせず、いつもの場所に座ったまま淡々と言った。
「お願い。笛を吹いて」
 喉から声を絞り出した。叫びに近い声だった。
「ほ」
 ず、と茶をすすり、ひとつ息をついて、あくまでゆっくりと白笛は言葉を紡ぐ。
「何か、思い出すことでもあったのかね」
「……私、私は」
 肩ががくがくと震えていた。寒さのせいではない。
「人を」

 死ンデシマエバイイノニ。

――人を殺めた、か」
「……ああ」
 ああ。やはり、この男は全てを知っている。
「あの、写真の……首を、こう」
 つと前に作った両手の輪の中に、ぼやり、虚ろな女の顔が浮かぶ。ひ、と枯れかすれた悲鳴を漏らし、板床の上にへたり込んだ。
「あれ、あれは」
 闇向こうの見開かれた目と、紅い唇を思い出す。その白い顔。写真に焼きついた影。誰かとしきりに問う心の一方で、その答えは確かに己の中に見出されている。
「あれは……、お願い、笛を」
 悪夢を呼び覚まし、解き放つ、あの笛の音を。葉子はただただ請願した。
「封じ込めたものをわざわざ求めるのかね。真実がお前の得となるとは限らんのだぞ」
 その言葉はすげなくも響く。
「なら、あなたはなぜ笛を吹くの?」
「それが俺の役目であり、言わば望みでもある。だが、使命ではない。俺は無精者だ。お前が決めるがいい」
 白笛はことりと板床に湯呑みを置き、顔を上げた。葉子は初めて男の顔を正面から見た。人の物であり、人のものでない闇色の瞳が、こちらをじっと見据えていた。
 何度も何度も繰り返し己に問うた。私は、一体何を望んでいるのだろう? 自分の身を切り裂いてまで答えを求めるのか? それとも悪夢から目をそむけ、恐怖の風に漂う薄ぺらい灰のかけらに戻るのか?
「私は」
 熱情にたぎる心と裏腹に、身体は、
「私はそれでも、真実が知りたい」
 内から緩慢に、凍りついていく。

 よかろう。白笛は静かに言い、するりと音なく立ち上がった。藍絣の袂が風に揺れはためき、葉子の心を促した。
「外にいる。お前はあの写し絵を持ってくるがいい」
 頷き、引き戸へ向かう和装の背を追う。
 と、あと一歩で廊下というところで滑るように送られていた足が止まり、背を向けたまま声が発せられた。
「昨日言ったろう。俺は坊主でも、行者でもない」
「ええ」
「俺の真は『救う者』ではない」
「……ええ」
「それでも良いのかね」
 葉子は答えなかった。代わりに尋ねた。
「あなたの真は、何」
 三度目の問い。
 返事はすぐにあった。

「人間は様々に名を付ける。白笛。隠者。標べ。還し手。人鬼。物の怪。さて、全てが正しくもあり、また全てが異なものでもある。ふむ。あえて言うなら――俺は、在る者」

 他のどこでもない。『ここに在る者』だ。
 言霊はすぐに流れ消え、ただ音の響きのみその場に残す。

          ◇

 写真を握って外に出ると、白笛はいつの間に持ち出してきたのか、立方に造られた木箱を手に抱えて立っていた。
「ついて来い」
 言って、歩き出す。垣の外に出て、初日に目にした縁側も過ぎ、家の裏手へ回る。開けた空き地といった風情で、ただ手入れの後も見えぬ草木と朽ちた樽や家具があるばかり。目に付く物と言えば、木の根もとの石の塊。人の頭ほどの大きさで、十数個がごろごろと転がすように置かれている。
 なんだろうかとぼやり思うだけで尋ねることはせず、葉子は奇異にも久しく感じられる陽の光に手をかざし、眩しさに目を細めた。
「良い風だ。ちと強いがな」
 葉子の歩みを手で制し、自分は少し先へ歩いて木箱を足元に置く。傍らには割れた大盤の鏡の載った樽があり、顔を上げるとちょうど葉子の半身が小さく映り込んでいた。
 ゆっくりと男が振り返る。手には、白い笛。
「私は」
「いればいい。構えるな。耳を塞いでも聞こえる。目を閉じても見える。己のことをさえ考えればいい」
 笛を唇に寄せ、その姿勢のまま囁くように、しかし通る声で、白笛は言う。
「俺はただ語るだけだ。在るべきところに在れと」

