●Novegle対応ページ ◎作者:プロト◎カテゴリ:FT◎長さ:中短編◎あらすじ:誰かが言った。「神は死んだ」。神のいない街、灰色の空の下、歳取った父と二人暮らす少女は、背に白い翼を負った男と出会った。
ヒドゥン


 神は死んだ。
 誰かが言った。「神は死んだ」。
 それがいつの時代の、どんな人間の、どんな意味の言葉だったか、街には誰一人とて知る者はいない。五度の大戦の火を見る前の世界に生まれた無形の言葉など、日々の暗い時に追われ、身を縮め生きるだけの人間に何の値打ちがあるだろうか。街の住人たちが知るのはただその音の響きだけ。ただその言葉の正しさだけ。この街には神がいない。
 神の死んだ街。灰色の空を浮かべ灰色の空気を纏う街。その中心部、貨物列車が煙を上げ走る路面の横、汚れた石畳の上を少女は独り歩いている。頭の上で二つに結った豊かな銀髪と黒のスカートドレスの裾をくすみ湿った風にふわり揺らしながら、小さな人形を胸に抱きしめ歩いている。誰も少女を留め置かない。街の住人たちはいつものように小さく危うげな少女の姿を目の端に入れ、また目の端に去らせる。
 男は崩れた石塀に腰掛けていた。黒い髪。白のコート。白のマフラー。そして背から生えた一対の大きな白い翼。コートのポケットに両手をしまい、何をするでもなくただじっと座っている。ありふれた人姿。色少なのシルエットは街の背景に和し、特に人の目に留まるものでもない。少女はその前を行き過ぎかけた。そして思いがけない声を受けて立ち止まった。声の主は、その男だった。
「どうしたの、おチビさん」
 今日初めて街で聞いた、ただ流れ消える音ではない意味のある言葉だった。少女は男を振り向き見上げた。男は黒い瞳を少女の青い瞳と見合わせ、さらに言った。
「泣いているの?」
 確かに少女は泣いていた。歩き始めてからここまでずっと泣いていたのだ。街の人間たちに見過ごされ、自分でさえ忘れていた涙を少女は肩でぬぐった。また、男が言う。
「何かあったのかい」
 少女は戸惑い、男の顔を見返した。男は柔らかく笑った。問いを押す代わりに自分の腰の隣を示し、
「さあ座って、おチビさん。俺と少し話をしようよ。時間は沢山はないけれど、今日はまだ陽は沈まないからね」
 そう言って、少女を招いた側の翼をぱたりと背に閉じ寄せた。少女はつられるように崩れた石塀に近付いた。コートにしまいこまれていた男の手がひょいと伸び、小さな身体を器用に抱え上げて自分の隣に座らせた。
「おチビさん、君のお名前は?」
 少女は人形を両腕に抱いたまま男を見上げ、小さく答えた。
「マリア」
 マリア、そう。いい名前だね。そう言って男は満足げに頷いた。そのまま頷きを数度ゆっくりと繰り返し、
「こうやって誰かと話すのは久しぶりだよ。もう随分長くこの街にいるけど、ここの人間はみんな陰気くさくって、物を気に留めないから。そういう街だからね」
 言ってはたり、また翼を開き閉じした。マリアは男の言葉に声も頷きも返さなかった。マリアは他の街を見たことがなかった。他の人間を知らなかった。そして長くここにいると語る男のことも知らなかった。背に翼を負った人間をマリアは街で少なからず見たことがあったが、男はその誰でもない。街に暮らす人間たちの姿は日々移ろう。いつどこから来たのかもわからぬ顔が、いつどこへ去ったのかもわからぬままにふと気付けばなくなっている。誰がどれほどここにいるのか、おそらく町に住む誰も知らない。
「その人形、壊れてしまっているね」
 覗き込むようにマリアを見下ろし、ぽつりと男が言った。マリアははっとして腕の中の人形をさらにきつく抱きしめた。
「それで、泣いていたのかい?」
 布と毛糸で出来た小さな人形は腕が半ば取れ、破れた生地の下から綿が飛び出している。
「お庭の木の枝にひっかかっちゃったの。わたし、パパに言ったの。パパは、壊れたなら捨ててしまいなさいって」
 幼い顔をきゅっと歪めて人形を掻き抱くようにするのに、
「ちょっと見せてくれるかな」
 男はそう言って手を差し出した。マリアは小さく首を振った。男はさらに手を出す代わりに俯いたマリアの頭をゆっくりと撫で、続けて言った。
「大丈夫だよ、おチビさん。捨てたりなんてしないよ」
 穏やかな言葉だった。マリアは数秒ためらってから、そっと男の白いコートの膝の上に人形を乗せた。男はそれを両手に取り上げしげしげと眺めた。
「そうだね、大きく破れてしまってはいるけれど」
 でも、直せないほどじゃないね。言ってマリアに人形を差し出す。マリアはそれを無意識に受け取りながら、男の顔を見詰め大きく目瞬いた。
「直るの?」
「直るよ。針と糸があればね。お母さんにお願いしてごらん」
 男の言葉にマリアはまた俯き、ぽつりと言った。
「ママ、いないの」
 物心ついたときから父親とただ二人この街に暮らしていた。写真立ての中にだけその姿を残すマリアの母のことを、父は何も語らない。
 母親というのは、子どもの壊れた人形を直してくれるものなのだろうか? マリアは知らない。
 マリアは隣に座る男の白いコートをきゅっと握った。男は驚いた顔でマリアを見、やがて笑って言った。
「人形、直して欲しい?」
 マリアは頷いた。じゃあ行こう。男は立ち上がり、すぐに向き直ってマリアの身体を塀から石畳の上にひょいと下ろした。
「お家まで案内してくれるかい、おチビさん」
 差し出された手をマリアは自然に握った。

