木馬


 星の綺麗なある冬の夜のことです。
 大きなお屋敷の小さな部屋で、元気な坊やが生まれました。
 人々はこの坊やの誕生を笑顔で祝福しました。

 坊やはお屋敷ですくすくと育ちました。
 くりっとした大きな黒の目はいかにも利口そうで、さらさらの栗色の髪の毛は年を追うごとに美しく艶を帯びてきます。
 まあ、なんて可愛らしい子でしょう。
 坊やを見る人々は口々にそう言いました。
 坊やは皆に愛されました。
 中でもお母様の可愛がりようは大変なもので、片時も坊やをそばから離そうとしませんでした。

 瞬く間に時が過ぎ、坊やは五つになりました。
 お母様は誕生日のお祝いに、坊やに木馬のおもちゃをプレゼントしました。
 前足と後足の間にゆるく円を描いた木が取り付けられていて、ゆらゆらと前後に揺れるようになっています。
 その背には、坊やが乗っても痛くないように赤い鞍がつけられていました。

 坊やは木馬をとても気に入りました。
 毎日毎日その木馬に乗って遊びました。
 小さな木馬は小さな坊やの一番のお友達になりました。

 冬が終わり、春が訪れました。
 一面真っ白だった広い野原は、柔らかな草に覆われて、見違えたような鮮やかな緑色になりました。
 坊やはお母様に連れられて野原へやってきました。
 そこで、坊やは本物の馬を見ました。
 牧場から逃げ出してきたのか、馬は一頭だけで草の中をゆったりと歩いていました。
 お友達の小さな木馬しか知らなかった坊やは、その大きさにとても驚きました。

 突然その鹿毛の馬は走り出しました。
 体中から生気を溢れさせて、たてがみを震わせて、跳ぶように駆けています。
 その早いこと、身の軽いことといったら、まるで翼を生やした鳥のようです。
 自分の自由を誇るように一度高くいなないて、あっという間に遠くの森に姿を消してしまいました。
 坊やの目には、高く澄んだ青空と、その下に広がる緑の草原と、そして何よりその雄々しい馬の姿が、いつまでもいつまでも焼きついて離れませんでした。

 お屋敷に戻った坊やは、急にお友達の木馬がかわいそうになりました。
 色褪せた赤い鞍をつけた木馬は、しんとして、なんの光も見せず部屋の片隅に立っています。
 首のあたりをさすってみても、いつものようにただ小さく揺れるだけです。
 あの馬みたいに、元気に走れればいいのに。
 坊やはそう思いました。
 坊やは石灰を持ってきて、木馬の赤い鞍の側面に、二対の小さな白い翼を描きました。
 木馬はぴくりとも動きませんでした。

 それから少し経った晴れた日、坊やはお母様に内緒で木馬を持って一人であの野原へ行きました。
 小さな木馬は、それでも坊やにはとても重く、途中何度も往生をしながらやっと野原の真ん中にたどり着きました。
 広いところなら、きっと僕の馬も元気に走れるんだ。
 坊やは木馬から離れて草の上に座り込みました。
 それでも木馬はちっとも動き出す様子を見せず、坊やを悲しくさせました。
 ふと坊やは、先のほうに地面が盛り上がって丘のようになっている場所を見つけました。
 坊やは木馬を押して丘を登り始めました。
 坊やは一生懸命に進んで、丘の頂上にたどり着きました。
 丘は遠くで見たよりも高く、坂もそれほど緩やかではありませんでした。

 坊やは一番急な坂の上に木馬を置いて、自分もそれにまたがりました。
 そして、地面を足でそっと蹴りました。
 そろそろと坂を滑り出した木馬は、ぐんぐんその早さをあげていきます。
 坊やは木馬にしがみつくのが精一杯で、あっと思ったときには、木馬と一緒に勢いよく宙に投げ出されていました。

