※読む前に※
 この作品は当サイトの小説『白笛』と同設定のシリーズです。
 この作品単体でも読むのに特に支障はありませんが、先にそちらを読むとより分かり易いかと思います。
一夜語り


 都会と呼ばれる場所から遠く離れた山の中に、霞辺(かすみべ)という名の村がある。
 誰が興したか、いつ名が付いたか、栄の時も衰の時も――果たしてそのような『時』があったかさえ――、記憶に留める者は誰一人としていない村。
 二百年に及ぶ凍結の時代が終わり、国が切り開かれ、大戦の火が消え、形無き夢を追うままに鉄塊が大地を侵食し、急速に急激に世が移り変わりゆく中で、時の流れにも忘れ去られたかの如くひっそりと山に埋もれ、ただ、ただ、在る。
 産物も観光のあてとなる物もなく、日に数本の定期バスを外界との命綱に、村人達は自らの手を糧として細々と、しかしさしたる不満もなく暮らしている。
 ある日ふっと虚空に溶けてしまっても誰も気付かないような小さな村。
 だが村に訪れる人間が絶えることはない。
 月に一人か、年に一人か、皆胸に秘め事を抱き、忍ぶように人はこの村を訪ねる。
 わけを知るのは、訪れ還っていく者と、村に住まう古の神々と、一人の男のみ。

 山に暮らし風のように語る者。
 人はかの者を――


          ◇


 ひょうひょう、ひょう。ひょう、ひょう……

 霞辺の山に笛が鳴る。
 近頃は冬の訪れさえ感じさせる風の間を縫うように、現れたと思えば消え、消えたと思えば現れ、高く、低く、ひょうひょうと鳴る。
 それは人の耳に届かぬ音。
 しかし人の胸を震わす音。
 山の奥、祗岸道(しがんどう)の石段より至る瓦敷きの平屋に、その音の創り手が住んでいる。
 山に暮らし風のように語る者。
 人はかの者を、白笛(しらぶえ)と呼ぶ。

 藍絣(あいがすり)の単衣に身を包む痩身の男。簡素な庭の縁側に座し、精白の笛を手に構え目を伏せ、微動だにすることなく音を紡ぐ。
 男の隣には白い貂が寝そべり、ゆらりゆらりと尾を揺らしながら、小さな口で欠伸を噛み殺している。
 音無き来客に気付いたのは、この貂が先であった。
 みゃあ。高い声で貂が鳴くと、男、白笛は笛を下ろし、目蓋を開いた。
 低い声が飛ぶ。

「相変わらず暇そうだな」

 粗略な作りの庭垣に寄りかかるようにして、長身の男が白笛の前に立った。白染めの狩衣に老竹色の野袴(のばかま)という出で立ち。手にする大刃の薙刀が日の光を映している。
 笛を帯にツと差し入れ、白笛は言葉を返した。
「ふむ。近頃はその言葉ばかりを聞くものよな。俺はそれほど暇人に見えるのかね」
「実際に無精な暇人じゃねえか」
 弾くような男の返し。心外だな。白笛は笑う。
「そう言うが、俺とてやることは色々にあるのだがな」
「おおかた笛を吹くか草むしりか、でなけりゃ釣りでもしてるんだろう。こっちは猫の手も借りたいぐらいだっていうのにな」
「生憎と猫はおらん。そこのてんでも連れて行くかね?」
 縁側を飛び降り狩衣の男の足にじゃれていた『てん』は、白笛の言葉に動きを止め、首を傾げるような仕草を見せた。
 男はひょいと足袋を付けた足で貂の腹を横からつつき、
「猫よりも役に立ちやしねえな」
 ひとつ息をついて薙刀を垣に立てかけ、自分は白笛の隣に腰を下ろす。
 庭木の高枝にしゅうと湿った風が鳴り、空にとぐろを巻いたかと思う間もなく消えていった。

