コーヒーに一さじの歌を


 hymns.
 その作品の題名を見た時まず初めに俺がしたことと言えば、使い古した英和辞書を引っ張り出して単語の意味を調べることだった。
 hymn――四文字のアルファベットの隣に赤で<発音注意>と書かれている。同音は[him]。つまりカナで表すなら「ヒム」。その複数形で、「ヒムズ」ということになる。
 名詞。意味は、聖歌・賛美歌――

           ◇

「大塚じゃないか」
 後ろで聞こえた言葉は確かに俺の名だった。俺が振り向かなかったのは、自分の名が大して珍しいものでなかったのに加えて、そこが馴染みのない土地の馴染みのない場所だったからだ。
 なもので、いきなり肩を掴まれた時にはまさに飛び上がるほど驚いたのである。

「やっぱ大塚だ。久しぶりだなあ」
 でかいと言うか、長身のがっしりした男だった。俺は手を跳ね除けるようにして乱暴に振り向いていたが、気を悪くした様子もなく笑いを浮かべている。
 三秒ほど見詰めたが、名前が浮かばなかった。記憶力が悪い自覚はあった。そんな家系だった。
「失礼ですけど――
「あ、もしかして憶えてないか? まあ三年ぶりだしな。……まさかこっちが間違ってるわけ、ないよな。えっと、大塚、だろ? 名前」
 頷く。男は続けた。
「ほら、宮校の。オレだよ。ヤ・シ・ロ」
 宮校――岸野宮高校。俺の出身校である。内部の人間しか使わないその愛称が男の口から出てきた事で、頭にぼんやりと光が差した。
「ヤシロって、あの、ヤシロか」
「そう。神社のジャじゃあなくて、弓矢のヤに代用のダイで、矢代」
「……」
「あ、なんだよ」
 吹き出した俺に『矢代』が眉根を寄せる。
 初めて顔を合わせたのは五年前の春。その時もこの男は椅子を前後にがたがたと揺らしながら自分の名を今と全く同じように説明し――そして言い終えかけた瞬間、言葉の最後の「ろ」の音を引きずりながら、椅子ごと勢い良く後ろにぶっ倒れていったのだった。

「……ふーん。そういうことか。オレの名前は思い浮かばなかったくせにどうでもいいことは憶えてるねお前」
「ま、忘れたくても忘れないよな。一日でクラスの人間全員に名前覚えられてただろ。あのせいで」

 大塚これから用事あんの? 
 いや、別に。
 じゃあ、どっか入ろうぜ。
 そんな簡単なやり取りのあと入った喫茶店。俺の前にはホットコーヒー。矢代の前にはアイスコーヒー。そういえばこいつえらく猫舌だったな、緑茶とかぬるくなってから一息に飲みやがんの、などと奴の言う「どうでもいいこと」ばかり思い出される。
「で、最近どうよ。大学とか」
「え? 別に普通」
「ふうん」
 久々の再会という大層な題名の割に、弾んでいるのかいないのかよくわからない会話。昔からこんな感じだったような気もする。三年間の学校生活の中で、まあ、一番仲がよかったと言える友人。親友? その言葉の境目がどこにあるのか、俺はいまだに知らないが。
「大学、この近くにあったか?」
 ごく普通に違う大学を受けて、ごく普通に卒業して、ごく普通に疎遠になっていた旧友の進んだ先を思い出しかねて――なにぶん俺は記憶力が弱い――尋ねた。
「や、違う。バイト」
「そうか」
「つーかさ」
 からん、とグラスの中の氷を回して、
「オレさ、大学辞めたんだよ」
 出た言葉は、なんとも軽く響いた。
「……なんで」
 今日び大学中退なんぞという言葉は珍しくもなかったが、目の前の男の人柄とはどうも重ならなかった。それほどランクの低い大学でもなかったような気がする。
「んー。まあ色々なあ」
 それは説明を渋ると言うより面倒な話を避けたがるといった口ごもり方。
「じゃあ今プー太郎か」
「フリーターって言えよ」
「同じだろ」
「まあな」
 それ以上は尋ねなかった。まあ色々あったんだろう、ただそう思って納得した。余計な詮索も面倒な話も好きじゃなかった。

