●Novegle対応ページ ◎作者:プロト◎カテゴリ:ホラー◎長さ:中短編◎あらすじ:物の怪が出ると噂の土地で道連れになった法師とともに訪れたのは、紅い笑みの主人と美しくも色無き女の住まう「人形屋敷」。物言わぬ人形たちの並ぶ部屋、ぴしゃりぴしゃりと水音が響く。和風ミステリーホラー。
かたしろの君


 月の内には帰ろうと旅を急いだのが間違いだったようで、次の町の影も見出せぬまま陽が山向こうに落ち始めていた。
 どうにも困ったと頭を掻き上げ、しかし道を歩む以外に出来ることもなく、背の荷を負い直して清介は足の進みを早めた。辺りの木が赤く浮かび上がっているうちはまだ良いが、闇が落ちれば森の中の細小道、さぞ薄気味悪いに違いない。よもやこのような場所に夜盗も出まいが……。
 そんなことを考えながら心許なく背を縮めて影の広がる道上に目を落としていると、
 しゃらり。
 木の間から不意に金物の鳴る音がこぼれ聞こえ、身の内で飛び上がった心腑と裏腹両の足は地面に固く縫い止められる。
 誰そ彼時とは良く言ったもの、脇道からこちらへ歩み来るその姿が薄暮れの中あたかも異形のものであるようにさえ思え、身を凍らせたまま清介は音が視界の中に形を現すのを待った。しゃらり、しゃらり、と規則正しい響きが弾む鼓動に入り混じり、共に途絶えたかと思えたのは、しかしほんの一瞬のみであった。
 墨染めの衣に簡素な袈裟を掛け、頭には菅笠手には錫杖。肩に止まった一羽の鴉がいささか妙とは見えるが、沈む陽に明らかになったそれは、思い描いた異形の類とはまるで裏腹にあるとも言える確かに旅の法師の姿。
 安堵の息と共に己の怖じ気への苦笑が漏れる。幽霊の正体見たりと笑い話にはよくよく聞けど、自分もまた大層滑稽な勘違いをしたものだ。
 しゃらり。
 輪錫が一度鳴り、後の音を絶える。代わりに声。
「どうか、なされたのですか」
 顔を上げれば数歩を置いて正面、法師が足を止めて清介を見詰めている。立ち尽くしたままの男の姿に不審を抱いたものか、行く道を塞ぐ清介を咎めるよりは、気を遣う調の言葉。
「あ、いえ……何でも。どうも申し訳ありません」
 慌てて返し、道を脇によける。そうですか、と法師は穏やかな声を漏らして一礼し、清介の横を歩き過ぎた。
 と。

「男、コノ道ハ行ケヌゾ」

 不意に落ちた嗄れ声は、喉を絞める蔦とも感じた。
 動転を押さえ込んで振り向けば、同じく身を半分こちらに見せた法師と視線がぶつかる。有髪の僧はやや顔を曇らせて、
「失礼なことを……。緋津(ひつ)
 己の左肩に首をねじり、静かに言った。
「そう人を驚かすのはおやめ。いつも言っているだろう」
「本当ノ事ヲ教エテヤッタマデヨ」
 薄く開いた鴉の嘴から漏れるのは先の嗄れ声。呆気に取られていると鳥特有の素早い首の動きで黒い双眸がこちらを向き、清介の身をこわばらせた。しゃらと錫杖を肩に寄せ、法師が口を開く。
「申し訳ありません。偏屈者ですが人に害を成すようなことはございませんので……」
 苦笑混じりの言葉に気を悪くしたのかふいと鴉はよそを向き、その間に清介は胸に溜めた息を吐いて法師に呼び掛けた。
「あの、この道が何か」
 声はかすれていたが、相手に届くを遮るほど間に置いた空気は厚くなかった。法師は小さく頷き、
「私共も行きずりの方に教えていただいたのですが、この先一番近い町の前の川の水が増して、橋を流してしまったとか」
 直すにも今しばらく時がいるそうで。続く声に清介は頭を抱えた。急ぎ来た道の先がよもや途絶えていようとは。戻るにしても旅宿の在る町までいくらかかるものだろう? ただでさえこの森の路、夜歩むには心寒いというのに。
「あの、もし――
 頭を巡らせる清介に法師の声がかかる。
「宜しければ、ここからご一緒しませんか。ちょうど私共も今日の宿を求めに行くところなのです」
「宿を」
「はい。これも人の話ですが、この道を少し行った所で脇にそれると、その先に主人が一人だけで暮らしている大きな屋敷があるそうです。そこならば泊めてくれるだろうと伺ったもので、これから訪ねに行こうとしておりまして」
 ついでと言うのも妙ですが、と笑む。
 しばし思考の沈黙を、破るのは低く嗄れた声。
「主(アルジ)。狸ノ変化トデモ見エテイルノデハナイカ」
 僧や女性に化けて人を騙すのは昔語りに躍する狐狸どもの常套の手。それを引いて揶揄したものであろう、くくと軋んだ音は鴉の笑い声か。法師は息をつき、
「全く口が減らないねお前は。まあ、徳の高い御僧に見えるとは自分でも思わないけどもね」
 そう言って旅に汚れた法衣を見下ろす様子に、清介は慌ててかぶりを振った。
「いえ、疑うなどということは……旅を急ぐ身ですので、どうしたものかと。いえ、迷うこともないのです。ただ諦めのつかない意地で。どうせ行く他は戻る道しかないのですし。では、ご一緒させて頂けますか?」
 法師は笑んでひとつ頷き、しゃらりと錫杖を鳴らして道を清介の来た方へと歩き始めた。残念の感は残ったものの、清介もすぐその横に並んだ。夜の落ちた森になお濃い質素な法衣の闇色は、しかし確かに安堵の色であった。