「して、その無精な暇人になんの用だね」庭から今度は胡座の膝に上がり込んだ『てん』の耳を無造作に摘みながら、白笛が問う。「ただ愚痴をこぼしにきたというわけでもあるまい?」
「ああ……大した用件じゃあない。山を見回るついでに寄った」
「ほ。ご苦労なことだな」
 至極軽い声音が返る。揶揄とも聞こえぬ言葉ではあったが、狩衣の男は半眼になり、膝を指で叩きながら、
「……お前、何か知ってるんじゃないのか」
 勘繰るように言った。
 白笛はちらとも男の顔を覗かぬまま答える。
「さてさて、見回りが知らぬことを俺が知ろうものか」
「知ってるからたちが悪いんだ。どうにも得体の知れねえ奴だからな」
「信用が無いな」
「ああ。こういうことに関しては全く信用してないね」
「迷惑はかけてないだろう」
「迷惑は、な」
 憮然とした男の言葉に薄い唇を指で抑え、白笛はくつりくつりと低く声を立てて笑った。
「笑い事じゃねえよ」
 男はつと立ち上がり、しばし場に沈黙を流した。庭草に跳ねる飛蝗(ばった)達の動きを、白笛の膝上の『てん』の目が、きょと、きょと、とせわしなく追っている。
 しゅう。湿った風が鳴る。
 黙したまま男は身を半分振り向かせ、懐から取り出した紙を白笛の顔の前に差し出した。白笛は皺になったそれを受け取り、目を走らせる。男が言う。
「朝方うちの社に来た」
「ほ」
 そうか、と呟き、すぐかさかさと紙を折り畳んで懐へ入れた。
「何か面倒があるようなら知らせろ」
「どう知らせる」
「役に立たない貂でも走らせろ」
 言いつつ垣の薙刀を取り上げ、肩に担ぐ。
 何の素振りも見せぬまま、ふわとその足先が地面を離れた。
「帰るのか。早いな」
「お前と違って忙しいんでな。まあ、今度来るときは酒でも持ってくるよ」
「上物を頼むぞ」
「呑むだけの奴が文句を言うな」
 言うなり狩衣の背から一対の翼が生じ、その先羽から霧が舞ったかと思うと、男の身体は彩光を身にまとった一羽の大鳥に化した。しゅうと吹き付ける湿り風に、長い尾羽がさざ波を立てる。

「夜は雨だな」

 長い嘴(くちばし)をわずかに開き、平素は声高な山の神がその音をすぼめ、ひそりと呟く。

「うむ」

 相槌一つが短い別れの言葉。
 現れた時と同様に音一つ立てず飛び去った大鳥の姿を見送り、帯から笛を抜く。
「さて、暇人は笛でも吹いているか」
 膝上で白い貂がひと声、みゃあ、と鳴いた。

          ◇

 厄日だ。ずぶ濡れの額を拭いながら、赤沼は心の中で大きく舌打ちをした。
 上手くいくはずだった『仕事』は思うようにならず、失くした車の代わりが己の足。手のアタッシュケースは投げ出したくなるような重さで、周りは山、また山。
 そしてこの雨。全く弱り目に祟り目とはよく言ったものだ。
「止まるな、さっさと行け」
 眼前で止まった乃木の背中に悪態をつき、泥に染まった靴で足首を小突く。
「わかってるっつーの。けどよ、本当にこの道でいいのかよ」
 乃木は振り向き、いま赤沼が作っているそれに劣らぬだろう不機嫌な顔で言った。後ろを歩く佐々野と柴原も同調し声を上げる。
「知らねえ。俺に聞くな」
 赤沼は澱んだ泥道に言葉を吐き捨てた。
 疲労と、恐らく事故のときに出来たのだろう打撲から来る鈍い痛みが、獣の足が忍び寄るように身に打ち寄せる。
 厄日だ。同じ言葉を幾度も幾度も繰り返した。

 見知らぬ土地の闇落ちた山中で目的の場所にたどり着いた、その事だけでもはや奇跡と言っていいのかも知れない。
「石段だぜ」
「ああ」
 短いやり取りは確認ではなく躊躇から来るものだった。
 山肌に貼り付くように備えられた石造りの階段。急な斜面に沿って顔を上げればそこにはただ黒一色の空間が浮かび、行き着く先を隠している。
 く。
 雨に紛れた喉の音を、四人皆が自分の発したものだと思った。
――行くぞ」
 赤沼が沈黙を破り、決まりごとのように他の三人が同時に頷く。
 雨に濡れた長い石段はまるで余所者を拒むが如くその歩みを遅くし、肩で息をつかせる。視界から土、ならぬ泥の壁が消えるまで、四人は一つの声も漏らすことなくただがたつく油切れの足を動かした。
 不意に、空が広がった。
 相当に長身の人物でなければ追って歩けないだろう間隔で敷かれた石畳。それがぼんやりとだが見えたのは、闇の中にぽつりと蹲るようにして建った瓦敷きの平屋から漏れる――四人にとっては久しく目にするものと言ってよい――人の手に寄る明かりの恩恵であった。
「本当に行くのか?」
 怖気たような声で言う佐々野だったが、それは他の三人の心象を、短いながら余すことなく代弁したものであり、答えには雨の音だけが返った。

