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          ◇

 男が去って暫くの間、三人は無言のまま座っていた。ふと赤沼がかちかちというかすかな音に気付いたのは、どれほど経った時であろうか。
 部屋を見回す。乃木は障子近くに部屋に背を向けたまま座っている。音は佐々野の方から聞こえていた。歯鳴りの音だった。
「佐々野、寒いなら火に寄れよ」
 佐々野が膝に伏せていた顔を起こす。赤沼はぎょっとした。
「お前具合が悪いんじゃねえのか」
 佐々野の顔は蒼白を通り越して、もはや土気色を帯びていた。
「違う、寒いんじゃ……」
「どうしたんだよ」
 尋ねてはみたが、佐々野の震えが脅えから来ているものだということは傍目にもわかった。佐々野は視線をやたらに上げ下げしながら、か細い声で言った。
「化物だよ」
「お前なあ」
 乃木が座った姿勢のままうんざりとした顔で振り向く。だが佐々野は怯むことなく――と言うよりは反応を返す余裕も無い様子で、言葉を続けた。
「俺、聞いたんだ。気味の悪い、ずるずる何かでかい生き物が這うような音」
 本当だ、空耳なんかじゃない。赤沼と乃木が怪訝な顔をしたのに佐々野は慌てて付け加えた。
「聞かなかったのかよ。あの便所に行く廊下から見えた部屋、障子の隙間から確かに聞こえたんだ」
「聞いてねえよ。あそこで聞こえたのは外の音と自分の」
 そこまで言って、乃木は何か気に障ることでも思い出したように一瞬眉を寄せ、下唇を噛み潰した。
――自分の足音だけだ」
 ちっと舌打ちをする。その間赤沼は佐々野の言葉を反復していた。何かが引っかかる。自分の記憶を辿り、その中の映像と佐々野の言葉が作った映像を重ねてみる。ぴたりと一致するはずのそれは、一部分に奇妙な歪みを生み出した。

 隙間?

「隙間って、どういうことだ」
「す、隙間だよ。障子がほんの少しだけ開いてたじゃないか」
「俺は隙間なんて見てねえ」
 自分の言った言葉で頭がすうと冴える。そう、確かに。
「部屋の障子は全部きちんと閉まってた」
 佐々野は目を見開いた。開いた唇が震えている。
「嘘だ」
「嘘じゃねぇよ」
 答えたのは乃木だった。
「俺が最初に行った時も障子は閉まってたぜ。さっき柴原の様子を見に行った時もな」
「絶対に開いてたんだよ。行きも帰りもほんの十センチぐらい――帰りに閉めようと思ったらあの音が聞こえた。ずるずる、ずるずる……」
 肩を抱いて、佐々野は顔を俯かせた。だから、俺は閉めなかったんだ。うめきにも似た声が漏れ、沈黙が落ちた。
 あの男が開けたのか。そうとしか考えられない。だが、何のために? 佐々野が閉めていないのなら、入れ違いで立った柴原が閉めたのか? ならその柴原はどこへ行った? それともこの屋敷には何か得体の知れないものが飼われているとでもいうのか。
「けっ、とんだボロ屋敷だぜ。訳のわからねぇことばっか起きやがる」
 乃木がこぼす。全くその通りだった。

「確かめに行く」
 唐突に乃木が立ち上がった。
「戸が開いてたの開いてなかったの、そんな細かいことはどうでもいい。実際に見てみればいいだろ」
「でも、もし」
「化物がいたら? ならどっちにしろこの家にいる限り化物と一つ屋根の下にいることは変わりねぇんだぞ。じっと脅えて待ってるのか? あの男にからかわれながら。俺は、ごめんだ」
 苛々と指で足の付け根を叩きながら言う。そして視線を赤沼の方へ寄越した。色々な考えが頭を巡ったが、熟考までには至らなかった。
「……わかった。俺も行く」
 結局のところ、自分もこの家に嫌気がさしていたのだろう。
 投げ出してあったショルダーバッグから重い荷物を手に取り出す。おそらく乃木も既に持っているはずだが、なるべくなら世話になりたくなかった。
「佐々野、行くぞ」
 呼びかけられ、佐々野はあからさまな戸惑いを見せた。だが一人になるよりはましと判断したのだろうか、肩を落としてすぐに頷いた。