「私は朱玄(しゅげん)と申します。職はこの身成りの通りで――自分の寺も持たぬ旅ばかりの若輩者ではありますが」
 道すがら穏やかに語る法師は、その言葉通りまだ大分に若く見える。型の深い菅笠の下にはっきりとはしないが、清介と同じ程か或いは下でもあろうか。
「こちらは語り鴉の緋津。一応の名目は私の従者ということになりますが、まあ、実際までそうと言えないのはもうお分かりでしょうね」
 古馴染みの友のようなものです、と肩の鴉を示す。当の霊鳥は話を聞いているのかいないのか、目を伏せて微動だにせぬその姿だけを見れば、まさか人の口を聞くものとも思えないありふれた鳥の様相である。
 清介は型通りの相槌を打ち、次に自分の名と商人の身の上、遠くの得意回りを終えて家路の途中であることを話した。
「家に妻も子も待っておりますもので、早く帰りたいと気ばかり急いて、つい考えなしに足を進めてきてしまいました」
「まだお若いように見えますが、お子さんが?」
「去年の暮れに生まれまして……」
「それは、可愛い盛りでしょうね」
 ええ、と頷き、妻子の姿を頭に浮かべる。旅の見送りに手を振る優しい笑みの妻と腕に抱かれた生まれたばかりの息子。その姿を懐かしいものと感じる前に、早く我が家に帰り着きたかった。
「法師さまは、どこへ行くというのでも?」
「そうですね。いつもは当てどない旅をしておりますが」
 そこまで言って、穏やかな顔がふっと色を絶える。一瞬の逡巡に清介が疑問の念を挟む前に、
――実は、この辺りに物の怪が出ると聞き及びまして」
 ごく静かに、声が落ちた。
「物の怪……」
 ふらりと抜ける風に思わず足元を確かめる。長い影も薄く溶けかけている土の道に、ただ草鞋の足が二組並び歩いている。ひたりひたりとかすかなその足音は、我がものではなくどこか遠くに鳴るもののようにも思えた。
「どんな物の怪なのです?」
 気付けば口から問いが滑り出ていた。根も見ていない噂ではありますが、と言葉を置き、朱玄が返す。
「暗闇に紛れて人を襲うそうです。鋭い牙を持っているようだとか……。聞いた以上は放っても置けませんもので物の怪の出たという村を訪ねようと思っていたのですが、着く前に陽が暮れてしまいました」
 しゃらり、と夜気に錫杖の音がにじむ。
 清介ははあと色のない相槌を打って、自分から発した問いを繋ぐでもなく黙した。話の途端に周りの木々がその薄暗い懐に何か得体の知れぬものを隠し抱いているような心持ちがし、足を早めたい衝動を誤魔化そうと空を見上げれば、朧雲の隙間に形のわからぬ月がぼやりと光っていた。

           ◇

 道を途中で脇にそれて林の中をいくらか行くと、木々の合間に建物の影が見え隠れたかと思う間もなく視界が開け、前に屋敷が現れた。
 漏れる薄灯りの届くか届かぬかという辺りに造られた門の前に足を止める。向こうに見える豪奢とは言えないまでもしっかりと造られた、一見して中の広さを窺わせる屋敷とは似合わぬ体で、門とそれに続く柵とはごく簡略に据え置かれている。或いは後から間に合わせに造られた物でもあるのだろうか。
「もし、御免下さい」
 朱玄が柵越しに声を投げる。張り上げるとは遠い音嵩であったが、不気味を感じるほど静まり返った空気を通すには申し分ないだろうと思われた。
 静寂を返す屋敷に二度呼び声を繰り返すが、応答の気配はない。どうしたものかと二人が顔を見合わせかけたとき、
「戸ガ開イタゾ」
 ひそりと鴉が呟いた。
「おや、寝ていたかと思った」
「主ノ撫デ肩デハ居眠リモ出来タモノカ」
 軽口にはいはいと頷いて朱玄が門を引き開けるのとほぼ同じほどに、清介の目にも屋敷の戸から漏れる光が大きくなるのがわかった。
 お邪魔しましょう、と歩き出す法師の後について柵の中に入り、歩を進める。戸の前まで来ると「どうぞお入りください」中から初めて人の声。促されるまま踏み込んだ広い土間に揺らぐ影を引き、上がり框に一人の男が立っていた。
 その一瞬に声を漏らさなかったことをこそ意外と表すべきであろう。
 華美過ぎぬ上等の着物をすらと纏い、白い顔に柳眉と赤い唇が際立つ。「大屋敷の主人」という言葉から知らずの内に隠居の年寄りを思い描いていた清介は、目の前に現れた役者かと見紛う程の若く壮麗な人姿に不慮の戸惑いを覚えた。笠の影の面にこそ現れなかったが、思いは同じであったのだろうか、朱玄がひとつこほんと咳払いを置いてから口を開いた。
「夜分に失礼致します。旅の者ですが、道の途中で日が暮れてしまいまして、一晩宿をお借り出来ないものかと伺いました」
 後を追って清介も頭を下げる。男はすぐに頷き、
「ええ。どうぞ遠慮なくお上がりください。向こうの川で橋が流れたそうでお困りでしょう。大したおもてなしも出来ませんが、部屋は充分に余っておりますから」
 そう言って紅を差したような口の端を上げる。妖艶と賞するに相応しい、細筆の一息で描いたように怜悧な笑みは、質朴な屋敷の中場違いさえ感じさせた。
「私は榊と申します。客間へご案内致しますので、こちらへ」
 面倒な礼のやり取りを遮るように澱みない声で促す。草履を脱ごうと体を動かした瞬間、清介は初めて自分が汗をかいていることに気付いた。

