白笛


 単調な世界。
 荒い呼吸の音の下、かすむ視界の奥に見開かれた目が浮かぶ(何を見詰めるのか?)。
 闇を背に蠢く紅い唇の隙間から細く長く息がこぼれる(何を紡ぐのか?)。
 くと力を込めれば両腕の中で、朽ちていく。朽ちていく。
 だらりと崩れ床に落ちる。落ちて。
 ただ残る、静寂。

           ◇

 窓の外は秋であった。
 つい数刻前までビルと工場の林の中にあった列車が、ふと気付くと山と一面の水田の間を走っていた。
 遠くに見える木々が薄く色付いている。陽光を返す川は道と並行に滔々と流れ、風が稲の敷布にさざ波を作り消える。どこまでも続く同じ風景。同じ世界。
 都心を少し離れるだけでこうも景色が違うものかなどと感心するわけでもなしに思いながら、葉子は窓に映る自分の顔をつと指でなぞった。
 若くつやのあった頬は見る影もなくやつれ面変わりし、十も歳高にすら見える。
「えー失礼します。切符を拝見いたします」
 車両のドアが開き、事務的な車掌の声が後ろから近付いてくる。葉子は傍らに置いたバッグから切符を取り出し待ち構えていたが、やる気なげに足を進めてきた車掌は、二人席の奥に座った葉子の姿に気付くことなく、素通りしてひとつ前の中年男性の方へ歩き過ぎていってしまった。
 葉子はどさりと椅子にもたれ直した。声をかける気も起こらなかった。

 旅行とも言えない旅行だった。地図をめくっていつの間にか選んでいたのは何もない田舎だった。一万にも値の満たぬ民宿に電話をかけて、気付けば今こうして列車に揺られている。過去に耳にした目指す地にまつわる他愛もない噂話と、バッグの底にしまい込まれたおぞましい一枚の写真とを結びつけながら、ほどきながら。
 出がけに持っていこうかと迷って、結局ソファに放り出してきた厚地の上着をため息とともに思い返しながら、窓の外の秋に目をやる。
 どこまでも続く同じ風景。同じ世界。
 ふと浮かんだ言葉が胸に蔦を張る。疑問の糸を一本また一本、丁寧に手繰り寄せるまでもなく、色持って現れるのは音ひとつ。
 夢。
 始まりはいつの頃からだったのか、毎夜毎夜訪れる。遠い音と、かすんだ映像と。浮ついた現実感を持って降る夢。寄せては返す波のごとく、近付くことなく、離れることなく、ただただ心を食んでいく。同じ風景、同じ世界。
 食欲は失せ、頬は見る間に痩せた。それは夢を見始めてからのことだったろうか。
(わからない)
 絡み始めた糸から手を離し、心臓の鼓動にも似た列車の揺れに、ただじっと身を任せた。

 終点の駅についた頃には、列車内の乗客の姿もほとんどなくなっていた。車掌の判がない切符に今更の不安を覚えながら列車を降りた葉子だったが、出口は小さな駅舎に似合わぬ自動式の改札であり、何やら拍子抜けがした。
 寂れた駅の構内から出て、辺りを見回す。眼下に寄せる山と森。見上げる空は広く高い。
 目指す地は駅からバスで一時間ほど、さらに山奥へと走らなければならない。鉄道の通らない、バスさえ一日に三本足らずしかない、絵に描いたような田舎。旅の目的地、霞辺村。県の観光案内にすら載っていないような村だったが、その名の響きは少し気に入っていた。地図の上の小さな名前に目を留めたのも、昔聞いた噂話を忘れていなかったのも、そのためであったのかもしれない。
 風がふらりと頬を滑る。今はまだ穏やかなこの風も、あとひと月もすれば身を切る木枯らしに変わるのだろう。木々を赤に橙に紫に染め上げ、やがて終わりから始まりへと連なる無彩の世界が訪れる。