 しばらく話をして、んじゃ、またな。ああ。三年越し――実際は二年と少しだったが――に会ったとはとても思えないほどあっさりと別れた。何かあった事と言えば携帯の電話帳に互いの名前が増えたぐらいだ。大してものにこだわらない俺でさえ、別れて数歩、あんな簡単な対応で良かったのかと首を傾げていた。
 馴染みのない土地。馴染みのない場所。俺はたまたま大学の友人との付き合いの帰りにそこを歩いていて、バイトとバイトの隙間の時間でぶらぶらしていたらしい矢代が俺に気付いたのは、たまたま俺が高校時代から持っている目立つ色のジャケットを着ていたからだった。
 縁は異なもの、と言っていいのかどうか、深く考えもしないのでわからない。だが結果論として、高校の時の友人と集まって騒ぐだの、二人でだらだら呑むだの、それ以来気付けば頻繁に会うようになっている。首を傾げるのもいい加減に馬鹿らしくなって、やめた。

「幸福の定義ってなんだと思う」
 矢代は一見して賑やかな男である。そして実際に賑やかな男でもある。良い意味でも悪い意味でも行動力があり、友人達と集まると騒ぎの中心になるのは昔から大抵この男だった。
 だから、こいつが実は「語り屋」であることを知っている人間は意外に少ない。
「幸福の定義?」
 尋ね返すと、矢代はグラスに口をつけたまま そう、と頷いた。
 バーと言うほど洒落てもいない行きつけの酒呑み屋。薄い照明の下寂れた狭いカウンターは、男二人が馬鹿話をするのに丁度いい。
「さあ」
「少しは考えろよ」
「そんな唐突に聞かれてもな」
「いいから」
「……地味に生きる」
「薄い幸福だなー」
 だいたい、地味ってなんだよ。矢代が言う。適当に出した答えに突っ込まれても返す言葉に困る。俺の癖だ。
「食う寝る遊ぶに満ち足りてれば幸福なんじゃないか。幸福なんて、人にも場合にもよってそれぞれだろ」
 しょうのない意見だったかも知れないが、矢代は「だよな」と相槌を打った。
「なんか哲学者だか誰かが幸福の定義について書いてたんだけどさ。議論することじゃない気もするよな」
「昔の学者は暇だったんだよ」
 哲学っていうのは、無駄に時間をかけて当たり前の事を当たり前に考える学問だ。そんな風に言った知り合いがいた。そいつが哲学を好いていないからこそ出た言葉であるし、極論だが、間違ってはいないのだろう。その善し悪しは別にして、飽き性の俺にとっては結局のところ偉大な学問であることに変わりはない。
「じゃあ幸福に必要なものはなんだ」
 揚げ足を取られてばかりも癪なので俺から尋ねた。矢代は上目で考える素振りをし、だが大して時間もかけずに、
「欲かな」
 簡潔に答えた。
「それ人間の基本は幸福じゃないってことか?」
「あ、そうなるな。そうか」
「まあ確かに必要だよな」
 持っていたところで、実際幸福になれるとも限らない要素ではあるのかもしれないが。
「お前は?」
「さあ」
「考えろってば」
「愛と勇気と少しの金?」
「チャップリンじゃん」
 矢代は笑った。

