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           ◇

 次の日客間に入ると、既に整えられた朝飯の席に古賀の姿がなかった。
 急須と湯呑みの乗った小さな盆を持ってやってきた主人に朱玄が尋ねると、朝早くに発ったと言う。
「川を渡しの船が通るようになったそうです」
 そう湯呑みに茶を注ぎながら落とされた言葉は、まるで滑稽な冗談のように耳に鳴った。
「それは良かった」
 富北が言う。笑みを向けられて清介は咄嗟にそうですね、と返した。返しながらまだその言葉を飲み込めないでいた。
 帰れるのだ。奇妙な屋敷を出て、薄暗い森を抜けて、町に帰れる。妻と子供に会える――そう胸に繰り返し聞かせても思考は明確な形とならず、曖昧な思いを抱えたまま清介は朝餉を終えた。
 外は良い天気だった。風はなく空気がやや湿り気を帯びている。梅雨の前触れだろうかなどとぼんやり考えながら庭を回り歩くうちに門に着いた。肩に鴉を乗せた黒い着物の法師が簡素な戸の前にしゃがみ込んでいた。
「法師さま、何をしてらっしゃるのですか」
 近付いて声をかけると、
「これを」
 立ち上がり、手を差し出す。握られているのは小さな布の破片、端が無残に鉤裂きになり、土に汚れているが、その濃青色にはどこかで見覚えがあった。
 朱玄が静かに口を開く。
「古賀さんの着物です。……門の外に、落ちていました」
「えっ」
 言われて改めて見ると、確かにあの痩せた街商人が着ていた羽織がこの色だった。
「古賀さんの着物がどうしてこんな」
 こんな場所に、こんな状態で。続く言葉はどちらにしろ好ましい響きとは言えない。よぎるのは鼻をつく錆びた匂い。地面に散る破れた着物と一面の赤。
「もう発ったはずじゃ」
「それですが」
 清介の言葉を遮り、朱玄が言う。
「私は富北さんよりも大分早く起きて外にいたのですが、ご主人にもお屋敷を出る古賀さんにも会わなかった。まだ薄暗いうちでした。それに、気付かれましたか? あの時ご主人が運んできた湯呑みは、きちんと四つありました。古賀さんが発ったことを知っているなら三つで良かったはずなのに、わざわざあの小さなお盆で」
「しかし、食事は三人分」
 清介の斜め前、古賀が二日の間座っていた席には確かに食事が用意されていなかった。朱玄は頷き、
「私が客間に入って少しするとご主人がやってきました。挨拶の後すぐに出て行かれ、次にやってきたのが富北さん、そして清介さん。ご主人は私と会ってからお茶を運んでこられるまで客間に入っていないんです。食事を用意したのは――志乃さんでした」
 言葉をまとめ理解を導くまで少しの時間を要した。回らぬ頭で昨夜の廊下の出来事を思い出す。音無く板床の上に歩を進める白い着物の女。落ちたのは、人間の、
 まさか。あれは幻だった。現実であるはずがない。あの白い夜着が闇の色に紛れて血に染まっていたとでも言うのか。馬鹿げている。全く馬鹿げている――
 己の昏い思考に叱咤し、しかし完全なる否の言葉を継ぐことも出来ず、ただ立ち尽くすしかなかった。朱玄が今までになく険しい顔を作り、囁くように清介に告げた。
「清介さん、もうお発ちになったほうがいい。ここは人が留まるには不穏の気を持ち過ぎています」
 忠言に素直に頷く。一も二もない。元より自分は家を目指す身だ。法師さまは、と逆に尋ねると、
「私はもう少し。またあの村に行ってきます。村長どのに二三お聞きしたいこともありますし」
「そうですか……どうかお気をつけて」
 言葉以上の憂慮が顔に出ていただろうか、朱玄は場を執り成すように穏やかな笑みを浮かべ、
「ええ、ご心配なく。これでも道を学ぶ者の端くれでございますから。緋津もおりますし」
 発つ時にはそこまでご一緒させて下さい、と言って門に向き直る。既に旅の装いになっている法師に気付き、自分も支度をせねばと清介は屋敷に歩き出した。と、外廊下の人姿に気付く。赤い着物の女。いつからそこにいたのか、ちょうど古賀が泊まっていた部屋の前辺りに立ち、じっと清介を見詰めている。かと思うと前触れもなくついと足を進め、角を曲がって屋敷の奥へ消えていった。
 奇妙なほどに落ち着いて清介は志乃の姿を見送った。恐怖はなかった。ただ理由のわからぬ無性の哀しみが胸に満ちた。
「かたしろの」
 不意に浮かんだ言葉が口からこぼれる。