 ――山手の側に石段がある。それを上り、家を訪ねなされ。

 脳内に反復された言葉も、おそらくは四人同じものだっただろう。
 ざと踏み出した足は誰ともなく、そして一瞬後それを止めたのは一斉に。


「よく降るものだな」


 低くもなく高くもない、まして大きく発されたものでは決してないその声は、しかし強か(したたか)に地を打つ雨音に紛れることなく凛と響いた。
 和装の人姿だった。着流しに紺の番傘を差し、反対の手で着物の裾を摘み上げている。四人にとってはブラウン管の中にしか見たことのない姿。それが突如として背後にあった。
 もしもその姿が屈強な大男か、黒髪垂らした濡れ女か、はたまた顔の崩れた物の怪のそれであったならば、四人は間違いもなく喉も裂けよと悲鳴を上げ腰を抜かしていたことだろうが、そこに立つのは自分たちと歳もそれほど違わぬような細身の男だった。
「ひどい有様だ。野の鼠でもそうまで濡れはせん」
 呆然とする四人の間をするりと抜けて、和装の男は明かりのほうへと歩いていく。と、ひたり、足を止めて、
「客ではないのかね」
 肩越しに言葉を投げた。
「う……」
 誰のものともつかぬ声が湿った空気に吸い込まれる。構わず男は続ける。
「あの家に用があるのではないのかね? 雨宿りには絶好の場所と見えようが」
 くつりくつり、押さえ笑う横顔はほの明かりを受けて妖しく、四人は雨のためではない寒気が背をそぞりと這い上がるのを感じた。
 その様子を見て取ったか、今度はきゅと全身を振り向かせ、
「ほ、ほ。悪いな。脅かすのは別に癖ではないのだが。なに、家主が許すから上がれということさ」
 ついて来い、よく通る声を残し、再び緩やかに歩き出す。
 四人は顔を見合わせ数秒を置いて無言で頷き、すくみを覚える足取りながら、離れた男の背を追った。

 慣れた手つきで傘を閉じ、ひゅと水滴を振り払う男の着物はまるで濡れてはいない。だがそれを不可解に思う余裕は四人にはなく、ここで待てと言われた通り、狭い土間に肩をつき合わせて立ち尽くした。
 ものの十数秒で奥から戻るなり、男はそら、と手前に立った赤沼に数枚の手拭いを投げた。
「それではとても間に合わんだろうが、ま、気休めだ。生憎貸せるだけの着替えがないものでな。そのまま上がり込まれては俺も後の始末に困る」
 よく拭けよ、それから上がれ。簡潔に言い置いて踵を返す。四人の返す言葉は特に求めていないようだった。