 街の中心からいくらか離れた林そばに建つ簡素な一軒家。玄関から続く居間で、マリアの父親、ロフは暖炉に火を起こしていた。赤い火明かりに浮かぶ顔には数本の皺が走り、濃茶色の髪のところどころに白髪が混ざっている。幼い少女の父親としては幾分か深い歳を重ねている。
 戸の開く音。最後の薪を炎の中に落として立ち上がり、振り向く耳に声が飛び込んできた。
「パパ、ただいま」
「お帰り」
 お帰りマリア、と続けかけた口が、娘の後ろに立った人姿を見た瞬間に固まり、そのまま音を出さずに閉じた。
「パパ、針と糸、どこ?」
 マリアは父親に駆け寄り言った。男が戸の外に立ったままぺこりと頭を下げ、言葉を補う。
「街の者です。おチビさんの人形を直してあげようと思って」
 ロフは不審の目で男の顔とその背の翼とを交互に見やり、最後に傍らの娘の腕の中に視線を落として、呟くように言った。
「二階の棚に花の絵が描いてある白い箱があるから、探して持ってきなさい」
 うん、と頷きマリアは奥の階段へ早足に向かう。落ち着いて行きなさい。父親の言葉にまたうん、と答え、それでも足の運びは緩めずぱたぱたと階段を上る音が徐々に遠ざかる。
 ロフは娘の背を見送った目を戸口に戻した。男が言った。
「入っても?」
「……ああ」
 短く返して椅子に座り込む。じゃあ、と戸をくぐった男は部屋を一渡りゆっくりと見回し、やがて横手の暖炉の上に並んだ数個の写真立てに目を止めた。
「この名前の入った写真――ロフ=ゼクセン、アンナ=ゼクセン。奥さんですか? あの子にそっくりだ」
 指差す円形の写真立ての中には今より年若いロフと、その隣に寄り添い笑う美しい女性の姿がある。過ぎた時に褪せてはいるが、確かに女性の髪はマリアと同じ銀色を、そして瞳は青色をしている。
 ロフは暖炉に半身を振り向かせ、
「あまり人の家の物をじろじろ見んでくれないか。いい気分じゃない」
 抑えた声で、しかしはっきりと言う。どうも失礼。男は頭を下げた。背の翼が空気を叩きふわりと床に風が起きた。
――翼のアートミュータントか」
 吐き捨てるに近い声。男が顔を起こしロフを見つめる。
「また大仰なものを……。今の若い連中は、身体をいたずらに扱い過ぎる。何が美しいと言うんだ。全く、いびつだ」
「いびつ?」
「いびつだ。その身体も、技術も、それを認める世界も、何もかも。何もかもが、おかしくなってしまった」
 前に立つ当の男にでも、誰に向かってでもなく、ロフは言葉を落とす。
 繰り返される大戦の嵐は無数の生命、物質は言うに及ばず、人間の作り出した情報と技術の数々を闇の中に押し流し葬った。あるものは完全に消え去り、あるものは逆行し、あるものは残った。嵐の幕が明け、久しい平穏の光の中に目を開いてみれば、そこに存在したのは取り戻しようのない歪んだ時を抱く、いびつな世界。
「人間の知恵の結晶が、そうして安易に身を飾り立てることに使われる。そんな世界だ」
 街を歩けば十に一人は人為変異を起こした異容の身体を持つ人間に出会う。余計に生えた手足。獣の眼。鳥の翼。ただその姿を得るためだけに大戦を生き残った技術が求められ売られている。
「下らん。何もかも」
 ロフは長足の卓に向き直り、組んだ手の上に深い息と呟きを落とした。
「そう」
 ぱちり。暖炉の中で薪が鳴る。
「そう。そうかもしれない。だけど」
 嫌悪を示す背に向かい、男は言う。
「だけど、あなたのやっていることと、何が違うんだい」
 穏やかな、静かな声。ぱぁん。はぜた火が飛び分かれ部屋に花を散らす。
「なにを」
 弾かれるように立ち上がり、言葉になりかけた掠れ声は近付く小さな足音に遮られ消えた。階段を降り切ったマリアが父親に歩み寄りつつ人形と一緒に抱えた白い箱を示した。
「これでしょ。パパ」
 その仕草にかろうじて頷きを返す。男が戸に向かい、マリアを呼んだ。
「おいで、おチビさん。お父さんの邪魔にならないように、外で座って直そう。夕陽が沈まないうちにね」
 うん、とマリアが答え、先に立って戸を抜ける。男は部屋の内側に振り向いてひとつ礼をし、白いコートと背の翼を風に揺らして出ていった。ロフはそれを見送るまま、しばらくその場に立ち残っていた。