 ひょうひょう、ひょう……

 笛の音は風に溶け、身を裂き、心に染み入り、言葉を成す。
 思い出せ。思い出せ。何かを。
 響く声。浮かぶ影。あれは。
「あれは」
(ワタシを罵ッテイルノだワタシとソックリな顔でワタシを)
 良く似た声。良く似た顔。あれは、彼女は、私の、

 ……死んでしまえばいいのに
(え?)
 あなたがいるから、私は、いつも、いつも
(なに言ってるの)
 いつもあなたばかり、そんな顔を、してるから
(葉、なに、やめて)
 従妹なんか要らない。妹なんか要らない。どこが似ているの
(やめて、苦しい。離し、て)
 いつも、あなたばかり、要らない
(苦しい)
 あなたが消えてしまえばいい。美紀、あなたが
(葉子)
 死んでしまえば、いいのに

 苦しい、苦しい。苦しい……

「あ……あ、あああ」
 彼女は、私の、
「あれは、み、き。美紀。あ、ああ。ああ。なんで、なんで」
 良く似た、同じ年に双子の母から産まれた、周りも驚くほど良く似た従妹。本当の双子のようにして育った。姉妹であり、親友だった。半身だった。

 それを私は、殺した。

 ひょう。葉子の言葉を促すように、笛がやむ。蘇った昏い記憶はこらえようもなく後から後から溢れ流れ出し、誰に聞かせるためでもない、己のためだけに声となってこぼれ落ちた。
「美紀は私のいとこだった。誰よりも大切な妹だった。私たちは何もかもそっくりで、いつも一緒だった。みんな私たちを双子だと、何もかも同じだと、子どもの頃からずっとそう言われ続けた」
 しかし違った。顔も体型も、持って生まれた能力ですら、ほとんど同じであったのかもしれない。だが、美紀は何事も葉子より要領が良かった。ただそれだけの違いが、二人を大きく分けた。美紀は常に葉子の一歩先に立っていた。
「いつも比べられた。同じだから、同じことを期待される。本当の双子じゃないから余計にそうだった。重かった。ちっとも変わらないのに、なんで。なんで私だけが。ずっとそう思ってた。誰よりも大切で、誰よりも憎かった」
 ぱたりと涙がくず折れた膝の間、一枚の写真の上に落ちる。眉をひそめられたのも無理はない。浮かぶ影は、その傍らの人間と瓜二つの顔をしているのだ。そんな手の中の真実にすら気付かず、我が手で殺した従妹の存在そのものをさえ見失って、半身をそがれ虚ろに満たされたまま、ただ寄せる薄暗い夢に怯えていた。
「美紀。美紀。なんで、忘れて」
「要らぬものは忘れる。それが人だ」
 両手を見詰める。この手が、美紀を絞め殺したのか。この手の中で美紀は死んだのか。その感触さえも忘れ、封じ込めていた。なぜ、なぜ。
「そんな。私。どうすれば」
 頭が鉛のように重い。目を閉じるのが怖い。闇の中に浮かぶ己の罪が怖い。

 ひとつ、聞こうか。
 落ちた声に葉子はゆっくりと顔を上げた。割れた鏡にやつれた顔が映る。
「そこに写っているのはお前と、その女だな」
「……ええ」
「だがな」
 葉子の顔をじと見据え、白笛は言う。

 俺には、どちらの顔も同じに見える。

「……え?」
 何を、言っているのだろう。
「だって、私と美紀は」
「似ていた、か。双つ子とて、全くに同じということはなかろう。だが、同じだ。良く見るがいい」
 葉子は写真を取り上げ、見詰めた。そこにあるのは確かに葉子と、影の中の美紀の顔。
「何も」
「真実が知りたいのだろう。いや――お前は知っている。目をそらすな。そこに在る」

 ひょう、ひょう。ひょう……

 手の中の一枚の写真。あるのは葉子と、その傍らに浮かぶ、美紀の、
「え、これは、嘘」
 ずるり、霧を一枚剥がしたように、変わる。
「両方、わた、し」

 ひょう、ひょうひょう……

 いや、違う。
「違う、これ、は」
 枠の中の立つ女性。影の中の顔。それは、葉子では、ない。
 葉子ではない顔が、同じ顔が、ふたつ。
 ゆらり、身を起こす。
 ひび割れた鏡に映るやつれた顔。面変わりしたのではない。
「い、いや」
 首にうっすらと浮かび上がるのは、手の、跡。
 葉子ではないのだ。鏡に映るそれは――
「いやあああっ!」