   ……のに。

 突然、耳元で誰かの声を聞いたように思い、葉子ははっとして振り返った。
 ただ風に木が揺れていた。

          ◇

 大きくゆるやかに蛇行したカーブを幾度もやり過ごし、古びたバスは山の奥へ奥へと入っていった。
 車内は本数の少ない車輌に相応の混雑であったが、霞辺村の停車場で降りたのは葉子を含めほんの二人きりだった。山と森の緑の中に、錆び付いた標識ぽつりひとつ。それだけが、外の世界とこの地とを結ぶ唯一の接点であるように思われた。
 地元の住民なのだろう、共に下車した男性はすぐに道を歩き去ってしまい、葉子はひとりその場に残って持参の地図を広げた。霞辺村の、とは言っても、地図で見ると停車場は村のかなり外れに位置している。東にぽつりと記された役場の名にひとまず目標を定め、先の男性とは逆の方向へ歩き出したが、道は細く何度も分かれ、地図が詳しくないこともあり、いくらも行かないうちに迷ってしまっていた。
 携帯も通じないような山の中である。身の疲労はさほどのものでもないが、時間が気にかかった。時計の針はまだ四時台を示しているが、秋の早陽は既に傾き始めていた。村の民宿には夕方には着くだろうと連絡してあった。
 行く手に垂れる柳の枝をはらうと道の先が二股に分かれているのが見えた。はや幾度目かの岐路に足を止めため息をつくが、この旅自体があまりに無計画なもの、自業自得と諦めて道の選別にかかる。
 向かって左手に山。右手はゆるい崖で、立ち並ぶ木々の陰になって確かには判らないが、おそらく沢になっているのだろう。かすかに川の音がする。右に分かれる道は細く下りになっており、その川に至っているようだ。左の道は今まで歩いてきたものと同じように、山沿いに走っている。どちらもまるで舗装されていない、これからもされることのないであろう、人が作りその足で踏み固めてきた、落ち葉積もる黒土の道である。一歩一歩に沈む靴の下の柔らかな感触は、長年にわたり都会のアスファルト路を歩いてきた身には、一種奇妙なものにすら感じられた。
 何か手がかりをと左の道の山際に目をやり、積もる枯葉の一部が大きく盛り上がっているのに気付いた。鮮やかな紅葉の隙間に灰色が浮き出している。歩み寄り、枯葉を払う。手にざらりと硬い物体が触れ、厚い石の板が現れた。細い溝にかかった指を引き、黒ずみ苔の生えた石を覗き込めば、枯葉の衣を落とし露わになった板の表面に、崩れた筆致で『符玲道(ふれいどう)』と文字が刻まれているのが読み取れた。
 ひとつ足をひいて再び岐路へと身を向ける。数分の黙考を置いてのち、葉子は左の道を歩き出した。これという山歩きの備えもない足で細く急な道を下るのは心許なく、また名前のある道ならば、少なくとも途絶えることはなく先へ続いているように思えた。
 そうしてしばらく行くと、道のはた、ぽつりとうずくまる影が前方に見えた。左手の山の斜面を背に、石造りの小さな祠が据えられている。古い物なのか、先の板と同じくところどころに苔が生えているが、新しい供物が置かれているところを見ると誰かしら人が訪れるのであろう。無人の道ではないことにひとまず安堵する。
 まあそれほど珍しいものでもない、と早足に祠の前を行き過ぎようとした、その時だった。

