酒場にて


 男は階段を降りていた。
 身を左右に挟む煉瓦造りの壁は両腕を伸ばすまでもなく橋が渡るほど近く狭く、ぽつりぽつりと間を空けて提げられた小さな照明がかすかな光を床に落としている。ちらちらと揺らめく灯りが野渡る陽炎のようにも見える。
 今自分は階段を降りている。
 男の頭に唐突な認識をもたらしたのは視界に動く一対の靴だった。遠ざかり、近付き、また遠ざかる。狭く急な踏み段を一歩一歩探るようにして降りていく色褪せた茶の革靴を、おそらくは随分の以前から男は背を曲げて見下ろしていた。それが自分の靴であることに男はもう気付いていた。
 視線を上に辿ると濃灰色のズボンに同じ色の背広。襟の崩れたワイシャツに飾り気ない格子柄の紺のネクタイがゆるく下がっている。両の手は何も持たずズボンのポケットに仕舞い込まれ、右の指先にかすかに服の生地とは違うなめらかな物体の感触が伝わっていた。財布かもしれないし、そうでないかもしれない。男はぼんやりと思ったが、それを引き抜いて確かめることはなかった。
 見覚えのない場所だった。きっと初めて訪れたのだろう。いや、訪れようとしているのだろう。
 どこへ。―― この階段の終わった先に。
 何がある。―― それは知らない。
 問うともなく問い、答えるともなく答える。不定で不可思議な感覚の中にありながら男の胸はごく落ち着いていた。一歩、また一歩、ゆったりと動く靴を見詰め、真っ直ぐに伸びる長く狭く急な階段を降りていく。今はただその行為のみが世界の全てであるかのように、沈黙だけを共に男は独り階段を降り続ける。

 とん、と軽い音を立てて両の足が横に並んだ。男は背を伸ばし顔を上げた。黒く塗られた厚い扉が無造作に開いており、奥に狭い通路が続いていた。
 確かに知らない場所だった。だが確かに目指していた場所であり、訪ねるべき場所であった。確認の問いも得心の頷きも要とせず、その言葉だけが男の胸の内で鳴り、足を促す。一歩、二歩、変わらぬゆったりとした動きで茶の革靴は床の継ぎ目の前に止まった。このまま進んでもいい。どうせ後の行動は変わらないのだから、必ずしもするべきことではない。だが、男は足を止めた。目を伏せ、すうと一つ呼吸を置き、そして、初めて後を振り向いた。
 長く狭く急な階段が真っ直ぐに伸びていた。下からゆっくりと視線を持ち上げ、しかしどこまでも壁のように続く階段に終わりなどないように思えた時、ふっと段が途切れ、揺れる灯りに霞む黒い扉が見えた。面(おもて)に拒絶の言を刻んでいるかのように重く閉じられたその扉の影はひどく小さく、そしてひどく遠かった。見上げるその数秒、男は思考を巡らせたが、自分があの扉を入ってきた姿も、また出て行く姿も頭の中に描き出すことが出来なかった。
 視線を下ろし、男は階段に背を向けた。閉じた黒の扉はすぐにその影を世界の外に沈めた。もう一度目を伏せ、そして開けば、もうそこには開ききった鮮やかな暗色(くらいろ)の扉しか存在しなかった。
 止めた足を一歩踏み出す。扉をくぐった瞬間、屋内にたなびくはずのない風が頬を滑った。あたかも厚い大気の層を抜けたようだった。身を包むぴんと張られた空気が一転穏やかに溶け、暖かさえ感じられるように思えた。
 何か、聞こえる。
 かすかな音。人の声ではない。確かな旋律を持ったひと繋ぎの音が奥から流れてくる。奔流と言うには慎ましやかな、しかしか細いわけではないその調べの中を無意識の内に足がさかのぼっていく。その道が短いか長いかを判じる前に身を挟んでいた右手の壁が不意に途切れ、視界が開けた。同じ作りの照明が眩しく感じられた。左に木製の円卓が互い違いに三脚、右には背もたれの無い椅子が並ぶ高いカウンター。その向こう、瓶の詰め込まれた棚との間に男が一人立ち、濡れたグラスをゆったりとした動作で拭っている。
 そこは酒場だった。