 『美紀』の顔を抱え、『葉子』は叫んだ。

 見開かれた目。
(死んでしまえばいいのに)
 紅い唇。
(あなた、なんか)
 くと、力を込めれば。
(消えてしまえば)
 両腕の中で朽ちていく。朽ちていく。
(死んでしまえばいい)
 だらりと崩れ、床に落ちる。
(一人だけで、いい)
 落ちて、
(あ……)
 息を吹き返した手が、ゆっくりと首に、伸び。
(苦しい、苦しい。苦しい……み、き)
 ただ残るは静寂と、
(いや、いや。死にたくない)
 昏く澱んだ、生への渇望。
(死にたくない、同じ、なのに)
 己の体を失くした魂が、体を
(同じ体)
 求めて爪を立て、
(あなたなんか、要らない。出てって。出てって――
 魂を失くした体は、崩れ塵と化し、消える。

「死んだのは……死んだのは、私なの。死んで、美紀の体を」
 希薄になっていく自分の存在。離れていった友人たち。気付かなかった列車の車掌。封じた記憶。全て。
 全て、自らの昏き業がもたらしたもの。
「あ、ああ」
 鏡に映るやつれた顔。ぼやり、虚ろな女の顔が浮かぶ。ふたつの同じ顔。
 浮かんだ顔が、恨みに満ちた顔が、静かに、嗤った。
「いや、許して。美紀、美紀。許して……私は」

 ひょうひょう、ひょう。ひょう、ひょう……。

 風が舞う。笛が鳴る。
 さらりさらり、崩れていく。
 さらりさらり、溶けていく。
 偽りの身体が、流れる涙が、心が、言葉が、さらりさらり、音を立てて。

「在るべきところに在れ。お前はただ、道を誤った」

 さらり、さらり。さらり。さらり。
 風に包まれ舞い上がる。木箱の中に流れ込み、真なる静寂を得て眠る。
 笛がやみ、箱を取り上げて男が行くのは、石の群れ。道を違え、闇に迷った者たちの塚の群れ。
 茫漠とした草の間から、ひょろり、土まみれの白貂が顔を出した。
「ほ、よしよし、たまには役に立つな」
 用意された穴に木箱を納め、土をかぶせる。手を払い、振り仰ぐ空は、青く広く、高い。
 やわらかな陽の下に目蓋を降ろし、男は言った。

「秋か。さても日が流るのは早いものよなぁ、てんよ」



          ○

 山道を一人の男が歩いてくる。
 小柄で小太りの体を、さして大儀そうにも見えぬ調子でゆっくりゆっくりと運ぶその男の名は、田上康夫。霞辺村の現村長である。歩くのは村の外周を回る道、符玲道。古くよりあるこの山道は、今田上の前に見えてきた祠の主、道神・符玲様をその名の由来とする。
 祠の前に足を止め、手に持った酒と初穂を供え、手を叩き、しばし目を伏せる。
 道と旅の神、符玲。旅行く者が戻らず行けるよう、真実の道を教える神。その戻らずの語、すなわち『不戻』が転じ、『符玲』となったのを、知る者は少ない。
 かの古き偉大な神は、今でも道を誤り迷い込んだ者の前に老人の姿で現れ、正しき道を示すという。
 田上は立ち上がって余りの荷を取り上げ、もと来た方へ歩き出した。が、途中の岐路を左に折れ、山の奥へと入っていく。
 祀岸道。霞辺の村人さえも首を傾げる、意味のない行き止まりの道。だがどこへも続かぬはずのその草深い道の横に、今日は石段がある。田上は首を傾げることもなくその急な石段をゆっくりと登っていく。
 祀岸道。古い伝説は語る。
 還るに至る道。すなわち、『至還道』、と。

「白笛、おるかね」
 石段を登りきると瓦敷きの古びた平屋が建っている。田上は玄関を目指すことなくすぐに垣を左に回り、庭のある縁側に向かって声をかけた。
「いますよ。どうぞ」
 縁側に腰かけた男は田上の声に口から白い横笛を下ろし、良く通る声で答えた。
 垣の一角に造られた戸を開いて庭に入り、田上は白笛と呼んだ男の隣に腰を降ろす。男が目礼をする。
「久しぶりです村長。お変わりなく」
「それはこっちの台詞だよ、白笛。わしは老けたが、お前さんはちっとも変わらん。一体いくつになるんだい」
 男は愉快げに眉を上げ、
「ほ、ほ。また同じことを聞きなさる」
 言う。
「いくら聞いても答えてくれんからだよ。うちの親父も聞いたかね」
「誰も彼も。聞かぬ者はいませんよ。答えを手に入れた者も、さて、いたか、いないか」
「その様子じゃ、いなかろうなあ」
 禿げ上がった額をつるりと撫で、田上は笑う。
 符玲を祭り、村の片隅に住む得体の知れぬ男と言葉を交わす。そんな田上の家に継がれる習慣はもう何代続いたことだろう。誰も知らない。知ろうとする心も経る年の中に埋もれてしまったに違いあるまい。