「道に迷いなされたか?」

 予期せぬ人の声が落ち、視界の隅に影が動いた。振り向いた足が次の息とともにはたと止まった。
 暮れる陽をさえぎり折り重なって続く山の緑を背景に、小柄な老人が立っていた。
 編み笠に手甲、脚半、黒の法衣、手には杖。時世に外れた奇矯の出で立ちは、さながら演劇に観る『旅僧』の役者のごとくである。一体どこから現れたのか。祠の影か? いや、それはないと首を振る。道に覆いかぶさる木の影は濃いが、それが葉子の肩あたりまでの背しか持たない細身の老人であっても、決して人ひとりの姿を見落とすような暗さではない。
 物言えず立ち尽くしていると、『旅僧』は気にした様子もなく、再び口を開いた。
「ふむ。この土地の方ではないとお見受けするが、道に迷いなされたのではないのかね」
「え、ええ」
 あわてて返すと、
「ほほ。驚かせてしもうたかね。急に声をかけて申し訳ない。そのように怯える必要はありませんぞえ。皺だらけの顔は気味が悪いかもしれぬが、歳が歳、木の輪と同じに消せませんのでな」
 ゆったりと言って、笑う。老人らしい柔らかな声音に、騒ぐ胸鳴りはさておくも、不信の念は薄らいだ。
「あの。ここは、霞辺村ですよね」
「左様」
 頷きにひとつ息が漏れる。ともかくも、どこか他に迷い込んでしまったということはないのだ。
 突然のことに驚きは消えぬにせよ、迷い道で人に出会えたのは幸運である。早鐘(はやがね)を打つ胸を押さえ、葉子は『旅僧』に尋ねかけた。
「その、私、この村にある杉浦荘という民宿を探しているんです。ご存知ありませんか?」
「ふむ、ふむ」
 相槌を打ちつつ、編み笠を手で小さく持ち上げた『旅僧』が葉子を見上げる。ひさしのように伸びた眉毛と下がった皮膚の間に細く光る瞳の鳶色に視線がかち合った瞬間、深井戸の底を覗き込んだような、奇妙の感覚を覚えた。
「この道を行くと」
 『旅僧』は葉子から目を外し、そのままずらした視線で宙空を見据えたかと思うと、手にした杖でなおも先へ続く「符玲道」を示した。
「途中で、道が左右に分かれておりますのでな。それを左に行きなされ。その道の途中に石段があって、登ったところに一人の男が住んでおる。それを訪ねなされ。ちいと偏屈な男だが、ま、気長にの」
「え?」
 なにやら的の外れた答えではないだろうか。思わず疑問の声を発したが、『旅僧』はただ笑うだけで、それ以上何も言わなかった。訝り、だが騙されているとも感じられず、葉子は礼を述べた。
「ありがとうございます。あの、失礼ですが――
「なになに、この老いぼれのことは気にせんで下され。行けば貴方の目指すところへ着けましょう。道中お気をつけなされ。このごろはすぐに暗くなるでの。夜の山は人が力の及ぶところではありませんぞ」
 言葉の先を判じ取ったのか、続く声をさえぎり、和装の老人は静かに笑った。
 疑念は様々にあったが、先手を打たれてはそれ以上無理にすがることも出来ず、深く一礼をしてその場を辞する。
 少し歩いたところで何のけなしに顔を振り向かせると、こちらを向いて立つ『旅僧』の小さな姿が、墨絵のようにひとつ浮き出して見えた。くと鳴る息を喉の奥に呑みこみ、止まりかけた足を一心に前に運んで歩き続けた。

          ◇

 さほども行かぬところに『旅僧』の告げた分かれ道はあった。左へ、老人はそう言っていた。
 だがいざ前に立ち、眺めるその岐路の景に、葉子は首を傾げずにはいられなかった。というのも、平坦で人の行く跡が見て取れる右の道に対して、『旅僧』の語った左の道は、やや狭く、山の奥へとそれていくものだったからである。右と左と表すよりは、本道と脇道と言ったほうが正しいように思える。
 戸惑いに眉根を寄せる。人の忠言に従って遭難するなどたまらない。平常に考えれば、その恐れがないのは右の道だろうことは容易に想像がつく。
 そうと確かにわかっていながら、足が動かなかった。肩にかけた荷の底の写真が、記憶の底の噂話が、
(一人の男が住んで――
 身を黒土の道の上に磔にした。

