憂鬱なベートーヴェン


 友人は神経質だった。
 いつも眉間に深い皺を寄せ唇を一文字に引き結び、太い眉の下の目でじっと空を睨んでいた。周りの人間たちはドイツの偉大なる作曲家、そして肖像画界の偉大なる渋面者の名になぞらえ、彼のことを「ベートーヴェン」と呼んだ。

「ええ。彼は学生時代からの親友でした」

 友人は神経質だった。異常なまでの神経質だった。
 クリスマスの夜、彼は弾丸に身を貫かれて死んだ。
 来るべき時が来たと私は思った。

「仰る通り、彼は極度の神経症でした。……ええそうです、『音』だけにです」

 出会った時から彼は『音』に対して非常にデリケートな人間だった。繊細という言葉よりは、過敏という言葉のほうが似合っている。他人が気にも留めないようなかすかな音にさえ彼は鬼の形相を作って耳を塞いだ。そう彼はその輝かしい二つ名とは裏腹に、音を愛するのではなく嫌悪していた。憎悪していたと言ってもいい。周りにある全ての音が彼の敵だった。
 幼い頃からだという彼の「音嫌い」は在学中にも悪化の一途をたどり、やがては彼を形作るものの一部とさえなった。この世のあらゆる音が彼を苛んだ。鳥のさえずりも、木のざわめきも、浜に寄せる潮鳴りも、彼には間断なく続く拷問だった。

「どんな音が、ですか。そうですね。予期出来るような、たとえば面と向かった相手の話し声や、自分が立てる音なんかはね。まだ大丈夫なようでした。一番嫌っていたのは自分から離れた音でしたね。不意の音です。それでも一瞬の音なら苦に感じる前に消えてしまう。だから、絶え間ない音。例えば時計の秒針の音や、川のせせらぎや、夜の風の音……そのようなものをとても嫌っていましたよ」

 音嫌いは彼の身体や精神にまで変調を及ぼすようになった。彼は食事の最中、酔って口の締まりがゆるくなったひとりの友人の咀嚼音に嘔吐した。油の切れたぜんまいの回る古い置時計を手元の火かき棒で叩き壊した。指で机を鳴らすのが癖だった老教師に殴りかかり、すんでのところで退学を免れた。
 一人また一人と友人たちは彼から離れていった。二年次の半ばには彼と言葉を交わすのは私一人という有様だった。私はクリスマスに彼に水時計を贈った。ガラスの容器を返すと色の付いた飴状の粘体が流れ落ちる仕掛けになっている。時計を受け取った彼はその気難しい顔を緩め、無言で私に手を差し出し、私も無言でその手を握り締めた。
 卒業後、私と彼は学生時代からの夢であった同じ道を、作家という道を選んだ。彼は鍵盤ではなくペンを手に、全く音を立てずに紙に文字をつづって創作にいそしんだ。そして大成した。同時に賞を取った日の夜、私たちは二人でささやかに祝杯を挙げた。

「今でも良く覚えています。ええ、その作品です。読んで下さったとは光栄ですね。本当に、あの時は最高の気分でしたよ。彼も……あの時は」

 作家としての成功の裏で、彼の音への神経症はますますひどくなっていった。日に日に眉間の皺は深く目の下の隈は濃くなり、発狂寸前の精神状態を何度も私に訴えた。彼の家にはいくつもの破壊の痕が残っていた。暴力事件を起こして警察沙汰になったこともあった。人は彼の作品を愛し、しかし彼を恐れた。偉大なるベートーヴェンは華々しい賞賛の声を受けながら深い孤独と憂鬱の中にいた。
 そしてついに彼は、両耳の鼓膜をペンで突き破った。
 素早い治療の甲斐あって後遺症もなく傷は治った。しかし彼のたっての希望で鼓膜は再生させなかった。そうして彼は待ち望んでいた無音の世界の住人となった。