「あの男――
 そろそろと先頭で床に足を滑らせながら、乃木がぽつりと言った。
「あの部屋は雨が入って畳が腐ってるとか言ってやがった」
「前を通った時か?」
「ああ」
「牽制のつもりで言ったのかもな」
「わからねぇ。どっちにしろふざけてやがる」
 ぎ、ぎい。床鳴りの音に乃木はいちいち顔をしかめている。板が薄いのか、どんなにそっと歩いても切れ切れの悲鳴のような音が上がる。
「お前、自分の足音と勘違いしたんじゃねぇのか」
「違う。全然違う音だった」
 佐々野が声を返したのと乃木が足を止めたのとはほとんど同時だった。閉められた障子戸。中に何かがいるような気配は感じられない。
 両開きの障子の右に乃木、左に赤沼と佐々野が立つ。頷きを交わし、一瞬の沈黙を挟んで両側から一気に戸を開け放った。かん、と木がぶつかり合う音が薄暗い廊下に響いた。
 部屋は空だった。
 六畳ほどの狭い和室。隅に申し訳程度の家具――古ぼけた小箪笥(こだんす)と鏡台――が備えてある。鏡台には何か紙の切れ端のような物が乗っている。男の言葉は嘘ではなかったらしい。畳は所々に大きく床板が見えるほど腐り溶け剥げ、上に大量の泥が散っていた。ひでぇな。呆気に取られた声で乃木がこぼす。
「あっちにも部屋があるみたいだ」
 そう言って佐々野が指差す三人の正面、玄関から見た場合の家の左方向に閉じた襖がある。つまり今三人の立つ廊下を通らなくともこの部屋には入ることが出来るというわけだ。
「やっぱりあの男がやったんじゃねぇか」
 乃木の言葉に佐々野は力なく俯いた。だけどさ、呟いた言葉はそれ以上続かなかった。
 赤沼は構えたまま床板の露出した部分を選んで部屋に足を踏み入れ、伸ばした手で鏡台の上の紙切れを取り上げた。憶えのある感触。ひどく薄い。へたりと向こう側に倒れこんだ紙をもう片方の手で起こし、廊下の灯りの方へ出して目を落とす。
 手が震えた。

「なんだよ」
 尋ねる乃木の顔の前に無言で差し出す。
 それは新聞の切り抜きだった。いや、切り抜きと言うよりは破り抜きと言った方が相応しいような状態で、すっかり皺になってはいるが、内容はすぐにわかる。紙の中心を突き通すように印刷された太ゴシック体の活字。

 早朝に現金強奪 輸送車襲われる

 簡潔な事件の見出し。だが三人の目を奪ったのはその文字ではなかった。
 見出しに続いて並ぶ事件の詳細を述べる細かい文字。現場を描いた模式図。そして見出しの隣に、下に「カメラが捕らえた犯人グループ」というキャプションが付いた大判の写真。
 鮮明に捉えられた柴原の顔。

「……嘘だろ」
 呆然と佐々野が言う。
「いつだ、いつ撮られた? あの時は上手くいってた。監視カメラも全部チェックした。何も、何もしくじってはいねぇはずだ!」
 紙を握り潰し、乃木が叫ぶ。
「街頭のカメラだ。監視用のじゃない。そうだ、前日に天気の都合で急に変更になったんだ。ライブの――
 一呼吸つき、額に手を当てて赤沼はゆっくりと言葉を紡いだ。
「ネット中継用のやつが動いてたんだ」
 足の下で何かががらがらと崩れていくような音が聞こえた。

