くくり絵


 はらい、よう。
 はらい、よう。


 近頃しゃがれ声で鳥が鳴くのを聞く。
 人の発するような奇妙の声にやかましさを覚えるではないが、いささか耳につく。
 どうせ鳴くのならば、春告げ鳥にならって法華の経でも唱えれば良いものを。
 手にした陶磁の器をひねり回しながら左兵衛は頭の片隅で埒もなく考える。
 大店(おおだな)の隠居爺と響きだけ聞けば大層なご身分、さぞ良いお暮らしでしょう、やれ人は言うが、いざそこに立てばただ暇を持て余す。浮世に揉まれ汗水垂らすとまではいかずとも、少々薄汚い商いの内にある方が性に合っているのだろうと若隠居を悔やまぬではない。だが妻も子も持たぬまま養子に渡した店に舞い戻り、あれやこれやと口を出して煙たがられるのもまた詰まらぬ。
 暇捨てに試した遊び事、多くの中でも骨董は興を引く道楽であった。と言えど他の金持ち衆のそれと左兵衛のそれとは毛色を違え、折り紙付いた名師の品を求めるのではなく、質流れの末、傾いた道具屋の埃の中に辿り着いた九十九神どもをふらりと眺める。多くは我楽多、だが時にこれはと思う物に出会う。無論そう思って買った物に裏切りを喰うこともある。
 人と人の駆け引きではなく、己と物、或いは己と己の駆け引きである。それがなかなかに面白い。

「鳥が鳴くね」
「うん?」
 生気なく煙管をふかしていた道具屋の店主はその声で初めて目覚めたように数度目瞬きをした。
「いや、なんでも」
 ないと続ける前に、店主の後ろの壁の品に気付く。朱の色鮮やかに浮いた、一幅(いっぷく)の掛け軸。
 首吊り女の絵。
「誰のだい」
「これですかね。さて、裸で流れてきたもんでねぇ。えぇと、これはホウザンと読むのでしょうかな」
 枯れ木のような店主の指がかすれた落款をなぞる。絵の中に溶けかけた、確かに鵬山と二つの文字。
「鵬山か。聞かないな」
 元より絵師の名などは左兵衛の道楽においては大した天秤にならぬ。いくら名の浮いた絵師の作でも己の気に入らねば家に置く意味はない。さてこの掛け絵、俺の気にいったろうか? 我が胸に問うてみる。
 すらと太筆で描かれた桜の大枝に首を吊る女。朱染めの着物に乱れた髪が長く絡み付き、しなやかな肢体がだらりと宙に下がる。白い顔に埋め込まれた目は虚ろに開き、しかしもはや何をも見てはいない。
 気に入ったと言うより、気が捉われたと言うべきか。
「主、買おうかね」
「あい、箱はありませんが、良いですかな」
「うん」
 飾れば箱など用もない。
 客が見てなんと言うだろうか。こんな気味悪い絵をと咎めるような女房が俺にはないから、その点は良いな。
 つれづれと思いながら帰途に着いた。埃を払い、狭い床の間の壁に吊り掛ける。漆喰の壁に朱の色が良く映える。

 はらい、よう。

 遠くで鳥が鳴いていた。

           ◇

 久方ぶりに夢などを見た。
 雇いの下男を除けば独り暮らしの気楽さ、日も昇ったかという時分に目を覚ます。布団を抜けながら、ふと頭にかすかな色が掛かっているのに気付いた。形は霧の中にしかりとせぬが、確かに、歳を取ってからというもの、ついぞない夢。
 この絵のせいか。目を壁に向ければ散り桜に女が揺れている。白い白い顔。薄く開いた唇は何の音を紡いでいるのか。辞世の葉か恨みの葉か。いずれにせよ虚構の画、首吊りの骸がこのように美しいはずもない。夢の景だ。
 ならば、何故これほどに現と見まごう。
 布団を除け膝でにじり、手をかざす。触れればただの紙と頭でわかっていながら、紙であった方がおかしいのだという心持ちがする。
 そろ、そろりと伸びた手が今触れようかという刹那、表から張りのある声が飛んだ。