         ◇

 街の中心部の崩れた石塀の上にマリアが白いコートの男の姿を見たのは、それから三日が過ぎた朝のことだった。
 街の背景だったそのシルエットは幼い目に浮き出して映り、歩みが自然にそちらに向かう。腕には傷の治った人形を抱いている。今日は、泣いてはいない。
「おはよう、おチビさん。いい天気だね」
 近くまで歩いて行くと、小さな影に気付いた男の方から笑って声をかけてきた。
「いつもおチビさん独りで街を歩いてるのかい。お父さん、何も言わないの」
「うん」
 そう。はたり、翼を開き閉じ、
「まあこの街の人間はね。他人に関わりたくない人ばかりだからね。でも、気をつけないと駄目だよ。また人形を枝に引っ掛けたりしたら大変だ」
「うん」
 頷くと、君はいい子だね。言って笑む。
 あの日男が人形を直して家を去った後、父親はあまり街の人間と話さないように、とマリアに言った。理由は告げず、ただ疲れたような声でそれだけ。その言葉を忘れたわけではなかった。だが男は街の人間たちとは違うような気がした。マリアは男に親しみを感じた。神のいない色絶えた街に、色少なのシルエットを持って浮かぶ男の姿は、しかし何故か鮮やかな彩りをその上ににじませているように見えた。
 街の中心部の汚れた石畳の上を行き、崩れた石塀に足を運ぶのがマリアの日常になった。いつマリアが訪れても男はその石塀の上に腰掛けていた。歩み寄るマリアに笑いかけ、こんにちは、おチビさん。俺と話をしようよ。そう言って少女の身体をひょいと抱き上げ隣に座らせる。男の言葉はいつも穏やかで新しかった。街のどこにも、暖かい我が家の中にさえ、ないものだった。

「今日は何を持ってきたんだい、おチビさん」
 塀に座ったマリアの腕の中に抱かれた薄い本を見、男は尋ねた。それは昨夜マリアが家の物置部屋で見つけた絵本だった。棚の隅に隠すように置かれた埃まみれのその本を、マリアは人形と腕の間に隠してそっと家から持ち出した。
 セピア色の絵が入った本を男の胸の前に差し出す。
「読んで欲しいの?」
 こくりと少女は頷く。いいよ、貸してごらん。本を受け取り、男は黄ばんだ紙の上の薄い文字を辿り読み始めた。セピア色の挿絵を眺めながらマリアは紡がれる話を聞いた。物語の最後には、小さなねずみの母親がベッドの中の子ねずみに本を読んで聞かせる場面が描かれていた。
 写真の中の母親も、こうして自分に本を読んでくれたことがあったのだろうか? マリアは知らない。
「そしてお母さんは、ねずみの坊やに子守歌を歌ってあげました。坊やはお母さんの優しい歌を聴きながら、幸せな気持ちで眠りにつきました。……はい、おしまい」
 物語を終えて本を閉じかけた男に、マリアは言った。
「うたって、なあに」
 男は手を止め、マリアの顔を見下ろして不思議そうに目を瞬かせた。
「歌、知らないの?」
「……うん」
 何か咎められたような気持ちになり、マリアは頷きのまま顔を落とした。しばしの沈黙の後、男の手がぽんぽんとマリアの頭を宥めるように叩き、その上から、声が流れ出した。

 誰かが言った。神は死んだ。
 ここは神の死んだ街。
 灰色の空。灰色の言葉。
 闇。光。集い、生まれ、消え、巡る。
 灰色の街。永遠の街。
 誰かが言った。神は死んだ――