 ごく普通に連絡を取り合い、ごく普通に話をした。
 親友ってのは案外こんなものかもしれない。そう思った。

           ◇

「なぁ大塚。お前さ、宗教学とか興味ある?」
「宗教学? いや特に」
 いつもの店、いつもの席。いつもの顔にいつもの脈絡のない会話。
 偶然の「再会」から五か月あまり。日常が日常になる時間というのは案外に短い。
「つーか俺、宗教学って実際どんなことしてるのか良くわからないんだよな」
 専攻していないのだから当たり前かもしれない。矢代とて、何学部に行ったのかは憶えていなかったが、宗教学に関する所では確かになかったはずだ。その通り、まあオレもそうなんだけどさ、と矢代は言葉をひとつ置いた。
「大学に行ってた頃の知り合いに何人かいた」
「ふうん。俺の所はそんなような科目すらないからな。信仰する訳じゃないんだろ? 発生とか体系とかを研究するんじゃないのか」
「ん。一口に宗教学って言っても色々あるらしいけどな。ま、大まかにはそんなもんだろ」
「なんか日本人的な発想だよな」
 客観的に宗教を見下ろす学問なら、或いは皮肉な話であるのかもしれないが、宗教に向き合わない国民性こそがそれに相応しいように思える。――まあ、そうやってもっともらしく言ってみたところで、絶対的な客観というものはこの世に存在し得ないのだろう。人間の言葉が意思の中から吐き出される限りは。
 矢代は俺の言葉に軽く頷いたが返事は返さず、代わりに
「お前、神って信じるか?」
 恐らくこっちが本題だったのだろう、声のトーンを落としてそう言った。
 俺は考え込むと(いや、元からだと否定する人間もいるが)仏頂面になる性がある。それを見咎めてか、別に宗教に勧誘しようってわけじゃないからな、と矢代が断りを入れてきた。もとより承知の上だが、改めて言われるのも妙なものだ。笑いを噛み潰して俺は答えた。
「神か。別に俺は根っから無神論者でもないけど……それでもやっぱり、世界で叫ばれてる神は、虚像だって気がするな」
「人間の造り出したもの、か」
「ああ」
 沈黙の頭上、カウンターの中の古ぼけたテレビがかすれ声でニュースを読み上げている。銃撃戦がありました。爆撃で民間人十人が死亡しました――
 内乱、紛争、テロ。いつからその言葉の意味を理解し、いつからその言葉の響きに麻痺したのだろうか。胸を痛める暇も、いやそれどころか出来事を把握する暇もなく無機質な言葉の波は日一日と流れ込み消えていく。からと手の中の氷が崩れて音を立てるのと、矢代が「そうだな」と頷くのとはほぼ同時だった。
「それに一神教の思想はあまり好きじゃないんだよな」
 自分でも完全な偏見だと知っている。開き直りといわれても仕方がないが、結局宗教を持たない俺には偏見を抱くことしか出来ないのだ。
 地面を血が染め、その洗い水すらも泥に汚れた血で、それが全て人間が高らかに叫ぶ神の名の下に行われていると言うのなら――俺の神への目はますます濁る。
「天罰が下るかもな、俺」
「いいんじゃないか。Thinking is free だ」
 矢代は口ずさむように言った。かなり見事な発音だった。
「思うだけならタダ」
「思うだけなら自由、だろ」
 俗っぽくするな、と言葉は不満げに、だが笑いを浮かばせて矢代が言う。
 いいじゃないか。俗だって。二十年ぽっちしか生きていない馬鹿な若者二人には、俗なんて言葉が一番似合っている。原色のネオンで表面を飾るこの寂れた店のように。
「お前も思うだけで済ませてくれりゃ良いのにな」
「何の話だよ」
 俺の言葉に矢代が眉を寄せる。心当たりがないというのが一番どうしようもない。
「コーヒーだよ」
「コーヒー?」
「矢代さんお好みのアイスコーヒーだよ」
 十月も半ばを過ぎ、肌寒さが日ごとに増す季節になったにもかかわらず、相も変わらずこの男は氷の浮いたアイスコーヒーを飲んでいる。この分だと真冬でも飲んでいるに違いない。
「俺が熱いの嫌いなこと知ってるだろお前」
「知ってるけど見てるこっちが寒くなるんだよ。しかもお前、店のアイスコーヒーに薄いだの甘いだの言うしな」
 以前矢代の家で舌の痺れるほど冷えた通常の二倍三倍にも濃いブラックのアイスコーヒーと鯖の缶詰をほいと出された時にはさすがに閉口した。缶詰は他に何もなかったんだと言い訳されたが、お前のコーヒーのデフォルトはこれかと尋ねればなんの衒いもなくそうだときたものだ。
「味覚が狂ってるとしか思えない」
「わかってねえな。あれが通なんだよ」
「わからないし今後もわかる気はないな」
「ま、思うだけなら自由だからな」
 こっちのセリフだ、と返す前に、矢代は再び口ずさむようにして言葉を発した。
「コーヒーには一さじの砂糖より一さじの歌を、だろ?」
 止まる。同意を求められても、俺には頷く背骨がない。
 間にでかい三点リーダが二つほど。矢代は何度か瞬きをし、やがてわざとらしく息をついて呟いた。
「俺が味覚の狂った人間なら、お前は落としたミシン糸をその場で立ったまま引く人間だな」
「訳わかんねえよ」
「記憶とミシン糸をかけてみた」
 その言葉と先の言葉を並べて考える。転がったミシン糸の糸を引けば、その場でボビンが回るだけだ。なるほどこいつは俺の事を記憶に関して疎い人間のみならず無精者だと言いたいらしい。
 悪かったな。だが比喩は簡潔に説明なく伝わってこその比喩だろう。口に上りかけたその言葉は、長い比喩のジャックポットに免じてとりあえず飲み込んでおいた。