 新聞は今日の朝刊。全国紙だ。
 内容は事件の概要、そして犯人グループの逃走したと目される方面――つまりはこの周辺の地名――まで詳細に記されている。
 もちろん今日のうちに事件が大々的に報道されるであろうことはわかっていた。だからこそ足跡が残らないように慎重を期したのだ。ぬかりはない。上手くいくはずだった。ただ少し終わり方が曲がっただけだと思っていた。それがどうだ、実際は最初からミスを犯していたのだ。しかもこれ程までに致命的なミスを。
 厄日だ。全く厄日だ。
 体がわななく。声も出ない。
 思考は泥の沼に沈んでいく。
「あいつは、この事件を知ってるってことか。俺達が犯人だってことも」
「じゃあ、やっぱり警察に……」
「いや」
 佐々野の声を遮り、乃木が言う。
「殺すつもりなんじゃねぇのか。俺達が全員いなくなれば金は奴のもんだ」
 それはまさに、赤沼の考えと同じ言葉だった。

「ま、まさか」
「現に柴原はいなくなったんだ! 畜生っ」
 乃木が荒い声を放ったその瞬間、部屋の襖がしゅっ、と開いた。三人の身体は一気に凍りついた。
 和装の男が立っていた。
「何やら騒がしいな。飯が出来た。膳を運ぶから板間へ戻ってくれんかね。そんな泥部屋にいても仕様がないだろう」
 変わらぬ調子の声。逆光になって顔ははっきりとは見えないが、おそらく変わらぬ様子の表情を浮かべているのだろう。
「毒入りの飯か?」
 乃木が吐き出すように言う。
 少し間を置いて、くつりくつり、場にそぐわぬ笑いが男の口から漏れた。
「ほ、ほ。何を疑っているのかは知らんが、客の飯の調味に毒など使わんよ。不味い飯を毒だと言うなら、ま、口に合わなければ仕方がないがね」
「ふざけんなっ。柴原はどうしたんだ!」
 男の笑いが止まる。聞こえてきたのは、あの胸をえぐる声。


「還れぬか。一人では――


 その瞬間。
 どん。
 破裂音が響き、着流しの左胸から鮮血が噴き出す。
 こぽ、と口から血を吐き、男の身体はゆっくりと後ろに倒れていった。

「乃木!」
 佐々野が叫ぶ。乃木の構えた拳銃からゆらゆらと白煙が昇っている。
 乃木は憤りと戸惑いとがない交ぜになった表情で、下唇をきつく噛み締めていた。
「なんで、殺したんだ!」
「なんでだと? あいつが俺達を殺そうとしたからに決まってるじゃねぇか!」
 その言葉は真実であり、真実でなかったに違いない。
「だからって! もう、俺達は」
 泣きそうな表情で佐々野は声を張り上げた。

「こんな気味の悪い男じゃなかった。俺達は、何もしてない通りすがりの人間を二人も殺したんだ!」

 構えたままだった乃木の腕がふらりと落ちる。
 ざざあ、ざざあ。
 雨が三人の頭のなかで小振りになっていく。
 ワゴンが道の上にあった頃、まだ雨は降り出したばかりだった。

          ◇

 雨そぼ降る山沿いのアスファルトを照らすハイビーム。道を遮り現れた男の影。挙げた両手をあらん限りに大きく振っている。派手なブレーキ音を立ててワゴンが止まる。男が駆け寄り、フロントガラス越しに切羽詰った声で叫ぶ。お願いです。乗せて下さい。お願いです――