 坊やは丘の近くに倒れていたところをお屋敷の人に見つけられました。
 坊やは大怪我をしていました。
 とても悲しんだお母様は、坊やから話を聞いて、木馬を倉庫の奥にしまいこんでしまいました。
 やがて怪我が治った坊やは、部屋から木馬がいなくなっているのに気付いて、お屋敷中を泣きながら探し回りました。
 あの馬は走れるんだ。あの馬は飛びたいんだ。僕はあの馬を自由にしてやるんだ――
 坊やは何度も何度も大声で叫びました。
 そして坊やは倉庫に木馬がしまわれたことを知りました。
 しかし鍵のかかった倉庫の扉はどうしても開きませんでした。
 坊やが木馬を見ることはそれきり一度もありませんでした。
 あの馬は走れるんだ。あの馬は飛びたいんだ。僕はあの馬を自由にしてやるんだ――


 それから二十年近くが経ちました。
 お屋敷は昔のまま建っていましたが、もう誰も住んではいませんでした。
 立派で綺麗だった門は、すっかり錆びて表面がはがれ出しています。
 その門を抜けて、雑草しか生えていない殺風景な庭に一人の青年が入ってきました。
 最近このあたりでは見かけない顔でした。
 しかしその大きな黒い目と、艶やかな栗色の髪は、確かにあの坊やのものでした。

 あれから、坊やはだんだんとお屋敷が窮屈になってきました。
 お母様は相変わらず坊やを手元から離そうとしませんし、お屋敷の人たちは遊び相手になってもくれませんでした。
 大きなお屋敷が、ひどくちっぽけなものに感じられました。
 そして、お母様の背を一回りほど追い越した頃、坊やはお屋敷を出ることにしました。
 坊やはもうお屋敷の中の不自由さに耐えられなくなっていたのです。
 お屋敷の人々も、もちろんお母様も大反対しました。
 それでも坊やは反対を押し切って、ついにお屋敷を、街を出て行きました。

 一年前、坊やのお父様もお母様も亡くなって、お屋敷にはご主人がいなくなりました。
 それで遠い街に暮らしていた坊やは――青年は、お屋敷を引き取りにきたのです。
 青年は庭をぐるりと歩いてみました。
 誰もいないお屋敷はだいぶ荒れてしまっていました。
 青年はお屋敷をあまり好きではありませんでしたが、それでも懐かしく思いました。
 お屋敷の裏手に回って、そこで古びた倉庫を見つけました。
 青年の頭の中に、あの赤い鞍の木馬のことが浮かびました。

 青年は倉庫の戸に近づいていきました。
 戸には鍵がかかっていましたが、手で引っ張ると簡単にぽきりと壊れてしまいました。
 青年はあの木馬を一目見たくて、倉庫の中に入りました。
 倉庫の中の荷物はお屋敷に人がいなくなった時のままの状態のようです。
 青年はすっかり埃をかぶったたくさんの荷物を踏み越え掻き分け、木馬を探して奥へ進みました。
 大きな戸棚の間を抜けると、そこだけ何も置かれていない、ぽっかりと空いた場所を見つけました。
 明り取りの窓から薄く太陽の光が差し込んでいました。
 そこが倉庫の一番奥のようでした。

 青年はあたりを見回しましたが、木馬はどこにもありません。
 もう処分されてしまったんだろうか。
 青年が諦めかけたとき、床に落ちた光の真ん中に、きらりと何かが光りました。
 青年は歩み寄って床の上のものに目を向けました。
 それは、一枚の真っ白な羽根でした。

 青年は腰をかがめてその羽根を優しく手に取りました。
 白い羽根は少しも埃をかぶっておらず、まるで輝いているように見えました。
 青年はもうそれ以上 木馬を探そうとはしませんでした。
 ああ。青年はそっと息をつきました。


 ああ、お前もやっと自由になれたんだな――


 青年は明り取りの窓から空を見上げました。
 それはあの忘れられない春の思い出の日と同じ、高く澄んだ青い青い空でした。
 青年の耳に、ずっと遠くのほうから馬の誇らしげな嘶き(いななき)が届いたような気がしました。

 -fin-

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 干支の午にちなんだ2002年新年企画小説でした。全文敬体は結構難しかった……
 別名児童文学in教科書作品。

<02/01/01>
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