 ひとしきり馬鹿な話を交わして、ふと降りた沈黙にかぶる臨時ニュース。麻痺してはいても、音と映像は絶えず前で流れ続ける。
 不意に矢代が言った。
「一神教は砂漠で生まれたんだとさ」
「あ?」
「恵みのほとんどない自然の中で、人間はグループを作って生きる為の争いを繰り返す。それには強い象徴が必要だったんだ」
 団結を強める為に。
 すがる為に。
「多神教が生まれたのは、例えば日本みたいな自然の脅威も恩恵もある場所だろ。自然や物事の全てに人間は神の姿を与えたってわけだ」
「ふうん。それ宗教学なのか?」
「いや、民俗学じゃないか。割と出てくる説だと思ったけどな。まあ、オレも詳しくは知らないよ」
 そう言われてみれば倫理か何かの教科書で見た解説のような気もするが、俺の記憶を頼るのは俺自身疑わしいものがある。
「神を造らないって選択肢はないんだな」
 説の真偽よりも、その事実の方が面白いように思えた。
 遥か昔砂漠に、荒野に、草原に降りた姿の見えない神が、「0」と「1」の洪水で組み上げられつつあるこの世界で今もなお人間の胸の中に在り続けている。コーヒーだのミシン糸だの、意味のない会話が冴えない店の片隅で交わされているその瞬間に、どこか同じ地球の上で人間の心に憎悪と祝福を与えている。
 畏敬でもなく、揶揄でもなく、それは何か凄まじいことなんじゃないかと、ただそう、感じるのだ。
――大塚、思うんだけどな」
 カウンターの上に置いたグラスを両手で包むようにして、矢代は常になくひそりと言った。
「ん?」
「もし本当に、……こう仮定する時点でもう無宗教者の言葉だけどな。……もし、本当に神が存在するんだとしたら」
 結末も無くニュースを終えたテレビが吐き出す騒がしいコマーシャル。ドアの外を幾度も通り過ぎていく車のエンジン音。
 目まぐるしく流れ続ける時間の中で、この店の時計の針だけが動きを止めている。
 大塚、オレは思うんだ。宙空を見据えた矢代の言葉がぽつりとグラスの中に落ちた。


「この世界でただ人間だけが、神を見失っちまったんじゃないかってさ」


 からと氷が回る。正面に向き直った顔に笑いが浮かぶ。
 俺は言葉を返そうと口を開き――そのまま、閉じた。

 俺と矢代との会話には脈絡も山も終わりもない。昔からそんな感じだった。まるで井戸端の女同士の会話だと友人に眉を顰められたこともあった。なまじお互い酒に弱くないので、「再会」後のそれには拍車がかかった。店主の店じまいの声が会話に唐突なカンマを打つことはしょっちゅうだった。
 そんな感じが別に嫌いでもなかった。