 ――かたしろの君。

           ◇

 昼が過ぎて別れの辞もそこそこに、三人は並んで「人形屋敷」を後にした。富北も清介と同じ道を行くらしい。渡しの船を使って次の街までは二刻ほどだという。
 岐路で法師と別れ、学者と並んで歩を進める。他愛ない浮世話をしながらも清介の思いは暗澹とした霧の中にあった。あれほど無気味で心地悪く思えた屋敷に胸が捉えられている。釈然としない心が髪を引かれている。そしてあの言葉も。
――富北さん」
 話がひとつ途切れたところで、清介は胸内に掛かっていた問いを落とした。
「はい」
「あの……『かたしろの君』という言葉を、聞いたことはございませんか」
 学者がこちらを向き、細い目を数度目瞬かせる。そして、
「かたしろの君……確か、そう。芝居の名ではありませんでしたかな」
「芝居」
「ええ、あれは」
 己の言葉を確かめるように頷いて、富北は言った。

「人形のお話でしたよ」

 あ、と思わず声が漏れた。その一瞬に朧な点が像を結び、記憶の内にひとつの絵を浮かび上がらせた。それは何年も前に店の主人に付いて観た、鮮やかな舞台の情景だった。
 流れ一座の芝居小屋、観客のざわめきのなかに一組の男女。親の財を継ぎ不自由なく暮らす男がある日手に入れた美しい女人形に異常の愛慕を抱き、全てを投げ打って夢想に堕ちていく。結末を迎え、世の人間たちから見放された男は動き出した人形と共に舞台の上を舞い踊る。だが全ては男の妄執であり、舞台を引き回され壊れ崩れていく人形を抱いた哀れな男の狂気の叫びの中、静かに幕が落ちる。
 そうとも、人形が命を持ちようはずがない。例え強い狂気の内にあろうとも、人形が人間になれようはずが、

 ――人ヲ喰ウヨウナ下賎ナ妖シトハ違ウゾ

 人間に、

 ――穢レタ血肉デ人間ジミテハ堪ラヌ

「そんな、ことが……」
 あまりにも整った女の姿。からくり仕掛けの犬。人を襲う牙持つ物の怪。水音。そしてあの、地面の赤、赤、赤。
「まさか。まさか」
「どうなされました?」
 足を止めた清介を不安げに覗く学者の声も耳に入らない。ただ思い出すのは廊下に立った女の色無き顔と、舞台の上で朽ちていく美しくも哀れな形代の舞い。
 戻らなければ。
 富北が驚く横で荷を負い直しきびすを返す。
「清介さん、どこへ?」
「屋敷に、……戻らなければ」
「忘れ物ですか?」
 答えない。理由など無かった。わからなかった。戻らなければ。ただそう思った。
 道中つつがなきを。別れの言葉に返るを聞くももどかしく、頭をひとつ下げて清介は川へ続く道に背を向けた。ともすれば駆け出そうとする思いを必死になだめ、人形の並ぶ屋敷へと一心に歩んだ。