「これは……」
 前に立って客間を覗いた朱玄が今度は感嘆の声を漏らした理由に至るまで、清介はいくらかの時間を要した。認めたのは目に映る物より先にまず己への無数の視線であり、それは相反する性でいながら正しく同じ物であった。
 部屋の中心に置かれた座卓に向かう男が二人。
 そして何より心を奪うのは、壁を背にして佇む人姿。両の目を一様にひたと前に据え、鮮やかな衣装もとりどりの、大小数十の人形の群れが清介たちを物言わず迎えていた。

 すぐにお食事を用意します、という主人の声を頭の隅で聞く。そうして続いた沈黙はいくらばかりであったろう。ようやく――まさに屋敷に足を踏み入れてから初めて――清介の頭に明確な色が差した。
「あなたも、お座りになられてはいかがですかな?」
 不意に響いた声に慌てて視線を壁から外せば、既に朱玄は笠を外して座卓に席を占め、気遣わしげに清介の顔を見上げている。声の主はその斜向かいに腰を下ろした夏羽織姿の初老の先客だった。
「あ、も、申し訳ありません」
 我に返るとはまさしくこのことだろう。あたふたと荷を降ろし、示された座布団に座り込む。初老の男とそれにつられて法師もが笑いをこぼした。頬が紅潮するのを感じるが、それはむしろ奇妙にも久しい快さに変じた。
「驚かれたところを見ると、お二人とも進んで訪ねてこられたのではないようですな」
「え?」
 尋ね返すと、失礼、と初老の男は頭を下げ、
「私は富北という者です。普段は遠くの街で理学などをやっておるのですが。暇が募って耳に挟んだ評判のお屋敷を見てみたくなりましてな」
「評判のお屋敷、ですか」
「『人形屋敷』と世間では呼んでいますよ」
 その道の世間では、ですが。そう朱玄の言葉に返したのはいつの間にか座卓を離れ部屋の中心に背を向けて立っていたもう一人の先客だった。濃青の羽織を着、こちらは歳は三十ごろと見える。痩せた顔を振り向かせて男は続けた。
「偶然にここに来たというならなんとも幸運ですね。どうです。素晴らしいと思いませんか。この人形たちは」
 恍惚とした口調で言いながら、今まで見入っていたらしい壁に並ぶ人形たちを示す。中性的な顔の人形たちが何事かを語り始めようとするかのごとく薄く口を開き、目を空に据えて音もなく佇んでいる。清介は首を振ることも頷くことも出来ず、視線をずらして曖昧な返事を口の中で唱えた。
 痩せた男は古賀という名の街商人で、こざっぱりとした身なりを見るとなかなかに大きな門の店を構えているように思われた。聞けば富北と同じくこの屋敷を遠くから訪ねてきたらしい。着いたのは古賀を先にして二人とも今日のことであるようだ。
 道を外れた森の中にひとつひそりと建つ家。変わり者と呼び声高い主人が集めた百とも二百ともいう人形で溢れているとは好事家たちの風の噂、いつしか付いた渾名が「人形屋敷」。
 私も驚きましたよ。学者が言う。
「なにしろこの数にこの揃えですからな。古いからくり仕掛けの物まで全てとても良く手入れをされている。非常に価値がある物ですよ――
 やり取りが一通り済んだ所で、すっと廊下に続く戸が開いた。主人が来たかと顔を向ける清介を見舞ったのは慣れぬ三度目の驚きである。引き戸の口にあったのは、先の主人ではなく、若い女の姿だった。
 赤地に金糸で紋様の入った小袖に長く飾り気ない黒髪をすらと垂らし、一見にその細やかさを連想させる肌理の白くか細い両の手に椀の載った盆を抱えている。伏せがちにした目に長い睫毛が際立って見える。
 女はひどくゆったりとした動きでひとつ礼をし、座卓の横に膝を付いて盆の上の夕餉を並べ始めた。すると今度はその後から、こちらも盆を持った主人が姿を見せた。
「志乃、こちらも頼むよ」
 言われるまま主人の盆の上の皿を下ろしていく女の顔はあれほど感慨を得た主人のそれに劣らず見惚れるまでに美しい。だが一つ大きく違うのは、その表情の色。
 卓の上を全て整えて立ち上がり、二つ目の礼をして部屋を去るまで、終始唇を結んだ同じ顔。主人の表情が品良い極彩色ならば、女は潔いまでの無色。
 一同が呆気に取られていると、残った主人が小さく頭を下げ、
「どうも愛想の無いようで……実は以前に声をなくしてしまいまして、その頃から」
 そう説明する。それはお気の毒に、と学者。
「ええ、私もあの美しい声をまた聞きたいものなのですが」
「さぞ良いお声でしたのでしょうな。見目も大層麗しくていらっしゃる。いや、勿体ない」
「そう仰って頂けると志乃にも幸いです」
 主人は言う。清介も富北と、のみならずおそらく他の三人皆と同様に気の毒に思ったが、同時にどこか違和の念をも感じた。あまりにも整った女の顔に、声の無きを自然と思う己の心を感じた。
「どうぞごゆるりと。広いばかりの家ですので、お客様がいらしたほうが賑やかで安心致します」
 そう残して足を返そうとする主人に、古賀が声をかけた。
「ここの人形は、全てご主人が集めたので?」
「ええ」
「素晴らしい物ばかりです。いかに持ち主が彼らを愛しているか伝わってきますよ。どれも、まるで本当に生きているようにすら思える」
 意気こもった賞賛に主人は有難いお言葉です、と一礼し、
「真に仰る通りです。人形たちは、こちらが愛せば愛した分だけ必ず応えてくれますからね」
 ――本物の人と違って。
 詠ずるように言って紅い唇に浮かべた笑みは、背に震えを呼ぶほど鮮やかだった。