           ◇

 だらだらだらだらと、情けない擬音がなんとも相応しいそんな付き合いが暫く続いていた。
 だが年が明けて四年生になった俺はおざなりにしていた就職活動にいよいよ本格的に向き合わねばらならなくなり、矢代も元々多く入っていたバイトを更に増やしたらしく、次第に顔を合わせる回数が減った。
 それでもその年いっぱいは長い間隔を置いて会っていたが、そろそろ十二月の尾が見えて来ようかという日、送った携帯のメールが返って来た。三回繰り返して電話に切り替えた。この電話番号は存在しておりません。短い応答メッセージ。数日後、共通の友人と共に一人暮らしをしていた矢代のアパートを訪れた。呼び鈴を鳴らしても返事はない。丁度中から出てきた隣の部屋の住人に尋ねると、少し前に引っ越したらしいとそれだけ教えられた。
 実家に問い合わせるということも考えたが、どこに仕舞い込んだかもわからない高校時代の住所録を探す気にもなれず、先送りにしたまま日は休むことなく過ぎ去っていった。いつの間にか俺は社会人になっていた。
 日常が日常でなくなった瞬間がいつだったのか、俺にはわからない。
 ごく普通にその瞬間は過去になり、ごく普通に時は流れ、ごく普通に俺はそれを受け止めた。
 慣れない生活と忙しさに紛れてカレンダーの月の数は目瞬きのうちに増え、二桁になり、そしてまた一桁になった。
 矢代との「再会」から数えて三度目の年明け。
 その冬は、良く雪が降った。

 休日の朝、欠伸を噛み殺していつものように郵便受けから窮屈にねじ込まれた新聞と郵便物を掴み出す。申し訳程度にビニールにくるまれた厚い束から雪を振り落とすと、中で見慣れない柄の封筒が飛び跳ねた。良く見る規格製品ではない横長の封筒だ。ドアを後ろ手に閉め、サンダルを脱ぎ散らかしながら逆さに取り出す。すとんと手に落ちた四角い封筒の表に手書きの文字が並んでいる。
 乱雑な筆記体から差し出しの住所を判読することはさして重要な行為ではない。消印から日付を特定することもひとまず考えない。
 ――Yashiro――
 中心に据え置かれた簡潔過ぎるそのでかい文字だけが、とりあえず、今の俺には必要な情報だった。
 新聞と他の郵便を居間のテーブルでぼんやりと煙草をふかしている父親の前にまとめてぶちまけて、俺は自室へと階段を上がった。

           ◇

『To.大塚貴弘
 突然の手紙で驚いたことと思う。考えてみればオレも友人に手紙なんて出すのは年賀状以外では初めてかもしれない。久しぶりだな。元気か……なんて月並みなことを書く前に、まず急に、そして随分長い間連絡が途絶えていたのを謝っておこう。連絡が出来なかったわけじゃない。手紙でも電話でもメールでも、こちらからいつでも連絡を取ることは出来た。それなのにしなかったのは、まあ、無精の成せる業とでも思って笑ってくれればいい。
 そういえばお前、貴弘って名前だったんだよな。いつも苗字で呼んでたもんだから、わざわざ家に国際電話をして名簿で漢字を確かめる羽目になった。いや、そんなことはどうでもいいんだけど――

 相変わらずの語り調子。そこにあるのは平面な紙と平面な文字だけだったが、俺はあたかも立体の矢代本人と対話しているような錯覚を覚えた。
 唯一、「無精」という言葉を矢代が自分に使っていることが妙におかしかった。どちらかと言えば、という前置きすら必要なく、その言葉が似合うのは俺だった。
 見覚えがあるようなないような、封筒の表書きとは違い割に整った大振りの文字。アイロンでプレスしたようにきっちりと折られた便箋はだいぶに厚い。俺は戸をすぐ抜けた所に止めていた足を再び動かして部屋の明かりをつけ、古びたキャスター付きの椅子に腰掛けた。あの店に行って読んでやろうかとしょうもない演出も一瞬考えたが、生憎日曜は開いていなかったので、とりあえず格好だけ合わせておいた。