   ……いのに。
   ……から、

 ひとつ深い息をついて、足を踏み出した。山の奥へと続く道。足元の、半ば土に埋もれるようにして立てられた、苔むす石の板に目がとまる。
 「祀岸道(しがんどう)」。崩れた文字が彫られている。



 道を折れて程なくすると、左側の山の斜面を登る石段が見えた。道はまだ続いていたが、葉子は今度は迷わずその急な造りの階段に歩をかけた。狭く硬い石の踏み板を一歩一歩確かめながら、不定の何かに背を押されるようにして足を動かす。
 手を杖にして、どれほど登ったときか、やにわに視界が開けた。息を入れて最後の一歩を平らな地面に持ち上げる。頂上近いのだろう、空が広い。前に目を投げればぽつりぽつりと粗く申し訳程度に敷かれた石畳。その先に、瓦敷きの屋根が木の隙間から小さく見えていた。
 意を決して一歩を石畳の上に進める。と、不意に、風の起こす木のざわ鳴りに紛れながら、しかし確かな律を備えた音が山の空け地に湧き流れた。

 ひょうひょう、ひょう。

 澄んだ高い音色。ゆるやかな韻律が風とともに耳横を過ぎた瞬間、胸にどくりと鈍痛が響いた。引きつった声が口から漏れた。足に力を入れ、膝が折れるのをなんとかとどめる。
 美しい音だ。それは確かだった。しかしそれと同時に、それ以上に、その音色は何か別の言葉でもって葉子の身に働きかけていた。身体の壁を内から叩かれたようだった。
 引き千切られる。
 由もなく思い、音の元を辿って震える足を動かす。見えてきた正面の戸口をそれ、左へ回りこむ。粗略な造りの垣と丈低い木の向こうに、庭と思われる少しの間を置いて、その音の源流があった。
 それは笛の音であった。
 和服姿の男が縁側にひとり座し、横笛を吹いている。
 葉子は胸を掻きむしった。ただ独りの人間が発しているとは思えぬほどに、大きく厚みのある笛の音。こころよい旋律。だのに、堪らなく苦しい。
 何故を問う声を発することも出来ず、倒れかかる身を支えようと、目の前の垣に手を置く。木が軋み、ぎいとかすかな音を立てた。ひたり、笛がやんだ。胸が軽くなった。
 はっとして一歩身を引いたのと同時に、声が響いた。

「何か用かね」

 さして大きくないが、通る声。
 あ、と文にならない音が漏れる。続く言葉を紡ごうとするが、かすれた息だけが唇の隙間を抜ける。思考が霧に落ち込んでいた。動転を抑えつけてどうにか答えを返そうとする前に、再び男の側から声が飛んだ。
「ま、表に回ってくれんか。垣越しで大声に話す必要もあるまいよ」
 或いは葉子を助けたのだろうか、そんな言葉を置き去りに、和装の後姿が部屋の奥へと消えた。気遣いに感謝するゆとりもないほど詰まっていた息を吐き出して、葉子はゆっくりと玄関の方へと歩いた。送る足先、庭木の影が長く伸びている。夜が来る。灰色の頭でぼんやりと思った。