 入り口に立ち止まり、沈黙のまま視線を一渡りさせる。ほのかな暖色の灯りが落ちる石の床。大小様々な酒の広告(しかしその中のどの品にも男は見覚えがなかった)が貼られた煉瓦の壁。天井近くに据え付けられた古びたスピーカーから密やかに曲が流れ、その合間にからからと店の主人と思しき男の手の中でグラスが鳴る。
 静かに足を踏み入れる。主人は手を止めて男の方を向き、小さく頭を下げた。髪を後ろに撫でつけて口髭を生やしたその顔には幾筋か遠目にもわかる深い皺が刻まれているが、老年と言うほどでもない。精白のシャツに黒のベストを羽織り、首にはクロスタイを締めている。決して華やかではないが、狭く薄暗く全体に質素ながら小奇麗な店の雰囲気にその姿は良く調和している。店の内装のひとつであると言われても頷きひとつ返せるかのほどに。
 男はゆっくりと足を進めた。店内に他の客の姿はなかった。糸に引かれるように主人の前まで進み出、カウンターの椅子に腰を下ろした。足が地面を離れる感覚が奇妙に久しかった。
「何にしましょう」
 落ちた声にはっとして頭を起こす。髭の主人が穏やかな笑みと共に男の顔を見詰めている。口を開きかけ、閉じる。抜いた右手を再び足に寄せる。その動作を遮るように、またひとつ声。
「どうぞ、ご遠慮なく」
 変わらぬ笑みはしかし決然として有無を言わせぬようで、男は逡巡の間もなく腕を上に引き戻した。
 呑んだ言葉を今度は口に乗せる。
「ロックスコッチを」
 かしこまりました、とごく型通りの、だが不快ではない相槌を打ち、主人は背の棚に向かった。慣れた手つきで酒瓶とグラスが取り出され注文をこなしていくのを横目に、男は左の袖をめくった。予期していた腕時計の影はない。右を見ても同じだった。体をひねって狭い店内を軽く見回した。目のつくところに時計は見つからなかった。小さく首をひねったが、男はそれ以上探さなかった。
「どうぞ」
 体を前に戻すと待ち構えていたようにグラスが置かれる。男は礼の代わりに小さく頷いてグラスを取り上げ、酒を口に含んだ。一口傾けて、喉を鳴らして飲み下し、無地のコースターの上に戻す。ただそれだけの動作がひどく緩慢に送られた。
 これほどゆっくりと酒を呑んだのはどれくらい振りだろう? 男は思う。そもそも酒をゆっくり呑むなどということが今までにあったろうか?
 声にならぬ自問に答えが返るわけもなく、男はただ黙して緩慢な動作を繰り返した。近く遠く響く静かな曲に平坦な思考が紛れ込み、いつしか自分もこの酒場の一部になってしまっているかのように思えた。時間の流れがひどく曖昧だった。ここには時計が存在する意味がないのだ。男は思った。もし存在したとしても、きっと置かれた途端に狂い出してしまうだろうから。
 グラスはいつの間にか二杯目になっていた。店に他の客の姿が現れ始めたことにさえ男はしばらく気が付かなかった。男の隣の椅子に一人の客が座った頃には、狭い酒場はほとんど満員になっていた。

 男はグラスを運ぶ手を止め、店の中心に向き直った。いつ注文がされたのか、色様々な酒の注がれたグラスが淡い揺らめく光を天井に返している。客は皆独りだった。酒の場に付き物の喧騒は微塵もなく、皆黙って手を動かしていた。かた、かた、グラスとテーブルの当たる音が不規則に上がっては消える。緩慢に、緩慢に。
 男が体をカウンターに戻そうとした時、ふらり、視界に影が浮かんだ。
 男やおそらくほかの客たちと同様、その姿は酒場の入り口、階段から続くあの通路から来たに違いなかった。だがあまりに忽然とした登場は、まるで虚空からその存在が産み落とされたかのようにも感じられた。
 それは人の影だった。そう、人と見るには何の変哲もない、しかし客と見るには異質に過ぎる、一人の男の立ち姿だった。濃紺の単衣袴に二重廻しの黒の外套を羽織り、足には足袋と雪駄、頭には鍔広の山高帽。古風な薄い鞄を片手にカウンターとは逆手の壁を伝うようにしてゆるゆると歩むその姿は、明確に軸の通った情調を持つ酒場の中、ひとつ影絵のように浮き出して見えた。
 和装の男は壁のちょうど半分まで来て立ち止まり、鞄を足元に置いておもむろに酒場を振り返った。目深に被った帽子と長く垂れた髪の影に色の白い若い男の顔があった。
 物音ひとつ無い入場に何を感じ取ったのか、客の頭が三々五々起き上がっていく。店の変事を意に介した様子もなくカウンターの向こうで黙々とグラスを磨いている主人を除き、酒場にいるほぼ全ての人間が後ろの壁に目を向けたかというちょうどその程、永遠に続くかと思われた沈黙にほつり、声が落とされた。