 ぴしゃ、ぴしゃり。
 清介が目を覚ますとまだ部屋は暗闇の中だった。
 ぼけた頭が何か水音のようなものを聞いたように思うが、寝床の中で耳を澄ませても風の音すら届いてこない。代わりに認めたのは横の壁に佇む人姿で、清介は思わずがばりと上体を跳ね起こし、だがすぐに今の状況を思い返して深く息をついた。
 案内された客用の寝間にも客間ほどの数ではないものの人形が並んでいたことに、少しばかり嫌気を覚えたのは事実である。自分は金持ちのように人形を愛でるような趣向は持たぬし、学士のようにそこに年月の価値を見出すでもない。黒い目が始終目瞬きも無くこちらを見ているかと思うとただ寝苦しさを感じるだけだ。先に聞いた何気ない古賀の言葉がそれをさらに募らせ、もしこの人形たちが本当に命を持っていたらと不気味の念に襲われる。 
 一度そうと見れば布団に身を潜らせても人形たちの目を感じ、とても寝られるものではない。冴えてしまった頭もあってどうにも堪らず清介は障子を引き開けて廊下へ出た。雨戸は開いており、風は無いが薄い夜着に梅雨を前にした空気がやや冷たい。
 広い庭。景色の違いに離れた家と家族を想う。
「生身の人間のほうがよほど良いじゃないか。人形が命を持つなんて……馬鹿馬鹿しい」
 己に言い聞かせるように口に出せば、

「ソウ思ウノカ?」

 まるで予想だにせぬ闇の中からの返事に清介は身体を凍りつかせた。その声に記憶が追いつくのがあと少し遅れれば、恥も忘れて悲鳴を上げていたことだろう。
 ばさ、と音がして、夜と同じ羽色をした鳥が清介の足元に現れる。続いて嗄れ声。
「人間ハ己ノ目デ見タモノシカ信ジヨウトセヌカラナ。我ガイツ主ヲ離レタカモ判ラヌダロウ、商人」
「あ……」
 そう言われて初めてこの口悪い鴉の姿が消えていたこと気付く。さらに思い至るのは道での法師との話である。噂に過ぎぬとも、「物の怪」の出るという場所で無用心に表に出るとは。まさに返す言葉が無かった。
 ぼうとしていると、ふん、と鴉が鼻を鳴らした。
「我ハ人ヲ喰ウヨウナ下賎ナ妖シ(アヤカシ)トハ違ウゾ。穢レタ血肉デ人間ジミテハ堪ラヌ。座レ」
 言われるまま板廊下のふちに足をかけて腰を下ろす。語り鴉はそれを確かめてから両足で跳んで清介の腰の隣に身を据え、嘴を開いた。
「人間ノ道楽ナド我ニハドウデモ良イ事ダ。ダガ先ノ言葉、馬鹿馬鹿シイトハ言イ切レヌ。元々人形ナドトイウ物ハ全テ形代デアッタノダカラナ」
「かたしろ……?」
 滑り出した耳馴染まぬ言葉に首を傾げる。
「ソウトモ。実ヲ近クニシナガラ己ノ要スルトコロノミヲ見テ真ヲ知ラズ、気取ッテ利イタ口ヲ聞ク。全ク滑稽デハナイカ?」
 先の客間での会話のことを言っているのであろうか、嘴に笑いの形が見える。どこに身を置いていたにしろ目も耳もよほどに鋭くできているらしい鴉に言葉を返そうとした一瞬、
「清介さん、まだ起きていらしたのですか?」
 横合いから静かな声がし、振り向くと袈裟を外した法衣姿の朱玄が小さく板床を鳴らしてこちらに歩いてくるのが見えた。
 視界に入る前からその存在に気付いていたのだろう、法師は清介の隣に立ち、頭越しに声を投げた。
「廊下から声がすると思ったら。緋津、庭で大人しくしているよう言ったろう。お前はすぐに人を怖がらせるんだから」
「我ハ驚カセテイルツモリハ無イゾ。人間ドモガ勝手ニ怯エル」
「それをわかってやっているのだから、なおさら質が悪いと言うのだよ。清介さん、どうもすみません」
 頭を下げられ、清介はいいえ、と首を振る。驚いたのは確かだが、一瞬の感情よりも中断した会話が気にかかった。
「人形の話を聞いていまして。……あの、形代とは何なのでしょうか」
 それは聞き覚えのない言葉ではなかった。いつどこで耳にしたのだろうか。まるで判然としない。形にはならず、その響きだけがどこか頭の隅に漂っているようだ。
「形代、ですか」
「人形は元々形代であったと……」
 朱玄はちらと供の鴉に目をやってから気付いたように頷き、
「形代とは、古くから儀式や呪い(まじない)の手段として用いられた道具のことです。神霊や人の姿を模して作り、祈願をしたり厄を代わらせたりするのですよ」
 そう説明した。
「それが今あるような人形になったということですか?」
「そうですね。全てとは言い切れないかもしれませんが」
 この屋敷の中にも、何か思い責を負って作られた人形があるのだろうか。既にその役目を果たし、今はただ目を開いて静かに眠る――
「人形が命や心を持つなど、あることなのでしょうか」
 朱玄に向けていた顔を夜の庭に戻し、呟くように先と同じ問いを発した。しばし沈黙を流したのち、人形に限らず、と朱玄が口を開く。
「絵など、人間の姿をしたものには霊や念が憑きやすいと言われています。だからこそ呪いなどに用いられたわけですが……人に近くあり強い念を受ければ、付喪として動き心を持つようなことも在りうるかもしれません」
「そうですか」
 非とも是ともつかぬ言葉ではあったが、ひとつの答えを知ったということに胸が多少の落ち着きを得た。見えぬのならば人は無理にも事を信ずるほかない。例えそれが真でなかったとしてもだ。
 もう遅いからと促され、挨拶もそこそこに部屋に戻る。壁には目を置かず、顔を布団に押し付けているうちに眠りに落ちた。
 水音は聞かなかった。