「これは……」
 屋敷の主人は清介が泊まった部屋の前の廊下に立ち、庭の清介の姿を見ると不思議そうに声を漏らした。今灯したのか傍らに高足の行灯が強く火を立てている。
「何かございましたか」
 一度見送った客が息せき切って戻ってくれば至極当然のものであろう問いに、だが清介は答えず、代わりに尋ねた。
「ご主人、この辺りに物の怪が出るという噂を知っていますか?」
 唐突な言葉に男の顔は動かない。清介は続ける。
「夜現れて鋭い牙で人を襲うと言います。私は近くの村で実際にその物の怪に旅商人が襲われた跡を見ました。血溜まりの中に千切れた人の腕と、着物の破片が散らばっていた」
「興味深いお話ですが……」
 それが何か、と続くのだろう声を遮り、
「今朝、門の外に古賀さんの破れた着物が」
 短い言葉、終わりまで口に乗せず主人の顔を見上げれば、行灯の火に浮かぶ変わらないあの冷艶な笑み。弾む息と胸に押され、自分でも完全な解を得ないままに清介は言葉を紡ぐ。
「しかしあなたは古賀さんは発たれたと仰った。ご主人、あなたが……いえ、あなた自身がではなく、この屋敷にいる物の怪が、古賀さんを襲ったのでは?」
 ぴしゃ、ぴしゃり。ぴしゃり。
 水音。血溜まりの中で人の欠片が跳ねる音。頭の中で鳴っているのか、それとも主人の背にする戸の向こうで鳴っているのか、或いはその両方であるのか。
「志乃さんを人間にするために、人の肉を――
「志乃が」
 主人が口を挟む。
「志乃が人でないとしたら、何だと?」
 起伏のない静かな声。いっそ荒いでいれば、まだ胸の動機も治まろう。清介は視線を落とし、息を深く吸い込んで口を開く。
「……人形」
 男の愛を一身に受ける、美しい女人形。

 一切の沈黙。もう水音はしない。だが戸の向こうには志乃がいる。血溜まりの中に座り、色の無い顔をじっと壁越しの男の背に向けている。何故と問われれば答えが出ない。しかし清介にはわかっていた。確信ですらない。それが真であると。
「志乃は人ですよ」
 主人が言う。代わらぬ声音。変わらぬ笑み。清介は再び顔を上げ、真っ直ぐに主人の目を見た。
「ご主人」
「はい」
「志乃さんを、愛していらっしゃいますか」
――ええ」
 突然の問いにも微動だにせず主人は返す。
「愛していますよ。心の底から。志乃も、私を」
 一瞬の間。すぐに流れ去り、
「私を、愛してくれている」
 やはり変わらぬ音。
「ならば。ならば、もうやめませんか。こんなことは」
 わかりませんね。震えのかかった清介の言葉に主人は淡々と答える。
「何故あなたはそんなことを仰る」
 高圧的にも響く言葉に視線を下げ、また戻し、細く、しかし決然と、清介は言う。

「あなた方が、哀れだから――

 主人の眉が一瞬動いたのにも気を止めず、ほとんど無意識の内に言葉が流れ出していく。
「志乃さんの動かない顔にも、あなたの笑みにさえも、哀しみの想いしか見えない。深い深い孤独と寂しさしか私には感じられない。強い愛慕が互いの身を壊して心を切り刻んでいる……哀れに思えて、ならないのです。どうか、どうかもう」
 もう終わりに。渦巻く念が流れるまま口を出、我が身に戻ることで、己の心を初めて自覚する。恐怖でも嫌悪でもなく、とめどない悲哀の情。脳裏によぎるは舞台の上を鮮やかに舞い踊る男と女。人形の身は崩れ、人の心は壊れ、ただ朽ち落つる終焉を待つ。
 くつ。くつ。
 軋んだ音。紅い唇を吊り上げ、その上に手を置いて、男が声を立てて笑っている。
「哀れ、と……」
 手を外して清介を見る。背が凍りつくほどに美しく、恐ろしく、そして哀しい笑み。
「わかっていた。初めから……全てわかっていたこと。何よりも哀れで、滑稽で、惨めな行いだと」
 くつくつ、くつ。
「ええ、お客人。あなたの仰るとおりです。ただしひとつを除いて、ね」
 くつ、くつ。くつ……
――志乃が」
 笑い声がやむ。主人の顔から色が消え、ただ声が鳴る。