「さて、今日はどんな用件で」
 白笛が家の奥から茶を手に戻り、元いた縁側に腰かけ尋ねた。
「いやなに。いつもと同じだよ。符玲様に参るついでに寄った。ああ、これはうちで作った漬物だ」
 そう言って田上が差し出した風呂敷包みを、どうも、と男は受け取り、
「しかし、いつも俺はあそこの神様のついでにされますね。たまにはこちらに用事を持ってきてもいいんじゃないかと思いますがね。ああ、ま、忙しくなるのはちと困りものだが」
 飄々と、そんなことを言う。
「お前さんが忙しいなんて、あるのかね。いつも暇だ暇だと言っては、笛を吹いて呑気に暮らしてるじゃないか」
「ふむ。忙しくなると、暇が恋しくなるものですな」
 妙な応答に呆れてか可笑しくてか、やれやれと呟いて、田上は茶をすする。

「村長、あの御神は、ちと正直すぎるきらいがありますよ」

 唐突に切り出した白笛に、何を言うのかと田上が細い目を丸くした。
「なんだいそれは。道神が正しい道を教えんことには仕様もないじゃないか」
 ま、それはそうですがね、と頷き、
「しかしね、正しい道が全て前へ続くものとは限らんのですよ。お陰で還るほうも還すほうもややこしい目を見る」
 そう続ける。
「たまには違う道を教えろとでも言うのかい」
「……や、さ。結局はまあ、末に着くところは同じですがねえ」
「地獄か、極楽か、かね」
 田上が尋ねると、男は手の中の湯呑みを揺らしながら、
「どうでしょうな。さて、さて。人の真とはなんなのやら。わかれば苦労はせんが、わからぬからこそ人なのか。何にしろ、ま、俺はここに在るのみですがねえ」
「……やれやれ。お前の言うことはいつも難しいな。わしにさっぱりだよ」
 ふうと息つくのに、くつりくつり、笑う。
 田上はもう一度やれやれと呟きを落として、ふと手を叩き、白笛に尋ねかけた。
「そうそう。民宿をやってる杉浦さん、知っているかね」
「ええ。鼻の曲がった爺さんでしょう」
「これ、口が悪いなお前は。その杉浦さんのところに、おとといから客が来る予定だったんだが。夜になっても来ない、帰る予定の今日まで結局連絡ひとつなかったそうでね。お前さん知らんかね。迷って誰か来なかったかい」
「いいえ、人は誰も来ませんがね」
 首を振って答える。
「そうか。いや、なんだかおかしな人だったそうだよ。電話の声もえらく陰気で……女の人だったそうだが、気味が悪かったと言っていた」
「ま、不思議なことなど世に尽きませんよ」
「ふうむ」
 感慨深げに息を鳴らし、ず、と茶をすする。
 渡りの燕が空高く飛んでいる。

 茶を一杯干して去った田上と入れ替わりに、どこから現れたものか、白い胴長の貂がひょろりと飛んで、縁側の家主の隣に座を占めた。
 ぬるくなった茶を含み、白笛。

「己の死を忘れて仮初めの生を手にした者と、恨みの末に生きながら霊と化した者と……さて、どちらの念が強かったものやら。てん、お前はどう思うね?」

 てんはゆうらりと太い尾を揺らし、白笛の顔を見上げる。と、不意に身を固めて仰ぐのは、庭木の高枝あたり。
「ほ。気付いたかね。一人か、二人か、しかとはわからんが……。ふむ、よほどにこの地が気に入ったと見える。在るべきところでないというにな」
 帯から笛を抜き手に構え、目を閉じ伏して囁きひとつ。


 ――ま、笛の音に飽いたら去るが良いさ。


 ひょうひょう、ひょう。
 ひょう、ひょう、ひょう……


―了―
後書きを表示する
 部誌より再録。書き手の趣味が反映され尽くした長い作品となりました。
 話を作った当初は白笛が方言で話していたはずなのですが……どこいったんだろあの設定。

イメージイラスト>白飯さんから頂いた白笛

<初出:03/06/14>(07/12/02 全面改稿)

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