 男は開け放された木戸の奥、玄関の上がり端に立って待っていた。葉子は戸外と狭い土間とを分ける敷居の前で立ち止まり、男を見上げた。
 素足に藍絣の着流し姿。短く切り跳ねた黒髪。手には笛が握られている。先の『旅僧』と同様の時代がかったその姿は、しかしこの地、この家にあっては、まさに相応しいもののようにも思えた。
 一礼し、今度は自分から、用意の言葉を告げた。
「突然すみません。実は、道に迷ってしまって。杉浦荘という民宿をご存知ありませんか」
「杉浦荘」
 名が繰り返される。葉子は付け加えて言った。
「下の道で、おじいさんにここを訪ねるように伺ったんですけど」
「ほ」
 男がわずかに眉を上げたように見えた。それをしかと見止める間もなく、きっぱりと声が返された。
「ないな」
「え?」
「そのような宿は、ない」
 簡潔な問答。予想だにせぬ言葉に葉子は面食らった。
「え、でも、ここは霞辺村なんですよね」
「そうとも」
 『旅僧』と同じ、短い肯定の返葉。
 宿がない。ならば、予約のやり取りと、今日と、確かにこの手でかけたはずの宿への電話はなんだったと言うのか。あれもまた、夢であったとでも言うのか。
 言うべき言葉が見つからずにただ立ち尽くしていると、男はすっと葉子に背を向け、家の奥へ戻っていってしまった。その所作の全くの前触れのなさに虚を突かれ、目を見張るまま引き止めることも出来なかった。
 と、ややあって、再び廊下の角に和服姿が現れ、呆然と立つ葉子に声がかかった。
「上がらんのかね」
「え……」
「野宿をすると言うならそれでも構わんが」
 さらりと流れる言葉が脳内で消化されるまで、少しの時間を要した。
「泊めて、くれるんですか」
「部屋ならある。ちと狭いがね」
「でも」
「ま、座って話すが得さ。もう陽も落ちる」
 躊躇する葉子に断言の調でそう言い落として、男はまた背を向ける。歩きながら「履物はそこに脱いでくれ」と付け加えた。
 葉子は一度後ろを振り向き、山を覆い包みつつある夕闇を目にしてから、ゆっくりと敷居をまたいだ。土間には男の物と思われる草履が置いてある。言われた通り靴を脱ぎ、板張りの廊下に足を上げると、きし、と床が高い音を立てた。
 数歩歩き左へ曲がると正面に木戸があった。開いた引き戸の向こうに藍色の着物姿が見えたので、他に目を移すことなくその部屋に入った。広い板張りの間。男は部屋の中心におかれた炭櫃の奥に座している。左に目を移すと、一枚だけ開けられた障子があり、長く細い影を引く――もはやその影も夜に溶けつつあったが――数本の木が見えた。
 部屋には入ったものの、足を進めることが出来なかった。男に尋ねた。
「独り暮らし、なんですか?」
「ああ」
 男は軽く返して、なおも立ち尽くしたままの葉子の顔を見上げてきた。怪訝な表情を作るでもなく、
「ほ。心配せずとも、俺はお前さんの案ずるような手合いの者ではないさ。信用がならんのなら俺の体を表の木にでもくくって寝たがいい」
 言って、くつりくつり、形良い唇を手で押さえ、笑う。心中をずばり言い当てられて、葉子は顔が赤くなるのを感じた。
「すみません。お世話になります」
 照れの反動で早口に言った。結局のところ、野宿の備えなどもちろんない葉子には、願ってもない申し出だった。

 荷物を部屋の隅に降ろし、勧められた座布団に座り込む。「高島葉子です」と炭櫃を挟んで向き合う男に頭を下げた。男はふむ、と頷いただけだった。
 数秒の沈黙。そのまま絶えてしまいそうになる会話に戸惑い、一歩踏み出して先を継いだ。
「あの、あなたは?」
「名前か? そうよな。人からは白に笛と書いて『しらぶえ』などと呼ばれているが」
 よそ事のような口振りで答えが返る。
「白笛」
 葉子はちらりと男の腰に目を走らせた。帯に差し込まれた先の横笛。木なのか、竹なのか、石なのか、材質の良くわからない白い笛。
 その視線を見て取ったか、「白笛」と名乗った男は再び笑い、言った。
「ほ、ほ。見たままと思うかね。左様さ。だが、見たままが正しいということもある」
 葉子は答えなかった。人に呼ばれる。氏とも名ともつかぬその名は、実の名ではないのだろうか。不思議に思ったが、「ひとまず飯にするか」とおもむろに白笛が立ち上がったので、それ以上問いを重ねることはかなわなかった。
 手伝いの申し出に首を振られ、ひとりになった部屋で手持ち無沙汰に辺りを見回したが、目に入るのは壁と床と炭櫃、そして障子の外の庭木。本当に何もない、ごく簡素な家であった。