 ひとつ、語りを致しましょう。

 静かな、そして鮮明な声だった。空気が色を変えた。頬が風に――起こるはずのない風に――ひりついて痛んだ。
 ひとつ語りを致しましょう。昔むかしの貴族の話。俗世の信に背を向けて、文(ふみ)を愛した男の話を。
 深い響きは一瞬の内に酒場を包み、背景と化した曲の音色に重なり紛れて融けていく。
 昔ある時ある土地に、一人の男が住んでいた。広い屋敷に美しい庭。かしずく人と尽きぬ富。誰もが羨む幸福の中、社交の場にも姿を見せずただ密かに暮らしていた。
 人は口々に噂した。あれほどの貴人が、何故あのように華のない暮らしをしているのだろう。
 屋敷を訪れる知人は言った。君、もう少し外に出て遊ぼうとは思わないのか。
 繰り返される同じ問いに、男は黙して語らなかった。
 男は猜疑の人だった。世界は嘘と裏切りに溢れ、真のものなどありはしない。それが男の持論だった。胸はいつでも疑心に満ち、目はいつでも不審の色をたたえていた。
 いつしか男は人の笑って話す言葉を信じることが出来なくなった。男は人と会うのをやめた。一人広い屋敷に座り、話す代わりに手紙を書いた。毎日幾通もの文が出され返され、噂話には棘が付き、音を低めて飛び交った。やがて男は紙上の言葉にも信を置かなくなった。男は苦悩した。男は言葉を求めていた。信ずるに足る言葉を欲していた。そしてそれはもう、一つしか残されていなかった。男はペンを取り手紙を書いた。たちまちに書き上げ送られて、翌日、問題なく届けられた。
 自分の屋敷に、自分からの手紙が。

 空に歌を刻むように朗々と言葉を流していた和装の男はそこで一度声を切り、帽子の下の両目を伏せた。その姿はもはや異質であって異質ではなかった。浮き出た奇妙な影絵は、今はただただこの狭い世界に和して佇む酒場の語り部だった。
 しんと冷えた空気が動き、再び声が流れ出した。

 届けば送り送れば届き、来る日も来る日も男は手紙を書き続け、受け取り続けた。それは真の言葉だった。偽りで有り得ようはずがなかった。全て男が欲していた、男のためだけに在る言葉だった。
 広い屋敷は廃墟となり、美しい庭は無残に荒れ、人は去って噂だけが残り、それもやがて消えていった。男は手にペンを握ったまま、痩せ衰えた体を隠すように何百何千の手紙に埋もれ、静かに息絶えていた。
 男の死顔が幸福なものであったか、一人とて知る者はいなかった。

 何の合図があったわけでもなく、観客は話の終わりを自覚した。言霊は流れるまま何もその場に残さなかった。拍手も歓声も待たず『語り部』は床の鞄を取り上げ、壁を伝って酒場の出口へ向かい歩いていく。
 その瞬間、申し合わせたかのように男を除く全ての客が立ち上がり、『語り部』の後を追って歩き出した。騒ぎもなく一列に整然として、一人、また一人と酒場の出口を抜けていく。男はぼうとしてそれをただ見送った。目瞬きの内に、客は男独りになった。
 かたり。音に振り向くとカウンター越しに主人と目が合った。あの。自然に口から言葉が漏れた。
「あの……まだ、いてもいいでしょうか」
 主人はすぐに答えた。
「ええ、どうぞ」
 あなたがそう望むのなら。言って、穏やかに笑んだ。

        *

 時の流れは変わらず曖昧だった。窓のない酒場の中ではこれから朝が来ようとしているのか夜が来ようとしているのかもわからなかった。もっとも、もしここが地下だとすれば窓があったとしても外の様子などわかるわけがないのだが。そう――あの長い下り階段。ゆうべ(この言葉もまるで確かではない)の客たちはあの階段を登っていったのだろうか? 登りきって、扉を抜けて――
 自分は何故着いて行かなかった? 男は問い、そして返した。根拠のない答えはしかし至極明解だった。
 あの扉は閉まっているはずだからだ。
 意識の外で手が冷えたグラスを掴んだ。いったい何杯呑んだのだろう。ふと浮かんだ考えに何かがつまづいた。覚えている。男は思った。自分はこの言葉を確かに覚えている。
 いつともなく狭い酒場は再び客で満ちていた。そして黒の外套を羽織った『語り部』が音もなく現れた。ひとつ語りを致しましょう。先の幕と同じ場所、同じ姿勢で『語り部』は言葉を紡ぎ始める。