           ◇

 眠りが足りなかったか起ききらぬ目をこすりながら客間の戸を開いて足を踏み出すと、どん、と軽い衝撃の後、清介の足元に盆が音を立てて転がった。驚いて前を見ると鮮やかな朱の着物に黒髪を流した女――志乃が、色のない表情で立っているのと目が合った。
「すみません」
 慌てて落ちた盆を拾おうと腰をかがめると、
「気を付けなさい」
 声と共に横からすいと手が伸び、清介より先に盆を床から取り上げる。その動きを辿って顔を上げる清介に白い手の主の屋敷の主人がおはようございます、と挨拶を寄越した。
「あ、はい」
 思わず気の抜けた声を返す。主人は志乃の手を取って盆を握らせ、愛しげに髪を梳いてから穏やかな声で下がるよう言った。女は頷き、辞儀をして廊下に出て行った。
「丁度皆さんを呼びに行こうと思っていたところなのですよ」
 ぼうと朱の着物の背を見送っていた清介に主人が言う。部屋に振り返ると座卓には既に朝飯の支度が出来ていた。
「どうも色々お世話になって」
「いえいえ。まだ川も通れないままだそうですから、どうぞゆっくり泊まっていらして下さい」
「あ、そうなのですか……」
 朝にも発とうと思っていた清介は肩を落とした。橋が直らずとも渡しの船は出るだろうと当てをつけていたが、まだ流れが早く無理だと言う。
 胸の内で息をつきつつ座卓の前に腰を下ろし、ぼんやりと壁に目をやる。変わらず空を見詰める人形たち。
「人形はお好きではないようですね」
 声にはっとして顔を上げると主人の紅い笑みが目に飛び込んだ。いえ、その、と文にならない惑い声が口から漏れる。
「わかりますよ」
 断定の調で言い、するりと足を運んで人形の前に立つ。どうにも情けなく、清介は小さな声で返した。
「はい……私はあまり、風流というものに縁がない人間でして」
 悪いことではありませんよ、と人形の頬を撫でながら主人が言う。ふと思いついて清介は尋ねた。
「あの、先の方……」
「志乃ですか」
「あ、はい。奥方どの……いつからご一緒に?」
 主人が首を傾げる。清介は言葉を付け足し、
「いえ、実は来る前に、お一人で住んでいらっしゃると聞いていたものですから」
 道での会話、伝え聞きではあるが、朱玄は確かに「一人だけで暮らしている」と清介に屋敷の事を話した。ああ、と主人が頷く。
「そうですね。こうして共に暮らすようになってからまだ一年も経たないもので。連れ立って外を歩くこともほとんどありませんし、そう見られているのかもしれませんね」
 食料や生活の道具などは、月に数回日を置いて持ってくるよう近くの街の商人に頼んでいるのだと主人は語る。使用人も屋敷には一人も置いていないらしい。
 広い屋敷に声無き妻とただ二人。とくり、胸に跳ねるものがあった。
「あの」
「はい」
 ぽつりと、問いを落とす。
「お寂しくは、ありませんか?」
 主人が少しばかりの驚きの色を浮かべる。
「その、私は賑やかな暮らしが好きなもので」
 慌てて付け加え、お気に障りましたら申し訳ありません、と頭を下げると、
「いいえ。何より愛しい人形と、何より愛する者と共に暮らしていて……なんの不足を得ることがありましょうか」
 事もなげに返して、ひそり、笑う。そして清介の返事を待たずにでは失礼を、と部屋を出て行った。
 外で主人と誰かが呼び交わすのを聞きながら、清介はひたひたと背を這い登る形のない寒気を感じていた。

 朝の森は陽の落ちた後のそれとまるで違う様相をしている。光を枝の隙間からかすかに地に落とし、中に抱く異様な静けさはしかし胸を斬るようなものではない。法師と並んで歩を進めながら、何故日々に夜などというものが来るのかと清介はぼんやり考える。闇などなければ自分は床に入るのも惜しんで家へと道を急ぐのに。
 朝食を終えて所在なく庭を歩いていると、笠に錫杖の旅姿をした朱玄に会った。
 清介と道を逆に歩いていた法師には川の様子も関係がないはずである。発つのかと問えば、
「ご主人に聞いた近くの村を訪ねてみるつもりです。物の怪のことを聞きたいと思いまして。夕方にはこちらに戻りますよ」
 ご主人もいいと仰って下さっていますし、宿の面倒をふた所でかけるのは迷惑ですから、と言う。
「そうですか。――あの」
「はい」
「あの……私も、ご一緒させて頂けませんでしょうか」
 己をしても思いがけずに出た言葉と言っていい。物の怪に興を――それがいかなる形の興かということはさて置き――引かれたというのも嘘ではないが、おそらく、自分はあの屋敷で一人夜を待つのを拒んだのだ。
 突然の申し出に朱玄は意外を顔に出して一度言葉を確かめたが、清介が頷くとさほど逡巡もなしに応諾した。語り鴉は何も言わずに主の肩上から清介の顔を見ていた。