「あいにく卓がないのでな。食いにくいかもしれんが、膳で我慢してくれ」
 そう言って出された料理はまさに一汁三菜といった体であったが、味は悪くはなく、量も食欲に欠ける今の葉子にはちょうど良いほどだった。これを目の前の男が一人で作ったのかと考えると、なにやら滑稽にも感じられるのだったが。
 ゆっくりと食事を済ませて箸を膳に戻したその時、横手から視界の中に走りこんできたものがあった。目をこらす間もなく白い塊がひゅうと胸元をかすめて飛び、葉子は思わず声を上げて身を後ろに引いた。
 とん、と床板に軽い音が降り立つ。それは胴の長い鼠のような姿に真白い体毛を持った、一匹の獣だった。その場にひたと止まり、毛色に際立つ黒く大きな双眸で葉子をじっと見上げている。声なく身を固めたままでいる葉子をよそに、突然の闖入者に何の反応も示していなかった白笛が、ひとこと声を発した。
「てん」
 呼ばわって、自分の膳の上から、手を付けずに置かれていた平皿を床に降ろす。小さな獣はみゃあ、と鳴いてそちらに走り寄り、皿に盛られた肉をがつがつと食べ始めた。
 葉子は息をつき、男の言葉と獣の姿とを頭の中で並べた。『てん』。名前は聞いたことがある。山地に住む動物で、鼠ではなくイタチの仲間の『貂』のことだろう。
「飼っているの?」
 尋ねる。食事の間に敬語は取れていた。このような山奥でまで堅苦しい言葉を通すのは逆に妙に感じられたし、遠慮がないのはお互い様だと思った。
「いや」
 短く否定の声が返る。
「慣れているように見えるけど」
「住み着いているだけさ。ここにいれば食い物にありつけるのを知っている」
「それ、あなたが餌をあげるからでしょう。飼っているのと似たようなものじゃない」
 そう重ねて言うと、食事に夢中の獣に横目をやり、
「出さんと袖をかじるのでな。邪魔にならねば良いのさ。大概は寝ているか、外に出ているか。冬には懐炉代わりにもなる」
 さらりと言って白い貂の耳をぎゅ、と指でつまむ。まだ皿に取り付いている白貂はむずがるように頭を振りたてはしたが、こんな戯れに慣れているのだろうか、怒って何をするわけでもなかった。
「名前はなんていうの」
 問う。先ほど男は『てん』という言葉でこの生き物を呼んだ。それは猫を『ねこ』と呼ぶようなものだ。名前とは言えない。
「ない」
「付けないの。変ね」
「俺は無精者なのでな。『てん』と呼べばわかるのだから、それでよいのではないかね。ま、呼ぶことなどほとんどないが」
 事もなげに返し、それに、と続ける。
「もしも俺がその生き物に良い名を付けてやったところで、ものの本性(ほんじょう)、ものの真(まこと)に違いはあるまいよ。『てん』は『てん』、お前はお前。俺は俺、さ」
 するりと流れたその言葉の意を呑み込む前に、
「この家までの二つの道の名を、憶えているかね」
 またひとつ、細い唇が声をつむぎ落とした。
 唐突な問いに一瞬思考を止め、男の顔を見返す。『てん』の上から正面に直りかち合った視線の中にはこれという色もなく、意図が判じ取れぬまま記憶を辿った。朽ち葉に埋もれた二つの石の道標。
「確か、祠があったのが『符玲道』で、このすぐ下の道が『祀岸道』、……でしょう」
 探るように言う。字の読みは当て推量だったが、訂正なく白笛は頷き、
「そうさ、合っているな」
 だが、違ってもいる。そう奇妙な言葉を重ねた。
「どういうこと」
「ふむ。お前の頭にある今の道の名と、元の道の名は同じで違う。音を残して字が化けた。今は小難しい字を使っているようだが、前は至極単簡な書きようだった」
 もって回った口ぶりではあるが、説明はごく理にかなっており、葉子は単純に納得の頷きを返した。長い年月のうちに土地の名が変わってしまうのはそれほど珍しいことでもないだろう。
 変わらず淡々とした調で、白笛は言う。
「だがお前はその道を歩いてきたろう。元の名を知らぬ道をな。付けられた名をいちいちに想うかね? 道は道であり、それがなによりの本質、なによりの真だ。どんな名を与えられ呼ばれようとも、結局それは変わらんのだよ。個に被せる表の名など、大した意味を持たんさ」
 本質こそ肝要である、と、物の本であればそうくくったろう。が、男はそうしてしかつめらしい説教を続ける代わりに、
「お前は、お前自身の真を知っているかね?」
 揺れも張りも上に乗せず、唄を詠ずるように、そう問うた。