「志乃が、本当に人でないとしたら。あなたが仰ったように、本当に人形であったのなら……。私の悦びも哀しみも、ここまで深くはなかった」

 静かな言葉が流れるまま理解にならずにいる清介の前で、伏せた目を起こし主人は声を続ける。
「わかっています。この行いの意味もその醜さも。だからこそ私はやめるわけにはいかない。行く道がある限り足を止めるわけには行かない。私には、それしかない」
 かたり、と木の音。廊下の隅から現れる大小の獣の皮を被った数体のからくり。一番手前にいる濃茶色の犬の口が開く。血に汚れた鋭い牙が覗く。光る双眸がじっと清介の喉笛を見据えている。
「ご主人……」
「古賀さんには気の毒なことをしました。何があっても夜に外へ出て門を開けてはいけないと言っておくべきだった。……そして、あなたにも」
 かたかたと木の音をこそ立てながら、およそからくりとは思えない動きで濃茶色の毛の犬が清介に近付いてくる。
「もう、戻れないのです」
 があ、と仕掛けの軋みとも唸り声ともつかぬ音が発せられ、獣の後足が地を蹴った。腕を体の前で盾にし、目をつぶって清介は来るべき衝撃に身を固めた。
 そしてあったのは、
 しゃらり。
 金物の鳴る音。

 目蓋をゆっくりと開き、腕を落とす。己に飛びかかってきたはずの獣が地に倒れ伏している。しゃらり、音の鳴るほうを向けば、目に映るのは鮮やかな闇色。
 胸の前で印契を結び、肩に錫杖を鳴らしながら、鴉を供にした法師が清介の隣に歩を進めてくる。印が解かれ、それでも動き出さないからくりの腹には一枚の札が見えた。
「法師さま」
 ぽつりと呼びかけるとこちらを向いて軽く笑み、
「実はもっと前からあちらの陰にいたのですが、会話の間に出る機を逸しまして。まさか清介さんが戻ってこられるとは思ってもいなかった」
 そう言う。肩の鴉の目がちらりと清介を見、どんな色を浮かべるでもなくすぐに前へ戻った。
「法師どのも、私を諌めに?」
 ごく静かな問いに、一度動いた空気がまた糸を張る。朱玄は正面から主人の顔を見据え、落ち着いた声でひとこと返す。
「近くの村でお話を伺ってきました」
 それ以上の言葉は必要とされなかった。数度の目瞬きの間を置き、主人がええ、とかろうじて二人の耳に届くほどの呟きを漏らした。
「本当ならば、昨日あなた方が村へ行った時にも知れていたことでしょうからね。それとも、道門の方が屋敷に来られたことが、そもそもの成り行きか」
 慌てる様子もひるむ様子もなく、淡々と男は話す。
「あなたは少し物の怪を、いえ、からくりの獣たちを動かし過ぎた。旅の途中の人間がほんの少し襲われるだけならば、誰にも知られないままだったかもしれません。しかし門を出てしまえば獣たちを完全に操ることは出来ない。単純な命令だけを元に、獣たちは村にも姿を出した。おそらく古賀さんも何かの理由で外に出て、帰ってくる獣と門で鉢合わせしてしまったのでしょう」
 朱玄の言葉で清介は片耳に聞いた古賀の話を思い出した。廊下での立ち話の際に神経質そうな痩身の男は言っていた。「外が気になって寝付けない」。古賀の寝間は門と向かい合わせの部屋だった。
「村には」
「私を軽蔑しますか。法師どの」
 続く朱玄の声を遮り、主人は小さくも鋭い声で言った。
「果てのない恋情に身を焦がし、人を殺め、心の底より求めながらなお変わらぬ日々を呪う。私のような存在が遠く望みを描いてぶざまに足掻くなど……なんたるものと、思われますか?」
 顔は笑んでいた。だがそれは嘲りの笑みだった。尋ねながら、しかし既に胸に変えようのない決を出している、己への嘲りの笑いだった。
 もはや応えは求めていないのだろう、行灯の火に照らされた紅い笑みのまま男は続ける。
「諫言を山と戴くことでしょうね。愚かしいことはやめよ。分をわきまえよと……しかしまだ、道は閉ざされていない」
 かた、かたり。主人の言葉を合図のように、からくりの獣達が前に数歩進み出る。清介は反射的に一歩身を引いたが、朱玄は動じずその場に直立して主人の顔を捉え、ゆっくりと穏やかな声で言った。
「関わりない人間を幾人も殺めたこと……確かに、それは許されざる行為でしょう。しかし同じく関わりない人間である私が、その想いの元から愚かしいと一言に捨てることもまた出来ましょうか。それこそ分に過ぎること。ただ、これだけは言わなくてはならない。全て世の理には限りがあると」
 ひと呼吸の沈黙。置いて、
「例え百の人間の血肉を喰らっても、完全な人になることは出来ません」
 ゆるやかに、だが澱みなく、声が通る。
「榊さん。それはあなたが一番わかっていらっしゃるはずです。門に閉ざされた屋敷の中に刻む道……呪い哀しみ行く道がどこへ続くのか。どこへ、続いていないのか。全て最初からわかっていらっしゃったはず」