 若い男の顔。濡れた髪が顔に貼り付くのも構わず、開いた助手席側の窓に手をかけて、息を切らしながら早口に言う。
『ああ、すみません。実は乗っていた車のタイヤがパンクして、走れなくなってしまったんです。乗せて下さいませんか。急いでいるんです。早く病院に連れて行かないと……どうか、お願いします。私達を病院まで、すぐ近くの――
 そこまで言って男ははっと口をつぐんだ。その時は車内に積んであったジュラルミンのアタッシュケースを見ての反応かと思ったが、恐らくは助手席に座った柴原の顔を新聞の写真と一致させていたのだろう。
『あ、まさか、君達は……』
 言い終わらないうちに柴原の拳銃――本人があるつてで手に入れたと言う至極手軽な殺人装置――が火を噴いていた。
 赤沼は慌てた。いくら犯行の現場から遠ざかっているとは言え、どんな痕跡を残していくことも許されない。だが男が自分達に気付いたのは事実であり、柴原を責めることも出来なかった。
 そして相談の末、柴原が男の車に乗っていたもう一人を撃ち殺し、二つの死体をビニールシートにくるんで崖下へ放った。泥に埋まった死体はいずれ発見されるだろう。だが目的地へ着けば確実に逃げられる準備は整っていた。時間が稼げればそれで良かった。
 誰も何も言わなかった。間違ってはいない。ああするしかなかったのだとそれぞれが自分に言い聞かせていた。だがもちろん、拳銃は脅しと、万一の時のための物であり、本当に人を殺そうなどとは思っていなかったのだ。それも自分達を頼ってきた病院に向かう二人の人間を。その事は確かに四人の心に大きく影を作った。
 そして、雨が強くなった。
 田舎特有の大きく蛇行した視界の悪い道。当たり前のようにタイヤはスリップし、道端に追いやられた。ガードレールが切れていた。ワゴンは木にぶつかりながら崖を転がり落ちていった。
 金を手に雨の山をどれほど歩いただろう。道の脇に祠(ほこら)があった。老人が立っていた。

 ――道に迷ったのかね。

 四人は操られるように頷いた。

 ――この道をまっすぐ行き、左に折れると山手の側に石段がある。それを上り、家を訪ねなされ。

 今思えば何故その言葉を素直に聞き入れたのか。
 四人はこの家に辿り着いた。

          ◇

 さあ、さあ。
 時計の秒針が一秒一秒時を刻むように、絶え間なく雨と風が家を叩く。
 ただのひと言もなく三人は板間に座り込んでいる。炭櫃のなかの火はもうとうに消えていた。眠気も空腹も限界のところまで来ている。
 赤沼はもう何回確かめたかわからない腕の時計に再び目をやった。四時四十七分。この時期なら日が出るのは六時ごろだろうか。古い家だからか音だけはするが、雨もどうやら小振りになってきているようで、止みそうな気配を見せている。
 朝になればすぐにでもこんな不気味な家からは出て行ける。どこかで車を調達すれば逃げられるはずだ。まだ終わってはいない。
 拳を強く握り締めた、その時だった。

 ズ……ズズ……

 音。
「なんだ……?」
 空耳だと思おうとしたが、乃木が声を上げたことでその考えもすぐに打ち消された。
 かちかち、かちかち。尋常ではない速さで佐々野の歯が震えを立てている。
「佐々野」
 呼び掛ける。
「今の音か?」
 それに佐々野が口を開きかけた時、再び音が聞こえた。

 ズズ……、ズズ、ズ……ズズズ……

 今度ははっきりと耳に伝わった。先程より音が近い。
「どこだ」
 乃木が拳銃を手に赤沼のそばへ駆け寄ってきた。赤沼も銃を構えて身を固め、耳をすませる。
「あ、ああ、あああ、あ」
 言葉にならない声を上げ、壁際で佐々野がふらりと立ち上がる。
「やっぱり、やっぱり化物がいるんだ。この家には。化物が廊下を、廊下を這ってる……」
「佐々野、こっちに来い」

 ズ……、ズ、ズ……ズズ、ズ……

「うあああっ」
 障子に向かって駆け出していく。赤沼は叫ぶ。
「行くなっ! 佐々野、今の音は廊下じゃない。――外からだ!」
 声が最後まで吐き出される前に、佐々野は障子を開け放って外へ飛び出していった。
「うわあああああああっ!」
 雨の中に高々と悲鳴が上がった。