「私自身の、真」
 ほつりと繰り返す。自身の真。人間の本質。短い音を幾度も頭に巡らせ、しかし形ある言葉に落とし込めないまま、首を振る。
「わからない」
 わかれば自分は今ここにいなかったろう、そう思う。
「なんなの? 私は、知らない」
「ふむ。お前自身の真を、俺が知るわけなかろう?」
 問いの主に答えを求めても、ただ飄々とした声が返るばかり。
「ま、そう易くわかるものではないのさ」
 そう言うなら、なぜ尋ねたのだろう。
「あなたは、知っているの。自分の本質を」
 答えに興味があるわけでもなく、ただ訊いた。
「さぁて、なあ」
 男は薄く笑み、それ以上何も言わなかった。

 それは単に『てん』に名をつけぬことに対する言い訳だったのだろうか。自分の名を語らぬことに対する説明だったのだろうか。それとも、他に何事かを語っていたのだろうか。葉子にはまるでわからなかった。
 ただ思う。異質だと。
 そう、異質なのだ。この男、この家、この地そのものが。そんな簡単で明瞭な言葉に今まで思い至らなかったのが不思議なほどに。
 その異質な場で、なぜなのだろう? 自分は、こんなにも落ち着いている。
 己に投げかけた問いはただ繰り返し胸の中で鳴るのみで、その隅にうずくまる心が努めて答えを出そうとしなかったのは、怖かったからだろうか。
 怖い? 一体なにが?

   ……いいのに。
   ……るから。

「寒いか」
 ひそりと落ちた声に、霧が晴れるように葉子の思考は散った。気付けば肩が小刻みに震えている。障子の間から冷えた外気が流れ込んできているのを感じたが、それが原因だったのかは判断できなかった。
 葉子の返事を待たず白笛はついと立ち上がって障子を閉めた。ただ薄い単衣のみを身に付け足袋も履かぬ己の方が葉子より数倍も寒いだろうに、足の凍えで裾を乱すことも、床を軋ませることもなしに滑るように歩が進み、いつの間に帯から抜き取ったのか、また炭櫃の前に戻った男の手には白い横笛が握られている。きちりと揃えた正座の膝上に『てん』がひょいと身も軽く飛び乗る。
「ちと吹くが、よいかね」
 問われ、しばし言葉に詰まった。
 聴けばまた先のような得体の知れない苦しみに見舞われるのではないだろうか? 今度こそ身が内から引き裂かれるのではないだろうか? そんな問いの一方で、身体の奥深くが確かにあの音を求めている。座る足の下、山の地の底から立ちのぼる寒気が胸を掴み絞め、静かに強く揺さぶっている。
――ええ、構わない」
 惑い、だがそうして唇から滑り出た言葉は、混濁した意識と身体とが割かれ離れてしまったかのようにひどく平坦なものであった。白笛はうむ、と頷くと、目を閉じ、笛を横に構えた。
 