 ――形代は、永遠に形代なのです。

 しゃらり。輪錫の音に合わせるように、一筋の風が過ぎる。もう幾日も身に感じなかった風舞いは暗い血の色を流し清め、ただ悲しみの深色だけを場に残すかに思えた。
 その静寂の中に、清介はか細い声を聞いた。
「声が」
 それは確かに女の声。
「志乃さんの、声が」

 とん、と白い顔の男が後ろの戸に背を寄せる。しばしの間、戸惑いと喜びと哀しみと、様々な感情がない交ぜになった色が面に浮かび消えた。
 朱玄が言う。
「榊さん。志乃さんは何を仰っていますか? 私の耳までは届いてきませんが……おそらくは」
 おそらくは、何も。
 声に心が乗らぬのならば、それは人の血肉が絞りだす音。言葉ではない。
 男は顔を手で覆い、隙間に覗く紅い口からやがてくつ、くつ、と軋んだ笑いを漏らした。
「ええ。もう……もう、終わりに致しましょう」
 細い手が傍らの行灯を押す。がしゃと崩れた木屑に火が散る。男は懐から巻紙の束を出して火の中にそれを躊躇いなく投げ入れた。ごうと赤い炎が上がる。中に含まれた油紙によるものか、それとも魔性の術によるものなのか、尋常の燃え方ではない。
「いけない」
 朱玄が火に走り寄りかけるが、前にからくりの獣たちが立ち塞がる。今しも飛びかかってくるような姿勢で朱玄と清介を睨みつけ、ぎりぎりと不快な音を鳴らす。その間に男は戸を開け放ち、中に座っていた白い着物の女の手を取って廊下へ駆け出た。開いた戸の奥には一様に前を見据える人形たち。瞳の先には炎に浮かび上がる艶やかな一組の男女。それはまさしく、舞台の始終を見詰めていた観客と、今しも朽ち果てようとする狂った男と美しい女人形の――
「ご主人」
 眼前の火の存在も忘れ、清介は声を上げた。男がこちらを向く。
「あなたは仰った。人形は愛した分だけ応えてくれると、人間とは違うと……ならば何故、あなたは志乃さんが人間であることを望んだのです?」
 男は女の肩を支えたまま炎の向こうで目を伏せ、また開き、穏やかに返した。
「愛が返らない哀しみと、伝えられない哀しみと……どちらか一方なら、まだ私も耐えられた」
 ふっと口元に笑みが浮かぶ。何の感情もないその顔が目に焼きつく前に、男は女の手を引いて廊下を駆け去っていった。
「追ウカ」
 鴉が翼を立てる。法師は首を振り、
「いや。清介さん、ここは危ない。門まで走ります」
 言うなり手で清介の背を押す。たたらを踏みつつも清介は言われた通り足を門の方向に向けた。後ろで獣たちが地を蹴る音がする。
「緋津」
 並んで走り始めた法師の声に黒い霊鳥が飛び立ち、こう、と人のものではない言葉を発した。瞬転、駆ける二人の背後で鋭い風が巻き、獣の叫びが上がる。
 なおもやまぬ背の足音に振り返る余裕もなく清介は走った。わずかな距離が恐ろしく長く、門が見えたときには胸が割れそうに鳴っていた。転げるように垣の外に出て、朱玄が門を閉める。風の壁を抜け追いすがっていた獣がざと止まり、躊躇いの足を踏んだ後きびすを返して屋敷へ戻っていった。
「火ニ飛ビ込ミニ行ッタカ」
 鴉が法師の肩に帰る。
「なんでこの門を」
「外との境界です。火もここまでは来ない」
 清介の呟きに朱玄が短く返す。
「結界の門……夜開いて獣を外へ出し、人の血肉を持って戻れば閉めて封ずる。或いは、無駄な数を殺すまいとするあの方の良心であったのかもしれません」