「それ、歌?」
 マリアは尋ねた。風の上に滑る不可思議なひとつなぎの言葉は絶え、男の唇はまたはっきりとした文を刻んだ。
「歌だよ。世界にはね、沢山の歌があるんだ。この街にはない沢山のものがあるんだ。灰色の空。灰色の言葉。そう。本当の空の色、君は知らないね」
 男の言葉にマリアは空を見上げた。いつもの灰色の空があった。腕と翼でそっと少女の身体を包むようにして、男は言った。
 空は青いんだよ。マリア、君は知らないけれど。本当の空はね、君の目と同じ、綺麗な青い色をしているんだよ。
 マリアは知らない。
 知らないことを、知らない。
「マリア、考えてごらん。街の外のことを考えてごらん。歌や、青い空。本や言葉。沢山の物、沢山の命。お父さんのこと、君のこと、考えてごらん。マリア、怖がらないで。俺はいるから。君と、いるから」
 男の言葉は静かで穏やかだった。翼は温かかった。怖くはなかった。だが男の腕の中でマリアは涙をこぼしていた。青い空を知らないことが、ただ無性に悲しかった。

「パパ」
 帰宅した娘の涙で汚れた顔に、ロフはぎょっとして返す言葉を失った。腕の中の小さな人形をぎゅうと抱きしめて、少女は言った。
「パパ、パパは、青いお空を見たことがあるの?」
 その言葉は娘の泣き顔以上の衝撃で、ロフの胸を刺し貫いた。
「マリア」
「わたし、この街、きらい。パパは街のお外に行ったことがあるの? どうして、わたしたちはこの街に住んでるの? どうして」
 どうして、ママはいないの――。続く言葉を飲み込むように、ロフは娘の身体をひざまずいて抱きしめた。
「パパ」
「マリア、いいんだ。ここにいればいい。私はお前しかいらない。お前がいれば、何もいらない。全て過去のことだ。何もかも終わったんだ。お前さえいればいい。ずっと、ずっと」
 父の腕の中でマリアの言葉は消えた。マリア。呼ばれ、声にならないまま心は叫ぶ。
 パパ、わたし、ママに会いたい。ママの歌が聴きたいの。
 わたし、青いお空を見てみたいの。パパ、パパ――

         ◇

 マリアは街に出なくなった。
 父は変わらず優しく、家は変わらず暖かかった。マリアは窓辺に座り、外の景色を眺めて過ごした。灰色の空の下に、景色も変わらず灰色だった。
 黒い服に身を固めた男たちが家にやってきたのは、ある風の強い朝のことだった。
 その姿を認め、わずかに開けた戸を一瞬違いで閉め切ったロフに、壁の向こうから男の声が飛んだ。
「ゼクセンどの、扉を開けてもらいたい。落ち着いて話をしようじゃありませんか。我々としても、荒っぽいことになりたくはないのでね」
 ロフは後ろに不安げに立つ娘を振り返って唇を噛み潰し、やがて低い声で告げた。
「わかった……少し待て」
 返る声も聞かず、早足に物置部屋に向かい、戸の隙間から手に引いた娘の身体を中に押し込んだ。
「いや、パパ」
「じっとしていなさい。音を立てるんじゃないぞ」
「パパ」
 大丈夫だ。短い言葉を残して扉は閉められた。遠ざかるロフの足音と、玄関の戸の開く音、続いて複数の人間が部屋に荒々しく入る音が聞こえた。男の高圧的な声がする。
「探しましたよ、ドクター・ゼクセン。この辺りはもう探し尽くしたはずだったんですが、まさかこんな辺鄙な街にいるとは思いませんでした」
「……なんで今更来た? 私は何度も言ったはずだ。もう何にも、誰にも手を貸す気はない。何も造る気はない。私は全てを失くした。全てを忘れ置いてきた」
「今更ではありませんよ。ドクター。ずっと探していた。我々はあなたの力を必要としている。あなたの偉大な知恵を」
「下らん」
 戸の隙間から聞こえる父の声はいつになく厳しい。それに臆する様子もなく、相手の男の言葉はすらすらと続く。
「忘れたとは言わせません。忘れられるはずがない。あなたは計画を捨てて逃げようとした。そして逃げおおせました、まんまとね。それから我々はまたあなたを見つけ出すまでとんだ無駄な時間を食わされたというわけだ。しかしあの時、何が起こりました? そう、忘れられるはずがない。あなたが逃げ出したために、あなたの奥さんは死んだんです」
「殺したのは、お前たちだろう!」
 ばん、という不意の激しい物音と怒鳴り声とにマリアは扉の後ろでびくりと肩を跳ねさせ、上げかけた声を手の中に押さえ込んだ。
「お前たちが、アンナを……」
「ええ。そこで交渉ですよ。ドクター。全てを失くした? いいえ、あなたはまだ持っているじゃないですか。大切なものを。我々が知らないとでも?」
「な、に」
 言葉を詰めるロフに、あくまで冷静に、男は言う。
「先ほども申し上げたように、我々はここに荒っぽいことをしにきたわけじゃない。それでも、あなたがどうしてもと言うなら、いいですよ。ドクター・ゼクセン。また繰り返しましょうか? 三十年前の出来事を」
 冷たい声だった。おぞ気がマリアの小さな身体を走り抜けた。押されるように窓に寄り、そっとかんぬきを外して開く。枠に手をかけ、木箱を踏み台によじ登り、最後は無理やり身体を外へ押し出した。ど、と肩から裏庭の下草の上に落ちる。すぐに立ち上がり、土も払わず灰色の空の下を走り出した。黒い服の男の声が震える胸にわんと響く。
 三十年前。
 三十年前って、とっても昔のこと? 三十年前、パパはこの街じゃなくて、どこか他の場所にいたの。ママはとっても昔にいなくなっちゃったの?
 じゃあわたしは、誰の子どもなの?
 疑問は渦を巻いて頭を揺らし、やがて心の波は問いすら忘れ、不安と恐怖に変容する。
 パパ、パパ。いや。パパをいじめないで。助けて。誰か、助けて。誰か、誰か。
 胸の中の必死の呼びかけに答えるように、言葉がひとつ浮かび上がった。