 ひょうひょう、ひょう。ひょうひょう……
 
 音高くしかしやわらかに、旋律が部屋を包む。
 苦しさも痛みもなかった。ただ胸をえぐるような感動があった。葉子は薄ぺらい座布団の上でただ呆然と膝を抱き、目の前の和装の男を見詰めていた。
 ぴしりと伸ばした背はかすかにも揺るがず、息継ぎに口を離すところさえ一度も見られなかった。ただ骨ばった長い指のみが孔の上を軽やかに踊り、高く低く妙なる調べが紡がれる。
 笛とはこれほどに深く豊かな色を持つ楽器であったろうか。もしも観衆が前に並んでいたならば、この音色に拍手を惜しむ者は一人とていないだろう。音楽にさして興味を持たない自分がこうまで胸を震わせられるのだ――強く思う言葉が声になることはなかった。いや、出来なかったという言葉こそ正しい。

 ひょうひょう、ひょう……

 どれほどの時間だったのだろう。白笛が一曲を奏で終えた様子はなかったが、ことによるとそれは際限なく続くものであったのかもしれない。不意の間に音は絶えた。構えを崩さぬまま笛から薄い唇が離された。
 男は言う。
「部屋はここを出て廊下の角にあるのを使ってくれ。蒲団は中に積んでおいた」
「え……」
「荷もそこに置け。俺はまだここで吹いているが、もう夜も更ける。山で負った疲れはその日のうちに降ろすが得だ」
 つまりはもう休めということなのだろう。腕の時計は男が言うほどに遅い時間を示してはいなかったが、葉子は素直にその言葉に従うことにした。実際に山道を歩いていた時にはさほどでもなかった疲労が時間とともに骨の芯に沈んだのか、わずかな身じろぎさえ重く感じられた。
 じゃあ、と家主にひとつ頭を下げてから板間を抜ける。言われた部屋はすぐに見つかった。狭い畳敷きの和室。右手に障子で、開けると外に面しているらしい廊下。それは家の奥へと続いていたが、雨戸が閉められており、月明かりも入らぬ暗闇の先をあえて見ようとは思わなかった。
 部屋の隅に荷物を降ろし、手早く着替えて蒲団を伸ばす。決して上等とは言えない煎餅蒲団だったが、横になってつらつらと今日の出来事を反芻しているうちに眠りについた。
 笛の音が遠く聞こえていた。

   ……まえばいいのに。
   ……るから、は……


          ◇

 翌日、板張りの間で最初に葉子を迎えたのは小さな獣だった。
 胴長の白い貂は葉子の遅い起床をからかうようにみゃあ、と高く鳴声を立て、ちょろちょろと足元を回って歩くのを邪魔する。ぼうとその姿を見詰めていると、前から声がかかった。
「眠れたかね」
 顔を起こす。白笛が昨日と同じ場所に座し、鉄箸で火の入っていない炭を炭櫃の脇に寄せている。この男は果たしてゆうべ寝たのだろうか。ぼんやりと思う。風を縫って鳴り渡る笛の音が、まだ耳についているような気がした。
「座って待て。朝飯を持ってくる」
 白笛が言い、音もなく立ち上がる。『てん』がひょと飛んでその後ろに付き、廊下へ姿を消した。
 葉子は床の木目に触れ、今日は二枚とも大きく開かれた障子の外から入る朝の光に目をやった。巣を逃げても追いすがる悪夢はいまだ形定まらず、これこそ夢かと思った現実が確かにここにある。我が身はとうに現実から離れ、夢に住まいを移している心持ちさえするというのに。
 炎の中でこそ熱く硬く燃え、穏やかな風にさらされれば薄い灰片と成り果てる。人間がこの炭櫃の中の木炭のようなものだとすれば、自分はもはや数も知れぬ塵にすら劣るのではないか。困惑と恐怖という風に吹かれ、地に着くこともなく漂っている。いつから、いつから――


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