 どちらにせよ失くした命は戻りませんが、と語る法師の横顔を屋敷から上がり始めた炎が赤く照らしている。おそらくは人形たちの身体を糧に燃え育っているのであろう炎に染まるかのごとく、空も朱に赤にその色を変えつつあった。
「やはり、ご主人が人を襲わせていたのですね」
 自分で導き問い、目の当たりにした結ながら、いまだ実感を伴わずにいる。むごいことをと思いつつ、清介はあの男女の姿にただ非のみを見出すことが出来なかった。そしてまた、真の理解をも。
「私には、わからないことばかりです。ご主人は志乃さんに人の肉を与えながら……それでも志乃さんは人間だと、人形ではないと仰っていた。自分を愛してくれていると。そう言いながら、最後のあの言葉は」
 再度巡る矛盾の言。一体何処より来るものなのか、清介にはわからない。
――半分」
 ぽつりと落ちた法師の声に顔を上げる。
「半分……でしょうか。そもそもが、ねじれの中にある」
 顔を燃え盛る炎に向けたまま、朱玄は静かに語る。
「志乃さんは、確かに形代でした」
「しかしご主人は、人形ではないと」
 言葉を繰り返すと朱玄の目は戸惑いを見せた。焼けた沈黙の空気と灰色の思考の中に、ひとつ鴉の嗄れ声がよぎる。
「主。話シテシマエ」
「え?」
 法師が肩の従者に意外の声を上げた。
「真ヲ知リナガラ口ヲ閉ザスノハ、人ノ悪イ癖ダ。コノ男ニハ事ヲ聞ク胸ガアル」
「……お前が人を褒めるなんて珍しいね」
 笑う主に鴉がふいとよそを向く。今のは褒め言葉だったのだろうかと判じかねている清介を朱玄は正面から見据え、
「お話しましょう、清介さん」
 ゆっくりと、口を開いた。
「ご主人は――

 湿った蔵の中に二つの人姿がある。男はうず高く積まれた荷の隙間に腰を据え、両腕に美しい女を抱いている。女の色無き顔が男の顔をじっと見上げている。その白い着物は人の血肉で赤く汚れている。
「志乃」
 男が呼ぶ。女の唇が緩慢に動き、か細い声を出す。
「しのしのしのしのしのしのしのしのしのしのしのしのしのしのしのしのしの」
「お前の名だ」
 男が紅い口を笑ませ、女の艶やかな黒髪を梳く。
「美しい名だ。私には、それしかなかった」
 それしか得られなかった。自嘲の声が落ちる。
「ああそうだとも。私も寂しかったのだ。いくら呼んでも返らない。いくら望んでも得られない。いくら愛しても」
「あいしてあいしてあいしてあいしてあいしてあいしてあいしてあいしてあい」
「お前は私を愛した。私もお前を愛した。だがそれは違う。お前は私を愛してくれた。だが違うのだ」
「ちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちが」
 壊れた言葉を繰り返す女の身体をわが胸に寄せ、切なる言葉を搾り出す。
「志乃。愛してくれ。私を……私をだ。お前を愛している、この私を……」
「あいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいしてるあいして」
「……私を……愛してくれ……」
 猛る炎は瞬く間に蔵の壁に荷に映り、二つの影の足元まで忍び寄る。やがてごうと音を立て、その着物に飛びかかった。
 朽ちるのは私が先か。
 涙も流せぬ空の身が炎にもろいのだとしたら、そう呟いて女の身体をきつく抱きすくめる。終わりはここに。ただ幸いは、君と逝ける。
「あいしてる」
 炎に呑まれた言葉と共に、女の目から一筋の光がこぼれた。