 ――俺はいるから。君と、いるから。

 静かな穏やかな言葉。マリアは背に白い翼を負った男のシルエットを強く心に描き、街の中心部へ向かって駆けた。通りを行き交う街の人間たちの間をすり抜けようとし、避け損ねた壮年の男の足にぶつかった。身体が前へ投げ出された。
 迫る石畳の地面を見て目をきつく閉じた瞬間、ふわりと身体が宙に抱きとめられた。
「どうしたの、おチビさん」
 白いコートの男が立っていた。目の奥に沈んでいた涙が一気にふきこぼれた。嗚咽の中でマリアはほとんど叫ぶように言った。
「パパ。お願い。パパを、いじめないで。お願い。助けて。パパ、パパ」
 切れぎれの言葉を喉から押し出し、男のコートの胸にすがり伏す。
「変な人たちが、おうちに来たの。パパが、おうちに、いるの」
 落ち着いて。男はマリアの背を撫で、
「外の人間が入ったのか。だから早まったんだ。闇の匂いがする。まだ、光は満ちていないのに」
 口の中で呟き、マリアの顔を離して正面から覗き込んだ。
「マリア、君のお父さんを助けることが出来るかはわからないけど、でも君がそうして欲しいなら、俺は行ってあげる。しっかり掴まっておいで」
 背の白い翼が広がった。足元に風が渦を作り、はたり、翼が緩やかに空気を叩くと、男の身体はマリアを腕に抱えて空高く舞い上がった。羽ばたきが風を裂き、街並みは見る間に後へ流れる。
 マリアは男の胸にしがみついたまま、そっと顔を上げた。灰色の空が限りなく続いていた。神の死んだ街。ここは、一体どこなのだろう。神という存在のことを、マリアは父に聞いたことがある。気高く尊い存在、全ての導き手なのだと父は言った。
 なら、なぜそう言った後、父は顔を曇らせたのだろう。神のいないこの街は、一体なんなのだろう。神は本当に死んでしまったのだろうか。神はどこにいるのだろうか?