 半刻ほど歩いて小さな村に辿り着くと、人を探してものを尋ねるまでもなく、反対に村人たちに周りを取り囲まれることとなった。
「法師さま、ゆうべ化け物が出て人が食い殺されたんです」
 口々に飛ぶ言葉に思わず顔を見合わせる。なおも怪事を訴えられて身動き出来ずにいると、後から来た小柄な老人が人を払い、二人の前に進み出てきた。礼をし、口を開く。
「よくおいで下さいましたの。私はここの村長(むらおさ)でございます。法師さま、お聞きになった通りでしてな、どうかご助力願いたいのでして……」
「ええ、私もそのつもりでここに」
 朱玄が返すと村長はまたひとつ頭を下げ、こちらに、と歩き出す。曲がった背を追って二人が案内されたのは村の外れ、ちょうど木々が切れる森との境であった。
 先に異臭を感じ、一瞬後目が捉えた情景に、清介はう、と耐えかねた声を漏らした。
 地面に溜まりを作るいっそ見事なほどの赤。中に散るのは商売ものと思しき櫛やかんざしなど種々の装具と、ずたずたに裂かれ柄も判ぜられぬ着物と、元を失くしながらなお指を立て、地面にすがる人の腕。
 袂で口を覆い、胃の腑から込み上げるものを懸命にこらえる。目も足もそらせず、いっそ気を飛ばせば楽だろうかとどこか遠くの頭で思う。
 しゃらりと錫杖を鳴らし、墨染めの衣の法師が前に進み出る。血溜まりの横合いに膝と指をつき、肩の鴉と何事か囁き交わしたように見えたがそれも一瞬、すぐに立ち上がって村長に声をかけた。
「村の方では?」
「ええ、違います。村の者はみな障りありませんでの、旅商いの方かと思いますが」
「村に泊まっていらしたとか、そういうわけでもないので?」
「ええ」
 やり取りにおぞ気を覚えた。己と全く同じ立場ではないか。ゆうべあのまま歩いていれば、こうなっていたのは自分であったのかもしれない。
「気の毒に氏素性がわからないのでは整った弔いも出来ませんが……ともかくお浄め致しましょう。清介さん」
 突然呼びかけられて声を返そうとするが、口が動かなかった。それに気付いてか気付かないでか朱玄は言葉を進める。
「あちらで待っていらしてください。長どのも。後でまたお話を伺います」
 村長が頷いて歩き出す。と、
 ばさり。
 いつの間に飛んでいたのか、やにわに鴉の足が清介の肩を掴み、耳元でひとつ人のものではない鳴き声がする。
「うわっ」
「ドウニモ人間トハ弱イナ。アレシキデ血ニ当テラレルナ」
 言われ、わけのわからぬまま歩き出して十歩、やっと体が軽くなっているのに気付いて肩に目を向けたが、黒い翼の霊鳥は何も知らぬと言った風に目蓋を閉じていた。

 物の怪が出るようになったのはそれほどに昔の話ではなく、ここ何月かの内だと言う。
「化け物を見た村の者の話もはっきり致しませんでな。大きかったと言えば小さいという者もいる、獣のようであったと言えばいや違うという者もいる……一体どのようにしたものかと困っておりまして」
「村にも物の怪に襲われた方が?」
 村長は問いに眉を寄せ、
「ええ、何人かの弔いを出しましたが……しかし大抵は、どうも旅の方のようで。出る時間も出る場所も色々で、村の外には注意もなかなか行き届きませぬし」
「それは妙なことも」
 霊や妖しの大方は出る場所や時間が狭く決まっているのだと朱玄が語る。
「それでは退治もままなりませんね……。ともかく村をお祓いして、護法を用いて物の怪が易く立ち入れないように致しましょう」
 気休めにしかならず申し訳ございませんが、という朱玄に村長が深く頭を下げる。早速と立ち上がると、
「ところで、法師さま方は宿はお有りなので? もし宜しければ用意致しますが」
 問われ、朱玄が返す。
「いえ、近くに泊めて頂いておりますので。ここから南へ行った所の大きなお屋敷なのですが、ご存じでしょうか」
「ええ。この辺りでは有名なお屋敷ですな。色々な話も聞きますが」
「どんな、話を?」
 含みのある言葉に思わず口を挟む。村長は清介に見直って鷹揚に頷き、
「私も何度かお見かけしたことがありますがの、大層お綺麗な顔に、あの通りの風変わりですからなあ。代々の土地主であったのを家を継いだ時に全て手放して、興を持つのは人形ばかりとか。口さがない者には、人形に魅入られているだの、とり憑かれているだのと噂するのもおりますよ」
「人形に……」
 一瞬、物言わぬ人形たちの無数の目と、白い顔に貼られた紅い笑みを思い出し、清介は強く頭を振った。