 ひとつ語りを致しましょう。ゆき違う二つの道の話。街を歩く物売りと、街を眺める物乞いの話を。
 人に賑わう川沿いの街。寄せては返す雑踏の中にぼろを着た少女が歩いていた。少女は街の物売りだった。ガラクタ紛いの品物を籠に、日を飽かさず通りを歩き、嗄れた声を張って客を呼んだ。物心ついた頃からそうして日々を生きてきた。父の顔も母の顔も知らなかった。知っているのは街だけだった。この街のことなら何でも少女は知っていた。
 ある日少女は街外れの路地に見慣れぬ人姿を見た。それは服とも言えぬみすぼらしい衣を纏った物乞いの男だった。物乞いは道行く人の蔑みの視線を受けながら、ただ前を見据えて座っていた。
 人の流れが切れた頃、少女は物乞いに歩みより、短く言葉をかけた。
 こんなところに座ってても、誰も何も恵んでくれやしないよ。
 尖った声に物乞いは頭をゆっくりと回し、少女の顔を見詰めた。ぼうぼうと伸びた髪と髭にはっきりとしないが、まだ若い男のように見えた。
 ここの街の人間は物乞いなんぞ相手にしない。どこかよその小さな町へ行きなさいよ。
 ぶっきらぼうに少女は続けた。少女は物乞いが好きではなかった。男は数度目瞬きをして、
 人を眺めるのが好きなもんでね。大きな街の方がいい。
 低い声で簡単な言葉を返した。そしてまた顔を道の上に戻し、それきり何も言わなかった。少女はかつりと石を蹴って元来た道を戻っていった。
 次の日もその次の日も、物乞いの姿はそこにあった。痩せた体を石のようにして静かに街を眺めていた。いい加減街を出たらどう――五日目の夕暮れ時、再び少女は物乞いに話し掛けた。――物乞いなんて、こんな街では邪魔になるだけ。
 憤りの影も見せず物乞いは答えた。物売りはいるのに物乞いがいちゃならないなんて、そんなことってあるのかい。少女はむっとして叫ぶように言った。あたしを物乞いなんかと一緒にしないで。物乞いはそ知らぬ顔で返した。
 同じさ。
 ――違う。少女は躍起になって声を張り上げた。あたしは自分の力で生きてる。物乞いなんて。少女の言葉を遮って、物乞いは静かに、はっきりと言った。
 違わないさ。その籠の中の物は、全部盗品だろう。
 少女は身をこわばらせて物乞いを見詰めた。抗議の口が開き閉じ、目が道の石畳に落ちた。そう。違わない。物乞いは言った。そうしないと、生きていけないから。
 少女は顎を胸に付けたまま頷き、ぽつり、小さく小さく声を漏らした。
 そうよ。だって私たちは独りだもの。
 その言葉に物乞いはぱちぱちと目瞬きをした。そうかな。首を傾げて呟いた。そうよ。少女は言った。そうかな。物乞いは繰り返した。本当に、そうかな。
 半月余り、それは奇妙な付き合いだった。少女は客呼ぶ声を止めて物乞いの隣に立ち、物乞いは人の視線を浴びながら町を眺めた。二人は街の景色だった。
 そうしてある日、物乞いは言った。
 あの川の向こうに行きたいな。
 少女は物乞いを見詰めた。物乞いの目は街ではなく、街のそばを通る川を眺めていた。向こうに何があるの。少女は尋ねた。さあ。物乞いは返した。知らないよ。知らないから行くんだ。
 行くの? また独りになるの? 少女は言った。
 ならないよ。物乞いは言った。今までだってこれからだって俺は独りじゃないよ。
 すねたように少女は呟いた。あたしは独りだわ。物乞いは言った。そうかもしれない。日の沈む川を眺め、言った。でも、そうじゃないかもしれない。
 次の日物乞いはいなくなった。少女はその場所に立って川を眺めた。少女は街の景色だった。だが物乞いは違っていた。少女は独りだった。少女は街のことなら何でも知っていた。街は少女自身だった。少女は確かに独りだった。今は。今までは。
 物乞いがどこへ行ったのか誰も知らなかった。
 街の景色だった少女がいついなくなったのか、どこへ行ったのかもまた、誰も知らなかった。