「聞こえる」
 唐突に男が呟いた。一瞬後、マリアも耳の中に声を聞いた。やがてぼんやりと頭に家の絵が浮かんだ。父と黒服の男たちが庭に対峙していた。
「帰ってくれ。娘などいないと、言っているだろう。私はもう何もしたくない。どこにも行きたくない。この街にいさせてくれ」
「まったく強情な人だ。この状況でまだそんなことを言うんですか」
 いささか険を帯びた調で言いながら、黒服の男が腕に構えた拳銃を揺らす。
「なら、さっさと……」
「さっさと連れて行け? 行きますよ。娘さんが戻ってきたらね。ひょっとするとあなた以上に大事なサンプルですから」
「馬鹿を言うな!」
 声が次第に近付く。気付けばマリアと翼の男の身体はロフたちの立つ庭の上空にあった。ふわりと音なく林の影の中に二人が降り立ったその時、
「うああっ」
 ぱん。高い破裂音に続いてうめき声が上がった。ロフの声だった。
「パパ!」
 マリア、駄目だ。男が身を翻し手を伸ばすより早く、マリアは手の中の人形を投げ出し林の中から走り出た。黒服たちの拳銃が反射的にマリアを標的にした。先頭に立つ男の制止が一瞬遅れ、ひとつの銃口が火を吹いた。血しぶきが上がり、押され倒れたマリアの頭上に白い羽がちぎれ舞った。
「いやっ!」
 伏した男の身体に駆け寄ろうとしたマリアの身体が腕に引き止められる。ロフは血の流れる足を押さえうずくまりつつ、娘をかばうように胸に抱き寄せた。
 部下に軽い叱責を飛ばした黒服が、白いコート姿の闖入者の上に視線を落とし、
「翼のミュータント? あなたの作品ですか?」
 言う。
「ちが……」
「違う? まあ、お陰でそっちの作品は無事だった。あなたももう逃げられない」
 マリアは向けられた冷たい視線から顔を背け、父の身体にしがみついた。ひゅう。黒服の男が口笛を鳴らす。
「本当にあなたの奥さんに瓜二つだな。申し分ない完成度ですね。やあ、実に見事なホムンクルスだ」
「やめろ」
「死んだ愛しい妻の身体から造り出した愛しい娘。美しい話ですね。ドクター。その力です。我々が欲しいのは」
「やめろ!」
 淡々と繋がれる黒服の男の言葉にロフは声を荒げ叫んだ。
「なんで、そっとしておいてくれない。何もかも失くした。この子だけだ。なんでわたしたちを、この街に放っておいてくれない? 私は何もしたくない。何も見たくない。何も聞きたくない。もう、何も、何も」
 掠れた言葉が地に落ち溶けていく。……ない。マリアはかすかな音に首を振り向かせた。倒れた白いコートの男の唇が途切れ途切れに動くのを見た。
「いけない、それ以上……。囚われる……闇が……」
 ざわり。
 男の言葉の終わりを待たず、大気が色を変えた。風が動きを止め、影が、闇が、蠢いた。
「何をしたっ?」
 黒服たちが拳銃を構える。地から闇が伸び上がり、無数の黒い手が男たちを、ロフを、そしてマリアを掴んだ。辺りを包んだ闇が四方から声を発した。
「時ヲ捨テシ者」
「背徳ノ魂」
「我ラハ来タ」
「我ラハ来タ。オ前タチヲ連レニ来タ」
 ざわり。闇が膨らむ。ゆるりとロフは首を振る。
「オ前ガ呼ンダ」
「呼ンダ。ダカラ来タ」
「オ前ガ選ンダ。終ワリヲ選ンダ」
「街ニ融ケタ」
「何モナイ。闇」
「闇。死モナイ。生モナイ。永遠」
「オ前ガ我ラヲ呼ンダ。ダカラ来タ。来タ。来タ。来タ。来タ」
 闇は次から次へと懐から手を伸ばし、掴んだ身体をその中に呑み込もうとする。黒服の一人が身をよじって手を振り払い、闇の塊に向けて拳銃を撃った。
 弾丸は闇を突き抜け、ロフの胸の中心を貫いた。
 こぽ、と口から鮮血が溢れる。パパ。少女の悲鳴が上がる。
「馬鹿、なんで撃った!」
「う、う、うわ、あ、あ」
 叱咤に言い訳の言葉は返らず、代わりに叫びともつかない掠れた声が上がる。ざわり、空気が沈んだかと思うと、黒服たちの立つ地面がすっぽりと円形の闇に覆われた。声。
「オ前ラハ違ウ」
「違ウ。コノ街ノ者デハナイ」
「去レ」
「去レ」
 地面に開いた闇の大穴に男たちの身体が沈んでいく。円の縁が持ち上がり、内側に高い波を寄せ悲鳴と叫び声を呑んだ次の瞬間には、そこにあるのは黒い闇だけになっていた。
「パパ! パパ!」
 マリアは声を張り上げ父を呼んだ。荒い息をついて座り込んだロフの身体は今しも闇の懐に呑み込まれようとしている。
「いやっ。やめて!」
 それを引き止めようと懸命に身をよじるが、マリア自身も黒い手に掴まれ、次第にロフから引き離されていく。闇の塊が言う。
「背徳ノ魂」
「オ前ヲ連レニ来タ」
「いや。わたし行かない。行きたくない!」