 男の消えた引き戸をくぐるとそこは広い板間。ぼやけた温かみに引かれるように四人は歩を進める。男は部屋の中心に据えられた炭櫃の横に膝をつき、長い鉄箸を器用に操って竹篭から木炭を移しながら、呟くように言った。
「客の多い日だ。座布団が足りんな。適当に座ってくれ」
「あんた――
 それまでの長い沈黙を破り口を開いたのは赤沼。男は手を止め、ひょと顔を上げた。
「誰なんだ」
「誰、とは」
「……下の道で、じいさんにここに来いとか聞いたんだけどな」
 問い返された赤沼自身、己の質問に続ける言葉が見つからず、ただ奇妙な事実だけを口にする。男は怪訝な顔も見せずふむ、と頷き、
「村に住む者、という説明では足らんのかね」
 見上げる眼は、高圧的な言葉を受けてちらりとも動揺を見せない。
 与(くみ)しにくい、赤沼の心に走ったのは果たしてそれだけだったか……
「知ってんのか」
「何をだね」
「何かを、だ」
「ほ、ほ。おかしなことを言う」
 男は笑う。赤沼は言いつのった。
「もう一度だ。知ってんのか」
 せっかちな奴だ、言い置いて竹篭を両手に立ち上がり、四人に横顔を見せたまま言った。
「さて、知るものは知っているし、知らぬものは知らぬなあ」
「てめえ」
「よせ」
 いきり立つ乃木を手で制し、赤沼はその姿勢のまま一周り部屋を見渡した。確認するまでもなく、何もない質素な和部屋。その中心でただ数個の炭だけが赤く音もなく燃えている。視線を目の前の男に戻す。和装の男は身じろぎもせず赤沼の言葉を待って立っている。
 こんな華奢な男一人、どうとでもなる。必要なのは休息だ。
「一晩、世話になる」
 不躾な言葉に男は頷き、再び四人の間をすり抜けて廊下へ出て行った。
 握り締めていたアタッシュケースを投げ出し、どかりと腰を下ろす。足先に溜まった血がじわりと昇っていく。白くなった指に赤味が戻る。同じように炭櫃の周りへ座る三人の男たちを横目に、口の中で言葉を繰り返した。幾度も幾度も、己に言い聞かせるように。

 どうとでもなる。

 かすかな手の震えには、気付かなかった振りをした。

          ◇

 雨そぼ降る山沿いのアスファルトを照らすハイビーム。道を遮り現れた男の影。挙げた両手をあらん限りに大きく振っている。派手なブレーキ音を立ててワゴンが止まる。男が駆け寄り、フロントガラス越しに切羽詰った声で叫ぶ。お願いです。乗せて下さい。お願いです――

 首を振り、乃木は頭にかかった思考の雲を払った。
 畜生、なんだってんだ。持って行き場のない憤りに薄い唇を噛み潰す。気に入らなかった。雨に濡れて肌にまとわりつく服も、身体の痛みも、炭の燃える田舎臭い匂いも、何もない山に建つ何もない家も。全てが気に入らなかった。
 己が望んだものなど何一つとてない空間。そう考えて、乃木はいや、と思い直す。一つだけある。横手に転がったアタッシュケース。ただこれだけ。夜の山の中では何の役にも立たない、このクソ重い荷物だけ。
 上手くいくはずだった。出口の見えていた直線が曲がったのはどこからだ? 曲げたのは一体なんだ?
 闇深い山か? 車輪を滑らせた急の雨か? 切れていたガードレールか? それとも、

 お願いです。乗せて下さい。お願いです――

「畜生ッ」
 拳で床を叩く。がつ、という鈍い音に、三人が乃木を振り向いた。
「どうした」
 斜め隣に坐した赤沼が呼びかける。別に何でもねえよ、ぶっきらぼうに返す。目に付いたもの全てが憤りの対象と化しそうになる。仲間達も例外ではなかった。無論、先程から黙って炭櫃の隣に坐している、和装の男も。
 いけ好かねぇ奴だ。ずっとそう思っている。もっとも乃木が他人を「好く」ことなどほとんどあることではなかったが、特に気に入らないと感じる種類の男だった。どんな偉ぶっている人間でも少し脅してやればすぐ弱っちい中身をさらけ出す。乃木はそう信じ、またそれを利用してきた。愉快だと感じた。叩きのめしてやればいい。乃木はそう思っていた。事実、そうした。
 だから気に入らなかった。己の作った「常識」の外を歩く人間が。涼しい顔。済ました立ち居振舞い。見ると胸がちりちりと焦げる。その繕いを引き剥がしてやりたいと思う。
 こいつは、その典型だ。そう直感したから、今のように下腹部に尿意を覚えたのでなければ、乃木が和装の男に声をかけることは――少なくとももう暫くは――なかっただろう。