『いざ紙に向かうとなるとなかなか言葉が見つからないもんだな。まあ、ともかくあの後オレが何をしてたかを先に書くことにする。
 オレが偉い数のバイトをやってたのは知ってるよな。何の為に金を溜めてるのか理由を聞かれたこともあったような気がする。この手紙の様相を見て大方予想はついていると思う。オレは今、海外にいる。連絡がつかなくなってからずっと溜めた金を使って世界中、というのも大げさだが、色々な場所を回ってた。唐突な話で一体なんだと思われるかもしれない。それでも、ずっと前から決めていたことなんだ。途中で何度も後悔したり感動したり、馬鹿馬鹿しい話も数え切れないほどあった。まあ、それをここに書くのはやめておこうと思う。紙が足りないし、文章の素人の旅行記を読んだところで面白くも何ともないだろうから。
 本題に移ろう。
 いつだったか、お前と宗教の話をしたよな。もっともお前のことだからあっさり忘れているかもしれないが、オレは同じことをたまに考える。日本を出て全く価値観の違う場所に来ても、まだしつこく考えたりしている。我ながらどうしようもないと思うんだが、持って生まれた癖なんだからしょうがないよな。――話がずれてきた。はっきり行こう。実は、お前に見てもらいたいものがある。俺の書いた文だ。手紙だって文っちゃ文なんだろうが、そっちは題名のある文だ。なんて言うんだろうな。小説なんて高尚なもんじゃない。詩でもない。本当になんて言うんだろう。とにかく、一度読んで欲しい。もちろん上に書いたとおりオレは文章に関してはど素人だから、稚拙な部分が多いだろう。部分じゃなくてほとんどと言ってもいい。笑っても構わないから、読んでみてくれ。
 題名は――

 hymns.
 その作品の題名を見た時まず初めに俺がしたことと言えば、使い古した英和辞書を引っ張り出して単語の意味を調べることだった。
 hymn――四文字のアルファベットの隣に赤で<発音注意>と書かれている。同音は[him]。つまりカナで表すなら「ヒム」。その複数形で、「ヒムズ」ということになる。
 名詞。意味は、聖歌・賛美歌。
 括弧のついた一文でその作品は始まっている。

「神は在るか?」

 問い掛けに、また括弧で台詞が続く。

「我が神こそ、絶対にして全能なる方、唯一の神である」
「神は天上にある。大いなる神託を持って我ら下界の者をお導きになる」
「自然のあらゆる事物に神が宿る。嵐も大波も雷も、全ては即ち神の怒りだ」

 同じ調子で言葉が続いていく。ト書きはない。不定の何かに向けてそれぞれ異なった神の偉大を叫ぶ、これは信仰者達の言葉だ。
 やがて、並ぶ言葉は少しずつ変容していく。

「人は全て神がその手でお造りになったものだ」
「人間は結束のために神という存在を作った。地域の自然によって神の在り方に類似と相違が見られる」
「この世を全て支配するものは時。神とは時である」
「人が神の何たるかを定義するなどおこがましい」
「宗教は人が信じることによって維持される。すなわち人こそが神であるといって良い」

 或いは感情的に、或いは理屈的に、賛否の叫び。これは学者達の言葉だろう。俺と矢代が話していたような説も中に入り混じっている。
 また言葉は続く。

「我らが神を侮辱する者達を全て焼き払え」
「神がなければこの血は流れなかった」
「神は」
「神は」
「神は」
 上がる叫びが収束したところで、また異質な言葉が紡がれ始める。

 何故、気付かぬのか?

 括弧に入らない言葉。

 何故、見えぬのか?
 何故、聞こえぬのか?
 何故、知らぬのか?

 それは恐らく人間のものではない。

 何故、わからぬのか?
 何故、わかろうとせぬのか?
 何故――

 獣や鳥や虫や樹や花、地球に生きる「人以外の」全てのものの静かな叫びが上がる。

 神は。
 神は。
 神は。

 叫びが静まり、賛美歌は最後にこうくくられている。


 「神は、お前達を――


 この世界でただ人間だけが、神を見失っちまったんじゃないか。
 頭の中に矢代の言葉がリフレインした。

           ◇

『オレの中でこの文にまだ結論はつけられてない。多分、つけることもないだろうと思う。正直な所、自分が何を言いたくてこの文を書いたのか、良くわからない。それでも気付いたら書き上がっていた。誰にも見せていない。笑っても構わない。お前に送りつけるのが、一番いいような気がしたんだ。
 大塚、驚くかもしれない。そろそろ言わなきゃならない。
 お前にまだ、隠していたことがある。オレは』
 すっと頭が冷えて、心臓の音が聞こえなくなった。
 机の上で読んでいたのは確かに正解だった。
 俺はその瞬間、下手なドラマのワンシーンのように、あっさりと紙を手から取り落としていた。