「旦那、えぇ、旦那ァ」

 ふっと我が身に気が戻る。外を見やると、垣の向こうに若い男の姿。薄染めの単衣袴という軽装の行商人と見える風体で、背に何か負うている。
「どうも、こんちは」
 ひょこりと腰を折る。左兵衛はゆっくりと庭に向いて姿勢を正し、声をほうった。
「屑屋かい?」
「いえ、屑屋じゃあねぇんで……まァ、似たようなもんでございやす」
 判然とせぬ言葉が返る。黙っているとまた声。
「あのぅ、入っても?」
「ああ、良いよ」
 それじゃ、と粗造りの垣戸を開き、はっきりと姿を現した。やや目の吊り上がった狐面(きつねめん)の愛想の良い顔。背の物は四角に編まれたつづらであった。
「どうも、旦那。いやァ、いい家にお住めぇで」
「世辞は良いよ。何の用だい。ここらでは見ない顔だね」
「へェ、宿無しの浮き草で。え、旦那、商人の隠居さんに回りくどい話は効かねぇや。単刀直入に参ぇりましょう。実は、お引き取りしてぇもんがございやすんで」
 にと笑う。嫌味のない人好きのするその顔にはほだされるが、不信を抱かぬではない。見る前から物を限る屑屋などあろうか。
「なんだい?」
 尋ねれば、へぇ、と腰を低くして、
「旦那、ゆうべ川向こうの古道具屋で絵を一幅買いなすったでしょう?」
「ああ」
 頷き、だが心中ではもう一度不信の首を傾げる。町外れの寂れた道具屋にいたのは己だけであったし、誰かと行き会うたということもない。
 狐面の男は続けた。
「その絵、あっしに譲ってくれやせんかねェ」
「あの掛け軸を?」
「えェ、もちろんロハでとは申しやせん。旦那が二分で買いなすったから、倍の四分ではいかがでしょう」
「買った値まで知っているのかい」
「旦那の所の下男と言って道具屋の主から聞きやした」
 笑みのまま、屈託なく言う。ここまで来れば呆れるより先に感心をする。
「大した商人だね」
「勿体ねぇお言葉で」
 左兵衛は笑って部屋を半身振り返った。壁に首吊りの掛け軸が一幅、音もなく下がっている。
「しかし買ったばかりの物をすぐに手放せと言われても困るんだがね」
「そこを曲げて、お願い致しやす」
 顔こそ笑んでいるが、声は意志強く退かぬ商人のそれだ。
 どこの誰ともわからぬ者の作に買値の倍とは気前が良すぎる。それともこの鵬山という絵師、俺の知らないだけで高名な作者なのだろうか。左兵衛は頭を巡らすが、考え付かぬ。
「……いや、やはり売れないね。俺も理由なしに買ったわけじゃあないのでね」
 他人に欲されば惜しむ、という訳ではないが、ほんの小さな儲けの為に手放す気にもならない。左兵衛が告げると狐面は少しばかり残念の色を顔に出して、
「そうですかァ。じゃ、今日のところはひとまず帰ぇりやす。またお邪魔しやすんで、もし気が変わりましたら、旦那ァ、その時は」
 そう言った。
「また来るのかい」
「また来やす。なァに、少ししつこいばかりでなきゃあ、この仕事は務まらねぇ。でしょう?」
「違いない」
 左兵衛が笑って頷いてみせると男も狐の面に笑みを深く刻み、ひょいと頭を下げてその動きのまま素早く戸を抜けて出て行った。
 真に狐の変化だったのではなかろうかなどと、たちまちに静寂を落とした庭を眺めて、ゆたり、思う。

           ◇

 二つの晩が過ぎ。
 やはりこの掛け絵が夢の元だと言葉がぼんやりと形を持ったのは不可思議な夢覚めの後。
 目蓋を上げて体を起こせばなんらの変わりなく、くすんだ紙に鮮やかな朱。桜は花を半ば散らし、白い顔に浮いた目はただ虚空を見据える。
 そこにいるのは無論のこと生者ではなく、かと言って怨霊物の怪の類でもない。骸絵。語らぬ絵。
 ――滑稽な。語らぬ絵がどうして呼ぼうか。
 白髪混じりの頭をひと掻きして外を見れば、灰色の空、掛け絵の空と同じに淀んでいる。