 ――あの屋敷の本当のご主人は、志乃さんなんです。



 一瞬後、炎が空を包み、遠くで建物の崩れ落ちる音がした。

           ○

 人の集落から離れた森の中に一つの屋敷があった。
 早くに親を亡くした屋敷の美しい女主人は、遺された財で独り細々と暮らしながら、やがてひとつまたひとつと人形を屋敷に並べ始めた。いつしか人が『人形屋敷』とその家を呼ぶようになった頃には、主人はほとんど外を歩かず、ただ屋敷の中で人形を愛でて暮らすようになっていた。
 数多い人形の中でも主人はひとつの人形をとりわけ愛した。それは祖父がまだ主人の生まれる前に手に入れた物。上等の着物に白い顔。紅い唇。本物の人と見紛うほどの、榊という名工の手による美しい男人形。他の人形を集めるきっかけともなったその男人形を、主人は人のように愛した。
 幾年もののち、深い念によるものか、長い年月が付喪を呼んだか、その人形は我が意志を得た。主人が己を愛するように人形もまた主人を深く愛した。しかし主人は人形が自分を愛していることを知らなかった。人形は孤独だった。主人を愛し、得たいと深く深く想っていた。そのことをさえ主人は知らなかった。
 強すぎる憂いの念は恨みの念をも呼んだろう、ある夜人形は自らの意で動き、主人の首を絞めた。
 違う。
 崩れ落ちた主人の身体を呆然と見下ろし、人形は――男は叫んだ。
 違う。私は骸を得たかったのではない。
 貴女が自分を愛してくれるように、自分も心の底より愛していると、ただ伝えたかった。得たかったのではない。寂しかった。貴女に私の心を知って欲しかった。人形の身体ではない、心を愛して欲しかったのだ。やっと我が腕の中にした動かぬ主人を抱いて、男は気も狂わんばかりに嘆いた。涙すら流せぬ空の身で泣き続けた。やがて、昏い想いの中に男はひとつの道を見出した。

 鬼道を用い、女の命を人形に移し替えること。

 空の人形に女の血肉と肝を収め、剥いだ皮を被せ、着物を着せ、人の肉を与えた。やがて女は動き出した。しかしその美しい顔に元の色は無く、言葉も無かった。男は同じようにして造ったからくりの獣たちに人の血肉を集めさせ、女に与え続けた。少しずつ少しずつ、女は人間らしくなった。
 しかし男はわかっていた。己の命が人の血肉で生まれたものではないように、女もまたそれによって元の姿を取り戻すことはない。たとえ表情の色と声を得たとしても、それは自分が心より愛し望んだ主人ではなく、造られた擬人に過ぎぬのだと。
 志乃という女の身代わり――形代に、過ぎぬのだと……

 落ちた夜闇の中でまだわずかに燻りを立てる屋敷の前に腰を下ろし、清介は屋敷に朽ちた男女の姿に想いを馳せていた。
 村で聞いたという話を交え語り終えた朱玄が何の問いも発しないのが有り難かった。哀しい、痛ましい、言葉に出せば陳腐なものにしかならないこの感情を口にするのが躊躇われた。代わりに、あの夜、そして今朝に見た志乃の姿と聞いた声を法師に伝えた。そして、言った。
「法師さまは、私が戻ってきたことに驚いていらっしゃいました。私も……自分でさえ理由が良くわかっていないのです。お屋敷も人形も、私には不気味で、決して好ましいものではなかった。ただ、思っていました」
 躊躇い、ひとつ決心の息を吸って、言う。
「並べてみればまるで違います。言葉が浮かんですぐに、屋敷を去るまでずっと否定し続けていた。しかし、初めてあの方を見たとき、確かに……確かに思ったのです」