 マリアの叫び声にぴくりとロフの身が揺れ、顔が上がった。
「パパ!」
「マリア」
 必死に手を伸ばす小さな娘。
 亡き妻と同じ色の髪。同じ色の瞳。青色。空の青色。
 駄目だ。
「待て、違う。その子は違う。その子は連れて行くな!」
「背徳ノ魂」
「虚ノ命、連レニ来タ」
「違う、背徳者は私だ。その子はまだ、その子にはまだ」
 蠢く闇はロフの言葉に身じろぎもせず、膨れ、伸び上がり、幼い少女の身体に爪を立てる。
 ――祈れ。
 不意に、頭に声が鳴った。
 ――祈り、願え。偽りなきその心を。
「神よ!」
 口にのぼる血など構わなかった。残る力を振り絞り、ありったけの声を上げ叫んだ。
「神よ、もし、もしまだ世界に在るなら、どうかあの子だけはその手にお救い下さい。マリアに光をお与え下さい! あの子はまだ生きたいんだ。私は、あの子を生かしたいんだ!」
 大気が裂けた。闇が力を緩めた。ざわり、蠢く黒の敷布の上に、純白の翼を広げた男が立った。
 彩光が舞い、闇の手がするりと影の中に引き戻される。マリアは震える足でゆっくりと男に歩み寄った。男はその肩を手でそっと包んだ。暖かな手だった。
「光は満ちた。この子は連れて行かせない」
 男は地にうずくまる闇の塊に向かい、決然と言った。闇が蠢き、声を発する。
「光?」
「ソレハ虚ノ命」
「光ヲ抱クハズガナイ」
「じゃあ、なんで俺がここにいる?」
 男の問いに闇は沈黙を返した。
「なんで、俺は生まれた?」
 男が問いを重ねる。ざわり、闇が蠢く。
「選ンダ。道ヲ選ンダ」
「ソノ魂ガ選ンダノカ」
「そうだ」
「ダガソレハ背徳ノ魂ダ」
「そう。そうかもしれない。それでもこの子は俺を得た。俺はこの子を得た。この子は時を掴んだ。連れて行くことは出来ない。深淵へ還れ。闇の使いたち」
 大気が色を戻した。止まった風がまた吹き始めた。闇と影は収縮を始めた。
「判ッタ」
「我ラハ去ル」
「行ケ」
「行ケ。光ヨリ生マレシ者。アトハ、オ前ノ仕事」
「オ前ノ仕事」
 闇の底に還っていく黒い塊は囁きを木霊のように残し、かすれ、しぼみ、やがて消えた。マリアは男の足を離れ、地面に横たわる父親の隣にしゃがみこんだ。
「パパ」
 しんと、静寂が鳴る。
「パパ」
 繰り返す呼びかけに、返事は返らなかった。少女は首をひねって男を見上げ、震える唇で尋ねた。
「……パパ、行っちゃったの?」
 男はマリアの傍らにしゃがみ、お母さんのところにね、と言った。マリアは男の白いコートにしがみついて泣いた。
「彼は愚かな人だったかもしれないけど、愚かな父親じゃなかった。幼過ぎて形に出来ない君の光を、言霊にして俺に渡してくれた。……泣かないで、おチビさん」
 マリアは泣き止まなかった。泣きながら、口の中でパパ、と繰り返した。男は少女を抱きしめ、ごめんね、と囁いた。
「ごめんね、マリア。人形は直せても、命は直せないんだ」
 そっと身から少女を離し、
「そう、忘れていたね」
 言うなり両の手のひらを空に向けて差し出すと、その上にすとん、と虚空から布で出来た人形が落ちた。はい、と差し出す。マリアは受け取った人形を強く抱きしめた。
「さあ、マリア。そろそろ時間だ」
 言われ、マリアは涙につかった顔をさらに歪めた。
「さよならするの?」
 誰に告げられたでもなく、少女はその瞬間を悟った。うん。男が頷く。
「いや。……いや」
 きゅっと白いコートを掴む。ありがとう。男は笑んで、
「大丈夫だよ。マリア。俺は君といるよ。俺の存在は街に還るけど、俺は、ずっと君といるよ。だって、俺は君から生まれたんだから」
 穏やかに言う。詩のように歌のように言葉が紡がれる。
「だからマリア、覚えていて。ほんの少しだけでいい。俺のこと、忘れないで。君が覚えていれば、俺はいつでも君の事を助けてあげられる。いいかい、忘れてはいけないよ。俺は希望。俺は願い。俺は君の光から生まれた天使。俺の神は君。だから、俺は君に祝福を与えてあげる」
 男がそっとマリアの額に口付けると、ぷつりと糸が切れたように辺りの景色が崩れ融け始めた。全てが灰色の空の中に還り始めた。その向こうから、馬車の走る音がかすかに聞こえてきた。男は立ち上がった。
「もうすぐ君の叔母さんが、君を探しにやってくるよ」
 男は立ち上がり、幕の終わりを告げるかのように純白の翼をはたりと閉じた。その姿が街の背景の中に薄れていく。紡ぐ言葉は風になり、穏やかに少女に吹き寄せた。
 いいかい。怖がらないで。覚えていて、おチビさん。俺の向こうには、未来があるから。