 その日の夕暮れに狐面の男は再び左兵衛を訪れた。
「どうも旦那ァ。お気はお変わりで?」
 そう言って見せる顔は次に来る左兵衛の否の言葉が既にわかっているかのようである。
 数言を交わし、変わらずにべもない左兵衛の応対に腐れた様子もなく、男はじゃあ、と初めのようにあっさりと庭を後にした。
 諦めたのでもあるまいと左兵衛がその後姿に思った通り、それから狐はつづらを背負って毎日とまでは行かずも度々庭に現れた。茶を出す必要もないし別段長居もせず去って行く。体の良い暇つぶし相手と、興味半分、不信半分で左兵衛は近頃道具屋へも足を運ばぬものだ。
 例の如くに闇の中、夢もまた男と互い違いに訪れる。「気が変われば」との男の言葉、それへの厭わしさからを指すものかとも考えるが、悪夢とも吉夢とも定まらぬ、加えて全くの話、絵が誘い水だとも限らぬものに期待するはいかに気が長くともおかしい。大体において、男がそれを知るはずもあるまい。やはりこの絵、何ぞ価値でもあるのか? つらりつらり考える所へ、狐面がのぞく。
「旦那、こんちはァ。入ってもいいですかい」
 何度来ても勝手に入り込むような不躾な真似はせぬ。その辺りのわきまえは左兵衛も善しと思う。
「ああ。お入り」
 その声にするりと庭に姿を見せた男に向かい、
「何度目かねお前さん。諦めないねえ」
 感心の声で左兵衛が言うと、男はつづらを背負ったまま庭石に腰を下ろしながら、
「旦那も、相当に強情なお人ですぜ。あっしが今までに会った中でもとびきりだね。元は商人さんだもの。こっちも具合が悪ぃや」
 左兵衛が笑うのも承知の上だろう、歯に衣被せず返した。
「そんなに一つ絵ばかりに構っていて、儲かるかい」
「食うに困らねぇ程度にゃ稼いでまさ。へぇ、これでも目はあるつもりなんでね」
 冗談めかして言うが、こざっぱりとした装いを見ればその言葉が嘘でもないのがわかる。
 そんなことより、と男は座った背を正し、
「旦那ァ、どうです絵は。これ以上値を上げさせるおつもりですかい。一介の歩き商人助けると思って、どうか譲ってくんなせぇよ」
「こだわるね」
「こだわります。折角見つけた絵を一足違いで旦那に先ィ越されちまった。一生の不覚でさァ」
「ほう」
 やはりこの男、左兵衛の前にあの道具屋で絵を見つけていたらしい。それが持ち合わせがなく工面のうちに買われてしまったというところか。 ならばこのしつこさは儲けよりも先に商人の意地から来るのかも知れぬ。
 何やら昔の自分を見るようで愉快なことだと左兵衛は胸の内で笑った。
「しかしそこまでこの絵にこだわって、お前さん、無理に取ろうとは思わないのだね」
「なんです?」
「見ての通り俺は爺いだからね。お前さんぐらいの若い衆ならふんじばるのも無理ではなかろう。でなくともただでさえ町外れの人の来ない家だ。気付かれずに上がって盗るのも造作もないよ」
 言うと、男は吊り上がった目をぱちぱちと目瞬かせ、首を横に振った。
「とんでもねぇ。旦那、絵は旦那が買いなすったもんだ。今は他の誰でもねぇ、旦那のもんです。だからあっしはそれを旦那から買うなりなんなりきちんと譲ってもらわなきゃあならねぇ。人のもんには手を付けられねぇ。これぁそういう決まりでございやすんで」
 にと笑う。
「そうかい」
「そうです」
 二人の間、風は重くそよともなびかぬ。
 左兵衛は呟いた。
――鳥が鳴くね」
「へぇ?」
「いや、なんでもない」
 濁した左兵衛に男は首を傾げていたが、やがてついと立ち上がっていつものように頭を下げた。
「帰るのかい」
「帰りやす。旦那ァ、嫌な雨が降りそうでやんすね。お気をつけて」
「お前さんもな」
 狐は笑い、つづらを背負い直してするりと出て行った。
 言葉の通り、夕方から雨になった。