 二人の目に飛び込んできたものは、わずかに見える佐々野の頭を己の身に飲み込んでいく、家の高さほどもある泥の塊だった。
「……マジかよ」
 乃木がうめく。呆然と立つ二人に、ゆっくりと、着実に『泥』は近付いてくる。板間が泥に侵食されていく。
 どん。
 乃木の放った弾丸は、ぼす、と鈍い音を立てて泥の中へ埋まった。
「畜生っ」
「よせ、乃木っ」
 赤沼の制止も聞かず、乃木は前に踏み出て至近距離から銃を撃つ。だが弾は泥の壁にわずかな穴を空けるだけだった。
「動きは鈍い。乃木、逃げるぞ」
「ちっ。わかった」
 乃木が銃を下ろそうとした時、
「なっ」
 泥の中から人間の腕が突き出し、乃木の手首を掴んだ。
 ずぷ、と泥の表面に波紋が出来る。中心からせり出てきたのは人間の顔。
 ワゴンの前に立ちふさがった、あの男の顔だった。

『なんで……』
 男の口が動き、言葉を紡ぐ。地の底から響いてくるような声。
『なんで、私だけでなく、妻も』
 男の顔の横に再び波紋が広がり、
『殺したんですか……』
 今度は女の顔が浮かんだ。
「離せっ、くそ、うああっ」
 次々と突き出てきた四本の腕に捉えられ、乃木の身体が泥の中にめり込んでいく。右腕、肩、胴体、頭。最後に左腕が消えるまで、赤沼はただ立ち尽くしていた。我に帰ったのは泥が自分の方へ動き出した時だ。
「来るな」
 銃を一発放つ。女の右腕に当たった。だらりと垂れた腕はやがて静かに泥の中へ飲み込まれていった。泥の動きが少し鈍くなった。
 こいつらが、本体ってことか?
 意を決して銃を構え直す。銃の扱いなど無論まるで知らないが、的が近い。なおも近付いてくる泥に向けて銃を放っていく。女の左腕、顔。男の右腕、左腕。
 そして最後に顔に向けて。
『あああ』
 男の顔は一瞬苦しげに歪み、すぐに泥の中へ沈んでいった。泥は動きを止めた。足に触れそうな程近くまで来ていた。
 きびすを返し、引き戸へ駆け出す。
 ――はずだった。

「うわっ」
 足に抵抗を受けてたたらを踏む。ゆっくりと顔を振り向かせ、視線を落とす。喉が鳴った。服の裾を、人間の手が――ひどく小さい人間の手が――がっしりと掴んでいた。
 真っ白になった頭の中に、音が響いた。
 胸がえぐられる。心が軋む。

 ひょうひょう、ひょう。ひょうひょう……

 雨の中の映像が脳裏に甦る。
 女を撃った後の柴原の歪んだ顔。三人に死体を見せることなく柴原は手早にそれを崖から突き落とす。
 赤沼の問い掛けに柴原は何でもないと首を振った。それきり何も言わなかった。
 映像が巻き戻る。男が窓枠の向こうで声を上げている。
『どうか、お願いします。私たちを病院まで』
 脳に響くのは、紡がれることのなかった叫び。


『すぐ近くの産婦人科まで連れて行って下さい。お願いです。子供が生まれそうなんです――


「あ……」
 力の抜けた赤沼の足元に小さな赤子の顔が浮かび、くしゃりと笑った。
 ず、と足が冷たい泥の中にめり込んだ。
 行き着くことの出来なかった引き戸が開いた。
 そこにあるはずのない姿。