         ○

「この辺りには妙な噂ばかりあるんですよ」
 馬に鞭をくれながら、御者は後ろに座るブラウナー夫人に語りかけた。
「人が神隠しに遭ったり、でかい街が蜃気楼みたいに出たり消えたりするとかね。しかし嫌な天気だなぁ! さっきまで日が出てたはずなのに、こう灰色の雲ばかりときちゃ。なんだってこんな辺鄙なところに来なすったんです?」
「ええ……人を探しにね」
 夫人が答える。そりゃ大変だ。御者が上っ調子に返す。
「なんせだだっ広い場所ですからね、家をひとつ探すんだって骨が折れる……や、や」
 言葉尻を落とし、御者は手綱を引いて馬車を止めた。
「どうしたの?」
「いえ、人が倒れているように見えたもんで。や、間違いない。ありゃ女の子だ」
「まあ」
 御者と夫人は馬車を降りて荒れ野に立ち、倒れた少女のもとに走り寄った。汚れた黒のスカートドレスを着、銀色の髪を二つ頭の上に結っている。腕に布で出来た人形が抱きしめられている。夫人がそっと抱き起こすと、少女はゆっくり目を開けた。青色の瞳だった。
「お嬢ちゃん、大丈夫かい?」
 横から御者が声をかける。少女はきょとんとして頷いた。夫人が尋ねた。
「あなた、お名前は?」
「……マリア」
 マリア。夫人はその名前を噛み締めるように繰り返した。確信を胸に、もうひとつ尋ねた。
「マリア、あなたのお父さんは?」
 少女はくしゃりと顔を歪めた。パパ、行っちゃったの。ママのところに、行っちゃったの。小さな声でそう語る少女のか細い身体を、婦人は腕に強く抱きしめた。
「マリア、私と一緒におうちに帰りましょう」
 こくりと少女は頷いた。

「そのお嬢ちゃん、どうなさるんです?」
 馬車に戻り、御者は興味深げに後ろを振り向きながら夫人に問いかけた。
「私が家に引き取ります。間違いありません。この子は、私の兄の娘なの」
 朝目を覚まし、不意に兄のことを思い出した。高名な生物学者でありながら、戦中に軍事組織を逃げ出したことで 一生を追われる身となった兄。五年前のある日突然ブラウナーの屋敷を訪れた兄は、小さな赤ん坊を腕に抱いていた。引き止める夫人の声に首を振り、赤ん坊を抱いてすぐに屋敷を去った。荒れ野に入る姿を最後にその行方は知れなくなった。
 目を覚まし、兄の抱いていた赤ん坊の顔を思い出した。銀色の髪。青い瞳。三十年前に死んだ妻に良く似た顔立ち。何かが呼んだ。おいで、彼女はここにいる。現実のものとも思えぬその言葉にせきたてられるように、婦人は馬車に乗り、荒れ野を目指した。
 兄は赤ん坊をマリアと呼んでいた。見つけた少女は、自らの名をマリアと語った。銀色の髪に、青色の瞳をしていた。彼の妻にいっそう良く似ていた。
「そう、娘」
 彼の何より愛した女性から生まれた命。彼の娘。
 その生がなんとそしりを受けようと、少女の魂に罪はない。
「じゃあ姪御さんで! へえ、へえ! そりゃ見つかって良かったですねえ!」
 陽気な御者の声に少し気が晴れる。と、婦人の膝の上で目を閉じ眠っていたかに見えた少女が、不意に声を発した。
「わたし、歌が聴きたい」
「歌?」
 おうむ返しに問うと御者の方が先にその言葉に反応し、
「歌といえばねえ、この辺りに伝わってる変な歌がありますよ。
 静かな曲でね、子守歌代わりにはちょうどいいかもしれない」
 そう言って、歌いだす。

 誰かが言った。神は死んだ。
 ここは神の死んだ街。
 灰色の空。灰色の言葉。
 闇。光。集い、生まれ、消え、巡る。
 灰色の街。永遠の街。
 誰かが言った。神は死んだ。
 ここは最果ての街。最後の灯。
 尽きれば闇が手を伸ばし、灯れば天使が目を覚ます。
 見よ、神は汝の心。
 見よ、神は汝の光。
 希望。絶望。集い、生まれ、消え、巡れ。

「不思議な詞ね」
「まったくで……や、ようやく日が差してきましたよ」
「ほんと」
 窓の隙間から入った光が少女の胸に落ち、ひらり、何かが輝きを返した。
「あら、この人形、羽を髪に挿して」
 少女の抱く人形の毛糸の髪に、小さな白い羽がからんでいる。夫人はそれを用心深く手に取り上げた。純白の羽だった。窓の外に放そうとし、少し考え、手を引いてまた元通り人形の髪に挿し直した。
 日の光を手で受けながら、御者が陽気な声で言う。
「やあ、やっぱりこのぐらいの天気でなきゃ」
「ええ」
 頭上に広がる空の青色を知らず、少女は夫人の膝の上でまどろんでいる。


 fin.
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 会誌より再録。揺らぐ神の視点が難しかった。
 実は「白コート+白マフラー+黒髪+黒グラサンの男&黒スカート(ワンピース)+銀髪ツインテールの少女」というコンセプトが先にあった完全ヴィジュアル先行作でした。グラサンはあんまりだったので消去に。

<06/03/28>
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