「おい、こんなボロっちい家でも便所ぐらいはあるんだろうな」
 不機嫌を隠さず言い放った。頷く男。
 どこだ、と続ける前に和装の男は立ち上がり、着いてくるよう手で示した。
「ガキじゃねぇんだ。言われりゃわかる」
 荒い声で言ったが、
「まだ奥の廊下に明かりをつけていないのでな。手探りに行くのも馬鹿らしかろう。ついでに火を置いてくる」
 どこから出したか、平皿に乗せた火付きの太い蝋燭を片手に、さっさと歩いていってしまう。乃木は舌打ちを一つ残して後を追った。
 板間を出て左に折れ、すぐにぶつかった壁を右、また左。屋敷の奥へと向かう方向に長い廊下が走っている。右手に外に面した木枠のガラス戸が並び、左には障子がいくつかの部屋の存在を示していた。
「部屋あんのか」
 板間の硬い感触が気に入らなかったこともあり、乃木は言外に意を含めて男の背に声を投げた。
 男は立ち止まって顔をちらと振り向かせ、
「あることはあるが、先ごろ雨が入って畳が腐りあがってしまってな。とても人の住めたものではない」
 何でもないように語り、覗いてみるかね? と笑った。肩越しに漏れる薄ぼやりとした灯りに浮かび上がった男の唇が奇妙に赤く見えた。
 ふざけるな、と普段なら軽く喉を通っていただろう言葉は音にならず、乃木は凍った首をなんとか横に振る。男がそうかと相槌を置いて歩き出す。つられるように踏み出した足がぎい、と床板を軋ませた。
 乃木は立ち止まった。
 ガラス戸の向こうで雨が踊る音がする。ざざあ、ざざあ、と風が木を揺らす音がする。前には乃木が立ち止まったことに気付いているのかいないのか、ゆったりと遠ざかる男の着流し姿。滑るように歩が送られている。乃木は踏み出した足に力を込める。ぎい。耳障りな音が消えれば、ざざあ、ざざあ。響く光の外からの音。
 男の姿が遠ざかっていく。
 長い影を後に引き、ただ一つの音もなく。

「どうかしたかね」
 通る声が空気を裂いた。
 止まった思考の歯車が動き出す。男の姿は既に廊下の端にあった。
「何でもねぇ」
 込み上げる感情の律動に合わせ乱暴に足を運ぶ。ぎ、ぎい。己のたてる甲高い床鳴りの音が耳障りで仕方がない。
 乃木が隣に並ぶと、男は行き止まりの壁(と一瞬見えたが、実際は木戸であった)を示し、言った。
「ここだ。火を灯しておくから帰りは一人で行ってくれ。それとも、ここで待っていたほうが良いかね?」
「張り倒されてぇのか」
「ほ、ほ。短気な奴だな。冗談さ」
 睨む乃木に臆する様子も見せず、男は笑ってきびすを返した。
 気にいらねぇ。舌打ちをしながら戸を開ける。
 人を小馬鹿にしたようなあの表情。低くもない高くもない、全く特徴を欠いた、そのくせ妙に通りの良い声。加えてあの不気味な歩き方――
 胸が焦げる。気に入らない。打ち壊してやりたい。何もかも。
 静まらない胸の昂ぶり。
 それが『恐怖』という名の感情と紙一重のものだということに、乃木が気付くことはなかった。