 闇に桜が散る。
 風もなく散る。
 大枝に朱の着物が揺れている。
 風もなく、ゆらり、揺れている。
 何の音も聞こえぬ。美しい絵がただ闇の中に在る。遥かに遠く在る。ゆっくりゆっくりと近付く。

 語らぬはずの絵が、己を呼んでいる。

           ◇

 寝汗をかいていた。
 いくら胸の内を巡っても記憶は夢に辿り着かぬ。定まらず、だが確かに訪れている。
 闇の中、確かに呼ばれている。
 外はまだ雨だった。じとりとして煮えきらぬ嫌な雨。
 もしあの狐が来たら絵を売ってやろうかと濡れた庭を眺める。見上げた商人、儲けさせてやるのも一興かも知れぬと思い、だがいざとなれば惜しむような予感もある。まだ気に掛かっている。捉われている。
 どうしたものかと食事も忘れて一日座り込んでいたが、その日狐面の男は姿を見せなかった。

 雨の音が止んだ。
 足元に落ちる薄色の花弁で降り止んだのではないとわかる。一面の闇にほかりと浮かぶ絵。
 夢の限りではもう大層散ったろうに、まだ花をつけている桜の大枝に、女が一人。若くはないが、美しい。
 近付いていく。足だけがただ動き、頭はどこか他の場所にある。止める声も促す声も聞こえぬ。
 ――呼ばれている。
 一歩、一歩、寄る度に絵が色を増す。
 骸は語らぬ。
 何ぞ、呼ぶ?
 そろりと伸ばした手が絵に触れる。
 紙ではない。紙ではない。これは確かに。
 枝が軋み、女の虚ろの瞳がこちらを向いたかに見えた。


 何ぞ、呼ぶ?


 人の言葉返らぬまま、緩やかに思考が落ちた。


―― 一足違い」
 雨の露残る朝の庭先に、狐面の男が現れる。
 ひょこりと頭を下げてから草履を脱いで家へ上がり、言葉を落とす。
「一足違い。どうも、ついてねぇ」
 畳床に伏す一つの骸。壁に掛かった首吊りの絵。静かに合掌し、男はいや、と言い直した。
「鳥が鳴く……初めから、魅入られてなすった。旦那ァ」
 床の骸が灰に変わり、風に散って空へ溶けた。
 後に残った床の間の壁の掛け軸を慣れた手つきで素早く巻き上げ、後ろ手に蓋を開けた背のつづらに放り込む。そしてまたひとつ頭を部屋に下げ、するりと音もなく男は庭を後にした。