「取り込み中かね」

 藍絣の単衣に身を包んだ男が、するすると滑るように部屋へ入ってくる。
 徐々に足が泥に飲み込まれていくのを感じながら、赤沼は我が目を信じることが出来なかった。男の左胸は確かに血で赤く染まっていた。
「なんで……生きて……」
「身体が傷付けば血ぐらい流れるとも。三が四にならずに良かったのではないかね」
 ふっと笑う。部屋の中心、ちょうど赤沼と向き合う位置に来たところで足を止めた。
「死んだのが男と女二人だけなら、殺した者だけで去ったかもしれん。だが死してのち生まれた子の為に、許すことが出来なかったようだな」
「な……?」
「怨霊となったところを、こともあろうにというやつだ。『御泥(みどろ)』に遭った。全くややこしいことになったものさ。御泥を還そうにも霊が憑いていては易くいかん。霊を還そうとすればそれを殺した人の客が来る。畳は腐る、衣に穴は空く。さすがにくたびれた」
 男が息をつくと共に、赤沼の身体はいっそう泥に潜った。もはや手も足も動かない。
「お、お前は、こいつの仲間なのか」
 声が揺れる。男が答える。
「いいや。それは客だ」
「きゃ、く……?」
「そうとも。道神の導きでここに来た、神達が探し回っている忌まわしい泥の塊さ。符玲の爺さんよほど俺に面倒を持ち込むのが好きなようでな。二つのことをいっぺんに片付けさせようとする」
 赤沼には男の語る言葉の意味はまるでわからなかった。ただひしひしと感じるのは、男が異質な存在であるという今更の認識と、身を食(は)んでいる冷たい泥の感触。
「厄か」
 ひそり、男が言う。
「降ってわいた厄があるなら、自らがもたらす厄もまたある。要らぬ好奇が戸を開いて泥を雨の中へ放ったように。形無き念が形を成すこととてある。人が死して泥に憑き、恨みからその意思となったように」
 言葉が終わるや、赤沼の頭の横に二つの顔が浮かんだ。
『なんで……』
『なんで……』
 声が混ざり、一つとなる。それは哀しみの言葉だった。
『なんで、私達の子供を……』
 死の香りのする吐息が赤沼の頬にかかった。

「まこと親子の情とは強いものよな」
 男は泥を正面から見据え、ふっと笑う。そしてゆっくりと口を開いた。
「だがここはお前達の居場所ではない。還るがいい。じき夜が明ける」
 静かな、だが耳を打つ声に、二つの顔はとぷんと泥の中へ消えた。
 視界の隅で、泥から何かが吐き出されるのが見えた。かん、と板床に跳ね、男の足元に転がっていく。
 まるで汚れた様子もない、白い笛だった。
「笛をご所望かね」
 取り上げ、手に構える。
 赤沼はどうにか声を出した。己のものとも思えない、掠れた声だった。
「ひとつ、教えてくれ」
「なんだね」
「俺達は、どこに連れて行かれるんだ……」
 男は口を笛に寄せたまま、少し考えてから答えた。

「御泥もその親子も、在るべきところへ。そこから先は――さて、俺は知らぬよ」

 判じ手は俺ではないのでな。通るその声は、男の口が紡いだものなのか、笛が紡いだものなのか。
 答えの出ぬまま赤沼の顔は泥に飲み込まれた。最後に残った手から、ごとりと床に拳銃が落ちた。

 ひょうひょう、ひょう。ひょう、ひょう、ひょう……

 一曲が終わる前に満足したか、泥は崩れ溶け、虚空へと消える。男達の荷も部屋から消えている。笛が口から下ろされると、蓋のなくなった障子の外から白貂が飛び込んできた。
「やれやれ。いつもお前は立て込み事が終わってから来るな」
 くるくると足を回る貂に一つ息を落とす。
 いつの間にやら雨はやみ、今昇ったばかりの陽が草の露に光っている。
 男は手の内の笛をつと我が帯に差し入れた。
「ま、大方の立て込み事というのは一夜のうちに幕を上げ、一夜のうちに幕を下ろすものさ。有難いことに、な。――しかしとんだ一夜語りのお陰で俺は飯を食いはぐれた。てんよ、ちと早いが朝飯にするかね」
 白い貂は傍らの家主の顔を見上げ、ひと声、みゃあ、と鳴いた。