『オレは、白血病にかかってる』


 いつものように簡潔な、短い告白だった。

『わかったのは大学に入ってすぐだ。お前と会ってた頃のオレは健康そうに見えたろ? 医者も驚いてたよ。でも多分、そろそろ限界なんだろう。最近良く眩暈を起こすし、こんな短い文を書くのに横にある時計で一時間と三十七分もかかった。こっちの医者の話では一か月持てばいいほうらしい。そうだ。今はこっちに住んでる親戚の家にいるから、のたれ死にってことはない。安心しろ。
 黙っていて悪かった。大学を辞めて治療も受けずに普段どおりの生活をしていたのも、金を溜めて外国を回ろうと思ったのも、偉く時間がかかったが親を説得して全部自分で決めたことだ。後悔がないと言えば嘘になるが、そうだな、いつだったか話をしたように、お前の結婚式の友人代表スピーチをしてやれないのが、かなり残念だ』

 俺の頭にはスピーチの話をした記憶なんぞない。だが矢代が言うならそうなんだろう。唐突な話は特に奴の得意とするところだった。

『お前にどうしてくれとは言わない。作品にお前なりの結論をつけてくれてもいいし、誰かに見せても読み終わってからすぐ捨てても構わない。まあ、気が向いたら実家に線香でもあげに来てやってくれ。葬式はそっちではやらないが、骨は日本に送って貰う予定だから。
 色々あったが、オレは楽しかったよ。お前のほうがどう思っているかは知らないけどな。――いつまでもだらだら続けるわけにも行かないから、この辺りで終わりにする。敬具? 手紙の正式な書き方、忘れたな。まあ、いいか。じゃあな。
 Put a spoonful of song into your coffee.   矢代啓介

 追伸。落としたミシン糸はかがんで拾え』

 そういえばこいつ、啓介って名前だったんだよな。読み終えてすぐに、そんなどうでもいいことを思った。
 外ではまた雪が降り出していた。

 一か月後、俺は高校時代の住所録をやっと引っ張り出して矢代の実家に行った。母親と少し話をした。矢代は父親似なのだろうか、あまり面影が見えなかったが、物腰の柔らかな感じのいい女性だった。線香の煙の奥の矢代の遺影は馬鹿みたいに笑っていた。

 あの後俺は矢代の手紙を捨てずに机の奥にしまい込んだ。
 神はお前達を。
 憎んでいるのか、愛しているのか。
 時々読み返すが、未だに結論は出していない。そして多分これからも出さないだろう。あの作品は、矢代が筆を置いたあの場所で完結していると思うのだ。

           ◇

 何も変わらず時は流れていく。俺は社会人三年生をもうすぐ終える。冬がまた来た。
 家を早く出過ぎたので、目にとまったコーヒーチェーン店に入った。寄ってきたウエイターに注文をする。少し怪訝な顔をされたが、すぐに笑みを作って下がっていった。
 ガラス戸に風が吹き付けている。雪が降りそうだ。こんな日には古い友人の事が良く頭に浮かぶ。
 構わないと書いてはあったが、俺がしまいこんだ手紙を他人に見せたのはその手紙が来た年に、一度だけだ。大学の親しい後輩で、矢代とは面識がない。宗教に興味があると言う真面目な女性だったので、いいだろうかと特に意識もせずに渡した。
 すると彼女は、手紙を読み終えてすぐに泣き出したのだ。
 嗚咽の中で彼女はごめんなさい、ごめんなさい、と久々に慌ててしまった俺に謝りながら言った。
 なんだか、凄く好きになったんです。この人が。
 陳腐な表現だが、まさしく涙が滝のように目から溢れ出していた。俺は何も言えなくなった。やっとそれが枯れた時には、俺は見たこともない人間の書いた手紙に涙を流した彼女のことが、ひどく好きになっていた。
 多分それは、彼女が好きだといった手紙の主の事を、俺もよほど好きだったからだろう。
 なんとなくショルダーバッグを叩いて中の感触を確かめた。小さな立方体に触れた手は小刻みに震えていた。
『柄にもなく緊張しやがって。オレのお陰だぞ。感謝しろ』
 今の俺を矢代が見たならそう言って笑うだろう。本当にその通りだった。思わず苦笑が漏れたところにウエイターがきてコーヒーを置いていった。
 湯気の立つホットコーヒー。そして、アイスコーヒー。
 暖房に汗をかいたグラスを正面にずらし、ストローの封を切って縁伝いに落とす。褐色の液体の中で氷がからからと硬質な音を立てる。ガラスの向こうで寒風が吹いているかと思うとまるで美味そうに見えなかった。
「通ぶりやがって」
 思わず口をついて出た言葉が湯気に吸い込まれて消えた。