          ◇

 乃木が戻った後、すぐ赤沼、佐々野と続いて便所へ立った。最後に柴原が板間を出ていく際、乃木がお前ら臆病者だな、と悪態をついた。乃木は言葉が足りない傾向があるが、つまりは他の三人が自分で男に言い出さなかった事について揶揄したのだ。
 赤沼は特に何も考えずついでに、という感じで立ったのだが、佐々野と柴原が何も言わなかったところを見ると乃木の言葉もあながち外れてはいないのだろう。実際、躊躇いを呼ぶ気味の悪い場所であった。
「あの男はどうしたんだ」
 赤沼が便所に行っている間に家主の姿は板間から消えていた。
「夕飯の支度がどうとか言って、出てったよ」
 佐々野が答えた。炭櫃に集まった二人から離れ、部屋の隅で壁に背を預けて丸くなっている。赤沼が腕の時計を確認すると八時を回っていた。腹も空くはずだ。
「サツに連絡してるんじゃねぇだろうな」
 乃木の言葉に佐々野の肩がびくりと跳ねた。
「それはないだろう。こんな山の中で電気も通ってねえ。電話があると思うか?」
 家主がそうと語ったわけではないが、ここに着くまで送電線らしきものは見ていない。この申し分なく明るいとは言いがたい部屋の光源が数個の高足行灯であることから見ても、電気が通っていないことは確かだろう。
「はっ。とんだ田舎だ。暖房どころかまず電気がねぇなんてな。タイムスリップでもしたんじゃねぇのか。俺ら」
 大袈裟な身振りをしながら言い放つ。
「そのほうがいくらかマシかもな」
 赤沼がそう返すと、乃木はつまらなさそうに大きく舌打ちをした。俺はごめんだぜ、こんな家に泊まるのは――。寄せた眉が語っている。が、言葉にしないのは雨中の山歩きによほど閉口したためだろう。それは赤沼も同じことだった。例え歩く体力が残っていたとして、この闇の中、ぬかるんだ山に出て行けば惨事が起こるのは目に見えている。
「本当に、良かったのか……」
 板床にぽつりと落ちた声は佐々野のものだった。
「あ?」
 乃木が振り返る。足を抱えた佐々野の腕は小刻みに震えを立てていた。
「今更何言ってんだよ。お前だって充分乗り気だっただろ」
「そりゃ……」
「おい。もしかしてあれか? お前、俺がワゴン落としたのが不満なんじゃねぇのか」
 乃木の語気が鋭くなる。
「ち、違うよ」
「じゃあなんなんだよ。はっきりしろよ、ガキみてぇにおどおどしやがって」
「よせ乃木。たまたまお前が運転してたときに当たっただけだ。誰がやっててもあの道じゃどうせ同じだった」
 乃木を諌めたその言葉に嘘はなかった。四人の中で一番運転が上手いのは乃木だ。運に見放されたと言うほかない。いや、あの事故で全員が軽症で済んだのだ。むしろ幸運とするべきか。
 乃木が炭櫃の方に向き直っても、まだ佐々野は何か言いたげな顔をしていた。赤沼はその内容をなんとなくわかってはいたが、敢えて尋ねる事はしなかった。今、ただでさえ良いとは言えない男達の和を乱すのは得策ではない。加えて、自分自身もその話題を持ち出すのは気が進まなかった。
 決して間違ったことでは――自分達の道義に合わせるのなら、だが――ない。必要なことだった。先を見るなら成されるべくして成されたことなのだ。そう、ああするより他に、

お願いです。乗せて下さい。お願いです――

「遅ぇな」
「えっ」
 闇の中から聞こえてきた言葉と乃木の言葉が重なった。赤沼は思わず一気に上体を起こし、声を上げた。
 乃木は訝しがりもせず、
「柴原」
 短く言った。
 佐々野と入れ違いに出て行った柴原はまだ戻っていなかった。確かに遅い。
「あいつそそっかしいから足滑らせて便所に落ちてるんじゃねぇのか」
「迷うことはないと思うけどな」
 男に着いて行った乃木はともかく、一人で行った赤沼でも少し教えられれば容易くわかった場所だ。佐々野も赤沼の言葉に頷く。
 この寒さで腹でも下したんだろうとその場は笑い話にしていたが、結局十分経っても柴原は戻らず、仕方ねぇな、と引き戸の一番そばにいた乃木が様子を見に出て行った。開け放たれた戸から廊下の冷えた空気が流れ込み、生乾きの服に染みる。
 ふと佐々野を見ると顔を真っ青にしている。どうかしたのか、と声が喉を出かかったところにすぐさま乃木が戻ってきた。
 開口一番、
「いないぜ」
 後ろ手に引き戸を閉め、それだけ言う。
「いない? 便所にいなかったのか?」
「ああ。開けてみた」
「そりゃおかしいな」
 やはり迷ったのだろうか。まさか一人で家の中を散策しているなどということはあるまい。
「俺も行ってみる」
 赤沼が膝を起こしかけた時、乃木の背後で再び引き戸が開いた。だが三人の視線が集まる先にいたのは柴原ではなく、家主の和装の男だった。
「どうかしたかね」
 三人の顔を一渡り見回し、戸の向こうに立ったまま男が問う。赤沼が声を投げた。
「一人便所に行ったきり帰らないんだ。あんた見なかったか」
 男は少し考える素振りを見せ、
「さて、見ておらんな」
 奥には誰も来なかった、と続ける。
 嘘をついているようにも見えなかったが、頭から信用することも出来なかった。三人が考え込んでいる間に男は乃木の横を抜け、するすると歩いて炭櫃の隣に座り込む。
「炭はまだあるな。飯はちと待て。今仕込みが終わったところだ」
 事もなげに言い、帯から白い笛らしきものを抜いた。乃木も佐々野も面食らったような顔をしている。
「おい。ちょっと待てよ。柴原を――
「探すのかね?」
 三人とは対称的に、落ち着いた――行き過ぎたほど落ち着いた調子で、男は赤沼の声を遮った。
「俺の家は、まあ見てわかるだろうが、小さい家だ。ましてからくり屋敷でもない。自ずから部屋を迷うことはないだろうさ」
「じゃあ外に出ていったって言うのか」
「さて、さて。そこまではわからんがね。もしそうなら雨と闇の中をお前達が行ったところで無駄なこと。どこにいるにしろ、自分で戻れるなら戻ってこようさ。戻らん者は戻らんよ。いくら探したところでな」
 朗々と語る。一瞬しんとなった部屋の端で佐々野が呟いた。
「化け物だ」
 声が凍っていた。
「馬鹿言ってんじゃねぇっ」
 乃木が怒鳴る。今にも食ってかかっていきそうな乃木に真っ青な顔を上げ、手を振って、
「だ、だって、俺」
「柴原が神隠しにでもあったって言うのか?」
「乃木、やめろ」
 赤沼が立ち上がろうとした時、再び男が口を開いた。