 護法の印を村を巡る木の肌に刻み札を置いて、今日のところはと二人は村を辞した。
「やはり、物の怪だったのですか」
 屋敷への道を戻りながら問いかける。菅笠の下何やら考え込むような顔をしていた法師はやや間を置いてから、
「ええ……どうもはっきりとは致しませんね。長どのが仰っていたことも気にかかりますし、何よりあの場には霊や妖しのいたような気配はありませんでした」
 気の荒い獣の類であるかもしれません、と言うが、語る朱玄自身もその言葉に大きく信を置いているわけではないようだった。ただの獣があのようなことを、人の目にも触れずにするとは考えがたい。
 定まらない物の怪の姿を追いつつも、その影はやがて変容し、清介の思考は最後に聞いた村長の言葉と今己の足が向いているところの人形で溢れた大屋敷に辿り着く。
「あのお屋敷は、一体なんなのでしょう」
 問いかけるでもなく道にぽつりと言葉を落とす。
 壁に佇む沈黙の人形たち。それを愛でてひっそりと暮らす、恐ろしささえ感じさせる美しさを持った主人。そしてその主人にも劣らず整った、しかし色浮かばぬ顔の女。
「人形を何より愛しいと思っていると……村長どのもご主人もそのように言われました。人への想いを退けるような事も仰いました。しかし、御主人が最も愛していらっしゃるのは、人形よりもあの奥方どののように、私には見えます」

 立ち並ぶ二人の姿は恋劇の舞台のように映る。鮮やかな着物姿に涼やかな顔。何を間に差し挟むことも敵わぬような互いが互いに似つかわしい男女。

「それは、矛盾の言ではないでしょうか」

 しかしその睦まじさはどこか霞んで現に遠く、微笑ましいと目を細めるよりは、むしろ、むしろ。

「もし矛盾で、ないのだとしたら」

 むしろ――

 富北たちが賞賛した女の容貌を、しかし清介は素直に美しいと語ることが出来なかった。並べて想うのは家に待つ我が妻。器量こそ十人並みと言えるかもしれないが、絶えず浮かべる光の差すような笑みを清介は何よりも愛しいと感じた。それは確かに人としての何よりの美しさであり、代えがたい喜びの顕れであるように思われた。
 志乃は美しい。それは間違いない。だがそれは清介が我が妻に見るような内よりにじみ出る暖かい美しさではなく、既にそこにある華奢で尖ったか弱いとも言える美しさだ。顔も姿も誰より整っている。まるで造られたものであるかのように。
「法師さま、ゆうべのお話なのですが」
「はい」
「霊が憑いた人形や人の強い念を受けた人形なら、動き心を持つようなこともあるかもしれないと……しかしもしそうであったとしても、それは人形自身が命を持ち生きているとは、言えないのではないでしょうか」
 人形を動かすのが人の念であり霊であると言うのなら、それは人形そのものではなく人形の身を借りた人だ。自ら持った命ではなく、与えられた命だ。
――そうですね」
 おそらくは昨夜に語ったときからわかっていたのだろう、朱玄は他に言葉を返さずすぐ頷いた。
「私には信じられません。人形が命を持ち、生きるなどと」
 ああ、だのに。
 だのにあの女の姿は、あまりにも整い過ぎている。
「そのようなことが……あるのでしょうか」
 三度目の同じ問い。
 夕暮れを映す銅の輪錫が規則正しく揺られ、沈黙にしゃらり、しゃらりとひとつの律を流す。変わらぬ穏やかな調で法師は口を開いた。
「この世において何かひとつを言い切ることなど、本当は出来ないのかもしれません。こうして旅に身を置いていてもなお、知ることも知らぬことも尽きることなくある。人がいつまでも足ることなく渇きの中に生き、日々ものを求め、そして得ても、一体この広き世の何を知っていると言えるのか」
 所詮限りある命の身。やがてはついえ、また輪廻の道を巡る業――平曲に乗せる読誦のように緩やかな声が紡がれる。
「それでもなお人はその歩みを止めることが出来ない……行く道の先に何があり、何が無いのか霧の中にかすかに見い出しながら、尽きない飢えと渇きを抱いている。そのような存在が、果たして揺るぎない真理に辿り着けましょうか」
 蕩々(とうとう)と言葉を流すを見詰める清介の呆けた顔に気付いてか、そこまで言って法師は苦笑し、
「話がそれてしまいましたね。白状してしまえば、物の怪にしろ人形にしろ、結局は実を見なければしかとわからないということです」
 と結んだ。
「どうもお役に立てませんで」
「そのような……ただ私が勝手に気にしているだけですから」
 詰めていた息をつく。何もかもが異質なものに感じ、進まぬ旅の焦りもあって、過敏にものを考えていないとは言えない。しかし思考を止めれば想いはただ懐かしい家と妻子に行き着くよりなく胸を掴み絞める。木々の間に狭い空も足の下の地も間違いなく我が想いの先に通じているというのに、いざ向き合えば何よりもその道程が遠いように思えた。
 そしてまた、考えは巡る。
 俯く清介に深くは語らずあまり考え過ぎるのも疲れてしまいますよと諌言を置いてから、すうと先の思案顔に戻り、朱玄は言った。
「確かに――奇妙なお屋敷ではありますが」
 しゃらり、錫杖が鳴った。