 あの方は、少し、ほんの少しだけ。私の妻に似ていました。

「笑った顔ならさぞ美しいだろうと残念で」
 あの時主人、いや、榊に志乃のことを尋ねたのだって、今思えば遠い自分の妻と重ねていたからかもしれない。幸福を振りまいて笑う妻と子、そして自分の姿を想って、果たしてこの方たちは幸せなのだろうかと……。
 今となっては何を言っても空しく響くけれど。自嘲した清介に朱玄は穏やかな笑みを向け、
「志乃さんは、救い出して欲しかったのかもしれません。強い愛情ゆえの際限ない哀しみから。いえ、志乃さんだけでなく、榊さんも、きっと……」
 その念が、清介さんを引きとめたのかもしれませんね、と言う。
「結局何も、出来ませんでした」
 舞台に一体どのような救いがあり得たろう? 悲しみも喜びも全て炎の中に、ただ幕は下ろされた。
 しゃらり、錫杖が揺れる。
「清介さんのせいではありませんよ。終わったのです。何もかも。ひとつ事の中に救いをもたらすことなど、そう出来得ることではありません。こうして墨染めの衣を纏っていても救えなかったものがいくらあることか」
 決して気落ちした声ではないが、全てを納得した声でもない。肩で鴉が呟く。
「人間ハ面倒ダ。コノ世ニ万事ガ問題ナク流レル事ナド有ル筈ガ無イ。ソレヲ知ッテイナガラ、ソウシテ煩ワシイ生キ方バカリ好ム」
「そういうものなのだよ」
 宥めるように朱玄が返す。
「二人は」
 会話に被せるように清介は声を落とした。法師と霊鳥の目が同時にこちらを向く。

「あのお二人は、生きていらしたのでしょうか?」

 何が人形に命を与え、何が死した人を動かしていたのか――今となっては、知る由もない。
 我が目で確かに見てもわからぬことは尽きること無くある。流れ過ぎていくままに幾つもの終わりがあり、また煩わしい日々の始まりがある。
 顔を屋敷に向け、法師が言う。
「そうですね……共に人間であったとすることは、やはり出来ないのかもしれません。しかし、何か無性の渇きを持つことが人の『生』なのだとすれば、あの方たちは他の何よりも生きていたと……そう、言えるのではないでしょうか」
 またお役に立てませんね、と息をつくのに首を振り、
「いいえ。法師さま、私は思うのです。この世に揺るぎない真理など……本当はないのかもしれないと」
 返せば法師は頷いて、
「ええ。そうかもしれません。だからこそ人は、いつまでも渇きを覚えるのでしょうね」
 そう言った。ヤハリ面倒ダ、と鴉が呆れたような声をこぼす。朱玄が笑う。
「それでもお前、そんな面倒な人間が好きなのだろう?」
「ソウデ無ケレバ共ニ旅ナドセヌ」
 憮然として言葉を返し、ふん、と鴉は首を曲げた。朱玄がその背を撫でながら呟く。
「私も、渇きの中を歩く人間が、嫌いではないよ」
 煩わしい日々も、尽きぬ渇きも、決して生の喜びに背を向けるものではない。
 今は早く家路に着いて愛しい妻と我が子をこの腕に抱き締めたいと、深い闇の中にただそれだけを清介は強く願った。


―了―

後書きを表示する
 最長記録を更新。『』の法師と鴉が再登場ということですが、構想はこちらの方が先で向こうが設定流用作です。相変わらずカナ言葉が読みづらくて申し訳なく……
 ダブルキャストの半端感に悔いを残しつつ頑張りました。長かった。

<05/03/30>
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