 まだ時間はあったが何となく腰が落ち着かず、空のティーカップと少しも中身の減っていないグラスを残して立ち上がった。会計を済ませて自動ドアをくぐる。吹き付けた風にいったん首をすくめてから、振り向いて――絶句した。
 自覚はあった。それでもこれほどまでにまざまざと突きつけられたことはなかった。全く、笑ってしまうほど弱い記憶力。
 ガラス越しに見えるカップとグラス。鼻の奥が痛む。
 どこにでもあるコーヒーチェーン店。
 それは四年前の春、矢代と再会した日に入った、あの店だった。

 今日もしあいつが夢枕に立ったら伝えてやろう。
 矢代。
 お前に、結婚式のスピーチをして貰いたかったよ。

           ○

 彼女との待ち合わせの場所へ向かい、一歩一歩を噛み締めながらゆっくりと歩いた。緊張に弾み内から胸を叩く鼓動と乾いたアスファルトに靴底が立てる音が不定のリズムを作る。どこか心地よいその感覚は、俺のことだ、明日まで記憶に残っていることはないだろう。ただこの瞬間、ここにあるだけだ。
 そうだ、全部流してしまえ。残らず消えてしまえ。
 どうせいつもはきつく締まり過ぎているネジだ。たまには構わない。
 冬のこんなせわしい時期に、傍若無人に道の真ん中を歩く馬鹿な若造の汚い泣き顔なんて、誰も、見やしない。

 矢代、俺は思うんだ。
 こうして歩いている日々こそが、俺達の歌う賛美歌なんじゃないかと。
 時に誰かを愛し、時に誰かと別れ、悩み、苦しみ、涙を流し、そして笑う。結末もわからないまま歩き続けるこの道に、俺達はそれぞれの歌を刻んでいくんじゃないんだろうか。その先にいる、神を目指して。
 真面目な信仰者や学者はきっと笑うんだろう。天罰が下るかもしれない。いや。

 思うだけなら、自由だよな?

 頭の中を異常に多くの言葉が回って整理がつかない。俺は落としたミシン糸を結局立ったまま全部巻き取って、今やっと、かがんで拾い上げたらしい。
 塩辛さのおさまらない口がまた一つ、無意識に音を作っていく。

 Put a spoonful of song into your coffee.
 Put a spoonful of dream into your coffee.
 Let's think.
 So, thinking is free.

 高校時代に英語の教科書に出てきた歌だろうか。テープを聞かされてうんざりしていた大半の生徒の中で、矢代はこの歌を妙に気に入っていたようだった。

 Put a spoonful of song into your heart.
 Put a spoonful of dream into your heart.
 Let's walk.
 Walk toward tomorrow...

 良いか悪いか以前にノリなんてあったものじゃない。単純な音。単純な韻律。単純な歌詞。
 それはどこか、友人達に眉を顰められた、俺とあいつとの会話に似ていた。
 今さら遅いとは思わない。まだ続いている。俺はまだこうして歩いているし、あいつの歌はまだ残っている。きっといつまでも消えずにいる。
 手紙に。コーヒーに。俺の頼りない記憶に。

 見失ってしまったものに辿り着けるかはわからない。
 愛があるのか、憎しみがあるのか、それもわからない。
 それでも。


 俺達は永遠に歌い続ける。
 見えない明日への賛美歌を。


 ―FIN―
後書きを表示する
 部誌より再録。色々と書きたいことがあったのですが、消化しきれない部分も残ってしまい……
 高校在学時に書いたため大学の事を色々勘違いしていたりして、微笑ましいと言うかなんと言うか。

 新入生に課されたお題(ただし管理人はお題発案者の1人)5つのうち3つ「鯖缶・九十七分・ミシン糸」を元から形のできていた作品に無理やり使用。作者の中では、同じく5題話として書いた『DISTANCE』の発展系のひとつという位置付けの作品でもあります。

<04/06/15>

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