           ◇

「あ……古賀さん」
 寝間に向かう廊下の途中、清介は痩身の街商人とすれ違った。
 古賀は頭を軽く下げて横に立ち止まり、
「お早いですね」
 そう言った。
 特別に揶揄を含めた言葉でもなかろうが、朝を焦がれ、夜闇を眠りで遮ろうという今の清介の胸には後ろめたくも響く。あ、はい、と歯切れの悪い声を返して、それきり話の接ぎ穂を探すに窮した。元々古賀とは同じ部屋にあってもそれほど言葉を交わしていたわけではない。穏やかな性の朱玄や富北を相手に取れば格の違う生業の者とて世間話も気楽に口に乗るが、古賀の持つ雰囲気や興趣は自分のような教養のない俗な人間には冷たくまた典雅に過ぎた。
 頭を巡らせているうちに古賀の方が淡々と言葉を続ける。
「私は寝るのが惜しくてね。どうせ床に入っていても外が気になって寝付けないからふらふらとしていますよ。本当に大変な数の人形ですから。蔵の中まで見残しがないようにしていきたいもので……」
 話が音のまま通り過ぎていく。言葉ひとつで耳が塞がったようになるのだから全く自分の小心も大したものと、気付けば終わっていた会話の締めに息を落とした。
 人形。通り過ぎた古賀の足音を背に立ち尽くしたまま考える。
 あの木造りの擬人の何がそれほどに人の心を惹くのだろう。一様の顔に一様の華美な服。愛を伝えても応えが返らぬならば、それは骸と同じではないか。命がないのならば、何が、何がそれほどに……



 ぴしゃ、ぴしゃり。ぴしゃり。
 音を聞いてから目覚めたのか、目覚めてから音を聞いたのか、それは判然としないが、それ自体を寝ぼけた頭のためとするには今度の水音はいささか鮮明に耳に響いた。
 それきり絶えて元を辿るには遠すぎる音に、しかし半ば引き摺られるようにして床を抜け、廊下の戸を開ける。踏み出す前に何気なく首を横に向け、息を飲んだ。
 板をかすかにも鳴らさず、白い人姿が緩慢に、滑るように歩いてくる。志乃だった。精白の夜着に黒髪を揺らし、顔を伏せがちにして、目に入らぬわけではないだろう清介の体の前を、運ぶ足の他はひとつの動きもなくふらりと通り過ぎる。直後、
 と、とん。
 板に何かが転がる音。
「あ、何か落ちまし……」
 言いながら廊下へ出た清介の目に映ったのは、薄い月明かりに照る丸い物体。
「ひっ……」
 人間の眼球だった。

 咄嗟に目を覆う。前で女が立ち止まり、振り返る気配がする。衣擦れの音低く細い手が伸び、ひたり、顔の前で止まる気配が―― 。
 その状態のままいくらの静寂が過ぎたものか、腕の力をなくす形で袂を顔から外した清介の前にはただ夜気を抱く廊下と、清介の足の他は何もその上に載せぬ板張りの床が広がるばかりであった。
 胸の音が騒がしい。現であったのか幻であったのか、目に映らぬものを信ずるよりは、否とするほうが難いと知る。ひとつ確かに言えることには、夢ではない。
 がさりと音。庭を向く。垣沿いに植えられた潅木が揺れ動いている。
 がさり。がさり。
「あ……」
 近付く音に一歩足を下げる。しかしそれはただ身の倒れるを止めるものでしかなく、進むも下がるも出来ず目は闇の中に串刺されたままに、音は一際高く。
 がさ。がさり。
 胸に詰めた息が喉で叫びに転じかけた瞬間、
「清介さん」
 目に飛び込む、闇より鮮やかな黒。途端身が崩れるのを伸びてきた腕に何とか支えられ、二日前に道で出会った時にもこのようなことをしていたと、場にそぐわぬことを思い出した。
 足をどうにか立たせ、今夜は肩上にいる供の鴉が廊下の声を聞きつけたと言う法師に、すみません、と頭を下げる。
「どうされたのですか?」
「あの木の陰に、何か……」
 庭を指し示す。いつの間にか音も木の揺れもやんだ空間に夜だけがうずくまっている。
「緋津」
 呼び掛けに頷きひとつ、霊鳥が肩から高木の枝に飛ぶ。少しの間を置いて、闇に溶けた嘴から嗄れ声が返った。
「主。犬ノ紛イ物ダ」
「紛い物?」
「見レバ判ル」
 言ったきり他に語らない。清介さんはここに、と言葉を置いて朱玄は裸足のまま庭に降り立ち、早足で潅木に向かった。鴉が肩に戻り、囁き示すのが清介からもかろうじて見て取れる。
 木の根元を覗き込んで腰をかがめ、こちらへ向き直る法師の手に何か抱えられている。近付く影に目をこらすと角張った動物のような形が薄灯りの中に浮かんで見えた。
「それは」
「からくり人形のようですね。人形と呼ぶのは妙ですが。犬、でしょうか」
 濃茶色の毛皮に包まれた箱状の体に、なるほどからくり仕掛けの剥き出しになった四肢が生えている。木造りの型に不自然を感じぬ見事な出来だ。
「お恥ずかしい。こんな物に怯えるなんて……」
「いえ、物の怪がいるいないと気にしている所にあれば仕様のないことですよ。あまりお気になさらず」
 朱玄は言う。清介が恐怖を覚えたのはこれのためだけではないが、廊下での不可解な出来事については自分の過度な緊張が生んだ幻でないとも言い切れず、また言葉にもし明確な答えが返ればと思うとそれを聞くのが恐ろしくもあり、躊躇いのまま口には乗せなかった。
「このお屋敷の物でしょうか。ご主人に?」
 尋ねると法師は考える素振りをし、
「いえ、戻しておきましょう」
 言いつつ懐から何か札のようなものを取り出して手早く犬の腹部に取り付ける。足を返して潅木に戻る背が小さく呟く。
「何か……気にかかります」
 閉じた犬の口の中には牙が並んでいるのだろうと、清介はぼんやりとしかし全く決め付けて思った。


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