          ○

「鳳(おおとり)、今日は見回りは良いのかね」
「ああ、片がついたからな」

 この日、白笛の家を鳳――山神・鳳儀(ほうぎ)が酒を手に訪れたのは陽が入りかけた頃だった。
「ほ。ついた、か」
「言い直します。つけて頂いた、です。……だからこうして酒を持ってきてやってるだろうが」
「俺は何も言っておらんよ」
 猪口を手にくつりくつりと笑う。鳳儀は横で仏頂面を作った。
「この昨日の文――
「ん?」
 白笛は懐から紙を取り出し、開いて鳳儀へ向けた。
「誰が書いたのかね」
「隣村の河主。どうかしたか」
「字が下手だな」
「全くだ」
「『御泥』と『現れ候』以外はまともに判読できん」
「俺なんか『注意されたし』の部分を百篇ぐらい読み返したぞ」

 御泥。ふとしたはずみに生を得た泥の塊。それ自体は意志を持たぬが、この神威を帯びた泥は時に霊を呼んで身に憑かせる。雨を好み、身に触れたものを飲み込み、やがて消える。
 意志を持たぬものに制止の声は届かない。御泥が生まれれば神々は伝令を飛ばし封じを急ぐ。泥を元の土へ還し、無念からそれに誘われた魂を救う為に。

「ま、結局ここに来たんならこの伝言は必要なかったわけだ」
 山に災いがなくて助かった。くしゃりと伝令の文を握り潰し、しかし言葉とは裏腹、さして満足そうな顔も見せず鳳儀が言う。雨の中飛び回っていたのだろう、神経質な山神の背の翼はだいぶに汚れ跳ねている。
「来られた方は迷惑だがね。畳が腐った。換えるのを手伝えよ」
「わかったわかった。――お前、何くわえてるんだ」
 鳳儀は足元にひょろりと現れた『てん』の口から紙の切れ端を取り上げた。それは食い破られた新聞の一面だった。
 白笛が言う。
「近頃どこかから取ってくるのだよ。知らぬ間に床に散っている。困ったものさ」
「取られる人間の方はそれ以上に困ってるだろうな。どれ」

 現金強奪犯逮捕 殺人にも関与か
 七日未明に起きた現金強奪事件の犯人と見られる四人組が、八日午前七時ごろ、――町の土手で発見・逮捕された。同場所で強奪された現金と共に岡崎吉雄さん(27)・美恵子さん(26)の遺体も発見。県警は二人の死亡に犯人グループが関与しているのではないかと捜査を進めている。県警の報告によれば、犯人グループの四人はいずれも全身に打撲傷を負い、また意識に混乱が見られ、医師や警官の言葉に全く反応が無い状態であり、精神鑑定の必要性も――

 それ以上は千切れて読むことは出来なかった。白笛がふむ、と喉を鳴らす。
「ずいぶんと遠くまで行ったものだ。これが判じか」
「お前、知ってんのかよ」
 鳳儀が声を上げる。
「少し、な。話すのも気が進まんほど面倒な一夜の話だ。さて、そういえば忘れていた。鳳、手を出せ」
 唐突な言葉に首を傾げながらも、鳳儀は右手を差し出した。白笛が袂から取り出した物をその上に落とす。重さを受け止めきれず、手からこぼれて縁側の板にごとりと転がった。
 拳銃だった。
「げ」
「始末を頼む」
 鳳儀は拳銃と胸に小さく穴の空いた白笛の着流しとを見比べ、息をついた。
「何があったか大体予想はつくな。使いに適当なところへ持っていかせておく」
「うむ。――旨い酒だ」
「とっておきのやつだ。感謝しろ」
「名は?」
「『雪待ちの宵』」
「ほ、良いな」
 庭木から舞い落ちる葉も残り少なくなっている。雪もじきだろう。

「なぁ、鳳」
「なんだ」
 絣の穴を指でつまんで空を仰ぎ、白笛は珍しく心底からというような声で言った。



「俺はやはり、暇が性に合っているようだよ」




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 白笛第2弾。もうこんなに人を何人も出すのはやめようと思いました。

イメージイラスト>白飯さんに頂いた白笛&鳳儀

<04/01/04>
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