           ○

「兄(あに)さん、今日も絵を売ってんのかい?」
 子供が一人、町外れの橋の欄干もとに座り込んでいる狐面の男に声を掛けた。
 つづらを傍らに置いて休んでいたらしい男は細い目を子供に向け、首を傾げた。子供が勢い込んで続ける。
「ゆうべこの町に来たんだろう。庄屋さんが富士の絵を買ったって言ってた」
「ああ、あの旦那、なかなか手強くてねェ。さんざっぱら値切られちまったい」
 にと笑うと、目がなお吊り上がる。
「絵、見せておくれよ」
 そばにしゃがみ込んで子供が言うのに、男は首を振った。
「今日は、売りもんがねぇんだ」
「えぇ」
 不満げに声を上げ、男のつづらを揺らす。がたがたと中で物の当たる音がする。
「あるじゃあないか」
「そいつらは売りもんじゃねぇ。恨みもんよ」
「うらみもん?」
 おぅ、と頷いてたしなめるように子供の頭をはたくが、子供は丸い頬を膨らませ、
「何でもいいから、見せておくれよ」
 言って譲らない。狐面の男はひとつ苦笑の息をついてつづらの蓋を開けた。数本の丸めた錦絵と掛け軸が中に収まっている。一つを取り出し、紐を解いて、覗き込む子供の顔の前で下ろしていく。
 紅の色も鮮やかな一幅の掛け軸。
「首吊りの絵だね?」
「おぅ。どうだい」
「なんだか気味が悪いや」
「今おれの持ってる奴らはそんなんばっかりよ。売れねぇんだ」
 ふうん、と子供は頷いた。それに男が言葉をつなげる。
「坊主、これぁな、くくり絵よ」
「くくり絵?」
「人をくくる絵さ。坊主、あまり見てるとお前ぇもこんな風にくくられるぜ」
「嘘言うない。絵が人をくくるもんかい」
 強く言いながら、紙の上から目を逸らす。
「嘘じゃあねぇ。くくるのさ」
 難しい顔をして子供がうなる。と、何事か気付いたように俯いた顔を上げ、口を開いた。
「そうだ、兄さんよう」
「なんだぃ」
「兄さん、色んな町を歩いてんだろう。綺麗な姉さん、見なかったかい。一月前に町の外れ家の後家さんが神隠しにあって、みんな探してんだよう」
 子供の言葉に男は思案顔になり、
「そうかぃ。この町だったのかい。すりゃ、悪ぃことをしたな。灰だけでも持ってきたが良かったかねェ」
 誰にともなく妙な言葉を落とす。かと思えば、掛け軸を己の顔の前にかざし、狐の目でしげしげと眺める。
 淀んだ灰色の空のもと、太筆で描かれた桜。花を散らす大枝にだらりと垂れた骸が一つ。蒼白の顔に穿たれた目が虚ろに開く。上等の服を紅に染めるのはきつく締まった首からしたたかに流れる血水であろうか。
 語らぬ骸。それは怨霊物の怪ではない。そして無論、生者でもない。
 だが確かに、この絵の中に首を吊る白髪混じりの髪の男は、かつて生者であった。
 何ぞ、呼ぶ?
 人ならぬ声。


「これきりにしようぜ。なァ、くくり桜の爺さんよ――


 絵に語りかけるがごとく、男は言う。
 そうして絵を再び巻き納める狐面の男を、子供が不思議そうに眺めている。



「さて、あんまり休んでもいられねぇ。そろそろ行くか」
 よっと一声気を入れ、男は立ち上がった。
「どこにだい?」
「次の町さ」
 子供がまたえぇ、と声を漏らす。
「まだいりゃあいいのに。良い町だよ。ここは」
「そうさなァ。おれもたまにゃゆっくりしてぇな。けどな、坊主」
 鳥が鳴くから、行かなきゃならねぇ。
 男の言葉に、子供は見上げた瞳をぱちくりとさせた。
「鳥?」
「そうよ。やかましく鳴いてやがら」
 子供は押し黙り、手を筒にして耳を澄ませてみせる。  風と川の音がする。
「鳥なんて、鳴いてないよ」
 子供の言葉に男はふっと声を落として、

「人の聞くもんじゃあ、ねぇよ」

 ぽつり、呟き、笑った。
「そら、もう家に帰んな。日が暮れるじゃねぇか。親が心配すんぜ」
「心配なんてしやしないよ。おれも、狐の兄さんみてえに色んな町、行きてえなあ」
「誰が狐だ。てめぇのお足で暮らせるようにならねぇと、旅なんざ出来やしねぇよ。大人になってから考えな。ほら、とっとと行きゃあがれ」
 ぽんと頭をはたいて促す。うん、と子供は影を引きながら駆け出していき、橋の半ばで一度振り返ると「さよならぁ」と叫んでぶんぶんと大きく腕を振った。
 それに手を振り返して子供の姿が見えなくなってから、男はつづらを背負い上げて子供が去ったのと逆の方向へ歩き出した。
 長い影が前に落ち、道を先行く。
「うるせぇなァ。そう急かすんじゃねぇよ」
 空が夕闇に染まっていく。紙の上には描けぬ鮮やかな絵を眺めやり、男は狐の面に笑みを乗せる。


 祓い、よう。
 祓い、よう。


 遠くで鳥が鳴いている。



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 部誌より再録。常々書きたいと思っていたべらんめぇ口調が書けて満足でした。
 少しテンポが早過ぎの感。

追記>機会があって余話を書きました。→『くくり余話』 詳細は中に。
<04/06/13>
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