 物語は終わり、『語り部』は去っていった。客も後に続いて皆姿を消した。男は酒の入ったグラスを手に座っていた。主人はカウンターの向こうで棚を拭いていた。
 行ってみようか? 男は考える。まだ遅くはない。あの後に続いて――
 だが男は立ち上がらなかった。男は知っていた。そこにあるのは長く狭く急な階段と、閉ざされた扉だけなのだと。

        *

 男は振り向かなかったが、『語り部』が来たことには気付いていた。酒場はまた客で満席だった。男だけが後ろの壁を見ていなかった。ひとつ、語りを致しましょう。声はいささかも霞むことなく耳に届き心を震わせる。
 そう、心を――

 ひとつ語りを致しましょう。木のうろに住む小鳥の話。明日を知らず空を知らず、ただ啼く小さき者の話を。
 人里離れた丘の上、そびえる一本の木のうろに、鳥の母子が暮らしていた。母は子を、子は母を愛し、それはそれは睦まじく朝を夜を過ごしていた。
 悲しみは突然訪れた。
 それはある風の強い日だった。母鳥はうろ穴から外を見ていた。何もない丘にそれでもじっと何かを探すように、遠く遠くを見詰めていた。ねえ母さん。小鳥は言った。いつもと同じはずの母の後姿が何故かとても怖かった。ねえ、今日は風が強いよ。外に出ない方がいいよ。
 母鳥は我が子を振り返った。大丈夫よ、坊や。優しく、そして強い声だった。子は母を何度も引き止めた。雲が丘の上に大きな影を作っていた。鋭い風が木の枝を揺さぶり、ごごう、ごごうと叫び声を上げていた。うろの中は暖かった。母鳥の羽の下にいるようだった。行かないで。小鳥は言った。しかし母鳥は風の中に飛び立っていった。
 小鳥は身を縮めてじっと待った。昼が過ぎて夕闇が来て夜が落ちた。小鳥は待った。風がやんだ。丘に朝日が昇った。母鳥は帰ってこなかった。
 母さん。小鳥は母を呼んだ。しかし返事は返ってこなかった。優しい声は聞こえてこなかった。恐らく、恐らく二度と。だが小鳥はじっと待った。小鳥は母が好きだった。母と暮らしたこの家が好きだった。うろ穴にはまだ母のぬくもりが残っていた。うずくまって外を見詰め、小鳥はひたすら待ち続けた。朝が来て昼が来て夜が来てまた朝が来た。母鳥のぬくもりは少しずつ少しずつ消えていった。 冷え切ったうろ穴から小鳥は空を見上げた。母の消えた空。母を吸い込んでいってしまった空。恐ろしい空。
 ああ――
 小鳥は啼いた。
 ああ、僕はこんな広い空の下にたった独りぽっちだ!

 からん。
 小鳥が『語り部』の口を借りて泣いたその時、男は自分が泣いていることに気付いた。次から次へと溢れる涙が両手に掴んだグラスの中へ落ち、氷を回してからりからりと拙い音を刻んだ。
 置いていかれた小鳥。家の中に独りうずくまり、去った者を焦がれる小さな鳥。男の耳はもう『語り部』の声を聞いてはいなかった。必死に虚勢を張っていた男の心は既に崩れ融けかかっていた。
 物語は終わっていた。客は皆姿を消していた。だがそれは消えなかった。狭い酒場に浮かぶ影絵――黒の衣装の『語り部』は。
 影は壁を離れ、ゆっくりと男に歩み寄ってくる。男は顔を床に落としたまま影が止まるのを見た。物語が始まった。