「そう思うなら一人歩きはあまりせぬがいい。俺を物の怪と思うなら近寄らぬがいい。そうと信じれば形無きものでも形を成すこととてある。灯りから離れず外にも出ないことだ。知り合いの言葉を借りるなら、夜の山は人が力の及ぶところではない」

 変わらぬ口調と表情だったが、口の端に薄く差していた笑みの色が消えているように赤沼は感じた。乃木も佐々野も黙りこくっている。乃木が持っているのだろう大きな嫌悪感こそなかったが、赤沼も決して男に好意を持ってはいない。だが、男の語る言葉は、朗とした声は――意味こそ判じかねるものの――良くか悪くかは別に、何故か胸をえぐるような心持ちがするのだ。
 男は両手に笛を構え、遠くの二人には聞こえぬ程の小さな声で呟いた。


 在るべきところに在れ。


 赤沼がその言葉を脳内で反復する間もなく、白い笛が音を発した。


 ひょうひょう、ひょう。ひょうひょう……


 風が渦を巻く。いや、閉め切られた部屋の中、それは誤った認識に違いなかったが、そんな感覚が身体を走った。
 色のあるようで無い、無いようであるその笛の音色は男の言葉そのものであった。耳に響き良い、だがどこか苦しさを憶える音色。
 五分か十分か、休むことなく続く笛の音に初めて混ざった雑音は、乃木の放った声だった。
「おい、やめろ」
 怒鳴るような制止の声。だが音はやまない。乃木が声を発しながら詰め寄っても、男が口から笛を離すことはなかった。
「やめろっつってんだろっ!」
 乃木は男の手から笛をむしり取り、障子に駆け寄って勢い良く開け放つと、崩れた姿勢で外に投げ放った。石にでも当たったか、かん、とひとつ音が遠く闇の中から響いたかと思う間もなく、すぐに雨音が辺りを包んだ。
 一瞬の出来事。
「乃木……」
 肩で息をついている乃木には、そばで佐々野が発した言葉も聞こえていないようだった。畜生。ぴしゃりと障子を閉め、部屋に背を向けたまま乃木は吐き捨てるように言った。
 佐々野は乃木の顔を見上げて呆然としている。乃木は普段から短気だが、ここまで切羽詰った様子を見たのは初めてだろう。だが赤沼が驚いたのは乃木の行動ではなく、むしろ笛を捨てられた後の男の態度の方だった。憤る様子は微塵もなく、平然と――まるで今起こった事件が自分には何も関係がないものとでも思っているかのように――坐したままでいる。
 そして、
「笛は好かんかね。まあ、良いさ」
 軽く言い、立ち上がった。
 赤沼は一瞬男が笛を拾いに行くのかとも思ったが、そうではないらしい。滑るように歩いて廊下に出る引き戸へ向かう。
「飯はまだ少しかかる。待っていろ」
 言い置いて、引き止める間もなく出て行った。
 ざざあ、ざざあ。
 笛の音色の尽きた部屋に、絶え間ない雨と風の響きだけが残った。

 タイヤがパンクして走れなくなってしまったんです。
 お願いです。乗せて下さい。
 急いでいるんです。どうかお願いします。
 私達を、病院まで――


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