 ひとつ語りを致しましょう。歪みに消えた心の話。孤独ひとつを両手に抱いて、失意に消えた男の話を。
 都会の街の片隅に、一人の平凡な男があった。愛する妻と幼い子供と、それだけを宝に暮らしていた。男は幸福だった。ずっと続くはずだった。
 最初は小さなほつれだった。ごくごく軽い、平凡な口論。常なら笑って振り返るような小さな諍い。しかしほつれは消えなかった。下らぬ会話がもつれた糸に足をかけ、日増しに穴は広がった。理由などなかった。その愚かさに互いが気付き、糸を編み直す手を差し出しかけた時には、既に穴は開ききっていた。
 ある日の激しい争いの後、妻は子供を連れて家を出た。男は止めなかった。だが心は手を伸ばして叫んでいた。男は妻を愛していた。妻もまた、男を愛していた。
 悩み迷い、ついに男は家を飛び出して妻を追った。妻はきびすを返して家へと帰るバスに飛び乗った。男は走った。道が塞がれていた。人ごみを掻き分け男は進んだ。数台の自動車が無残につぶれ、破片が道に飛び散っていた。男は見た。膝がくず折れた。ガラスの欠片と血溜まりの中に、男の妻と子が声なく横たわっていた。
 男は家にいた。壁を背に座り込んでいた。どうして帰ったのか覚えていなかった。どれほど時が経ったのかもわからなかった。空になった酒の瓶がいくつも足元に転がっていた。男は家に閉じこもり、何も食べず酒をあおり続けた。酒は全て涙に代わり流れ落ちた。独りだ。男は幾度も呟いた。自分は今、世界にたった独りだ。

――そうだ」
 物語の終わりを遮り、男は掠れた声を床に落とした。
「独りだった。愚かだった……あんなに、あんなに、妻を……。私は、独りだった。全部……自分のためだ」
 氷は全て溶けていた。静寂の中に涙が落ち続けた。何故尽きてくれないのだろう。もう自分には何も残ってはいないのに。こんなにも、
――孤独であることと」
 不意の声に男は顔を起こした。黒の外套を着た『語り部』が男を見詰め、口ずさむように言った。
「自分を孤独であると信じることとは、同じで、違う」
 他人を疑い自分への手紙を書き続けた貴族。彼は彼のみを真と信じた。彼がいたのは己の中。己だけの世界。物乞いは川の向こうへ去り、少女は街を旅立った。孤独であった者はいない。孤独と信じて孤独になった者と、孤独に気付いて足を踏み出した者がいるだけ。なら、
 男はゆるりと首を振った。聞きたくなかった。そして聞かねばならなかった。『語り部』は言った。静かに強く。

 ――なら、小鳥は?

 男はその結末を聞かなかった。男は知っていた。結末は、この中にある。
 男はこわばった口を開いた。途切れ途切れの声は細く小さかったが、掠れてはいなかった。
「私は、独りだった。責めることしか出来なかった。酒を呑んで自分をなじり憎み続けた。私は忘れていた……妻を愛していた。妻も私を愛してくれた。私、私は」

 私は多分、本当は独りじゃなかった。

 力強い羽音が聞こえた。鳥が飛び立つのが見えた。空が見えた。広い広い空が見えた。朝を迎え昼を映し夜に染まり、そしてまた朝を迎える空が。
 心が、融けた。
 もう遅いだろうか。男は酒場を見回した。髭の主人が微笑んで言った。
「扉はいつでも開いていますよ」
 あなたがそう望むのなら――
 男は頷き立ち上がった。二つの影に頭を下げ、足早に出口へ向かった。床の境目で立ち止まり、振り返って再び深く礼をした。男は酒場を出た。もう振り返らない。その必要はない。
 開いた黒の扉をくぐり、見上げる。長く狭く急な階段があった。その終わりに扉があった。男は気付いた。壁の陰になっていたが、確かにその色は黒ではなく白だった。
 男は足を踏み出した。茶の革靴が一歩、また一歩、危なげなく段を上っていく。遠くはない。きっとすぐに辿り着く。
 扉は開いていた。その向こうにあるのは、光だった。


          ○


 狭い酒場のカウンターに異質な人影が腰を下ろした。店の主人がグラスに酒を注ぐ音に乗せて、ゆったりと声が紡がれていく。

 ひとつ語りを致しましょう。道を失くした魂たちが孤独と集う酒場の話。黒の衣装の死神と、髭を生やした店主の話を。

 客の消えた狭い酒場に二つのグラスのぶつかる音が、本日閉店を静かに告げた。


 -了-
後書きを表示する
 会誌より再録。以前お邪魔した朗読会の雰囲気に圧倒されて、どうしても「酒場の語り部」を描きたく筆を取った作品です。なんだか色々と折衷でワンパターンではあるのですが……
 あれよあれよという内に原稿用紙30枚中に作中作4つという贅沢なのだか無駄なのだか、とりあえず執筆中語りを考えながら己をザ・フールと認めざるを得なかったものになりました。やあ頑張った。

<05/06/21>
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