 友人は神経質だった。
 クリスマスの夜、彼は弾丸に身を貫かれて死んだ。
 来るべき時が来たと、私は思った。

「来るべき時が来た、と?」
「ええ」
 私が答えると初老の刑事はたくわえた口髭に似合わない丸い子供のような目を開き、数度瞬かせた。何か問いたげに口を開きかけてすぐに閉じ、
――まあ、順を追ってお話を伺いましょう」
 言って傍らの書記役の刑事に合図をする。普段なら紙の上に作るようなシーンがこうして目の前にあることに私は少し愉快な気分だった。
「昨夜、あなたは氏とここで、つまり氏の自宅で一緒に食事をしていらっしゃった」
「ええ。クリスマスには必ず彼と食事をするんです。昔からの習慣でね。今年は仕事の都合でイブの夜になりましたが。食事といっても、まあ酒を飲み交わすぐらいです」
「その時、氏の様子は? どんな話をされましたか」
「特に普段と変わりありませんでしたね。話も毎年大したことはないんですよ。単なる世間話や家族の話であったり、学生時代の思い出話であったりね。いつもそんな感じでした。今年も同じでしたよ」
 書記役の刑事が紙にペンを走らせていく。友人の寡黙な書き方と違い、がりがりと大袈裟な音が鳴る。その音が途切れるのを待って初老の刑事は言葉を続ける。
「あなたは食事をしてから夜の十一時過ぎに氏の家を出て、まっすぐご自宅に帰られた」
「そうです」
「そしてその三時間後、二十五日の午前二時、氏が拳銃で撃たれて亡くなった」
 言葉を切って刑事の目が私の顔を見た。一見は子供のようだが、確かに刑事として長い年月を経てきた目。故人と最も深く、唯一と言っていい親交を築いていた、そして死亡時刻の数時間前まで故人と共にいた、紛れもない第一容疑者の胸の内を看破しようとする目だ。
「枕元に置いていたらしい拳銃は氏の持ち物で――
 刑事が続ける。
「指紋も氏のものしか付いていませんでした。こう、引き金を握った状態の指紋がね。自殺と断定してしまっても構わないような状況なわけです」
 右手で拳銃の形を作って自分の身に当てる格好で言い、しかし、とさらに言葉を繋げる。
「遺書はまだ見つかっていません。そして、氏はあなたと別れてから寝るまでの間に、電話で執筆に使う紙の発注をしています。これから死に赴こうとする人間の行動としてはとても考えられない行為ではないですか?」
「そうですね。その通りだと思います」
 数秒の沈黙。刑事は上体を倒して前かがみになり、おもむろに口を開いた。
「何年か前に盗作騒ぎがありましたな」
 氏が、あなたの作品の内容を発表直前に盗用した。大傑作と謳われた話を。勿体ぶった口調で刑事は言う。
「ありましたね」
「それからもあなたは氏と変わらずお付き合いなさっていましたが、真相は、どうだったのですか」
「偶然ですよ。学生時代にもそれからも色々と同じようなものを見ているわけですからね。互いの作品も読み合っていますし、作風は違っても発想が似通うようなことはままありますよ」
 笑って返しても刑事の眉は寄ったまま動かない。そしてさらに言葉が続く。
「単刀直入にお伺いします。ご友人の死は、自殺だと思いますか。他殺だと思いますか」
 ペンが止まるのを待ってから、

「自殺ではありませんよ」

 言うと、再びペンの音を紙に響かせることなく書記役の刑事もその目をこちらに向けた。
 ほう、と初老の刑事が声を漏らす。
「それは、何故?」
「彼は自殺なんてするような人間じゃない。敬虔なクリスチャンでしたしね」
 自殺は禁忌ですな、と既にそれに関する調べはついていたのだろう、刑事は頷いた。
「では、あなたはご友人の死は他殺だと」
「ええ」
「では誰が、氏を殺したと?」
 鋭くなる刑事の視線に一呼吸を置いて答える。
「音が」
「音?」
「ええ、音です」
 二人の刑事は再び怪訝な顔をした。そのはずだろう。しかし故人は耳が、と初老の刑事が言う通り、彼の耳には空気の振動を伝える鼓膜がなかったのだから。
 血の巡りが悪くなった足を逆に組み直してから、私は眉を寄せている刑事に尋ねた。
「刑事さん、ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンをご存知ですか?」
 いかにも芸術に疎そうな初老の刑事は、口髭をひねりながら、まあ名前と有名な曲ぐらいは、と答えた。
「良く知られた話ですが、かの作曲家は耳が聞こえませんでした。完全に聞こえなかったわけではなく、難聴だったとも言いますがね。そんな人間が、どうして偉大な音楽家たり得たかと思いますか。耳が聞こえないで、どうやって曲を作ったか」
 初老の刑事はさあ、と首を傾げた。書記役の刑事が苛々と膝を指で叩いているのが見える。
「普通、音というのは空気の振動が耳の中の鼓膜を震わせて脳に認識されるものです。しかしベートーヴェンはその空気の振動を感じ取ることが出来なかった。そこで彼はタクトを口にくわえてその先をピアノに押し当て、音の振動を空気を介してではなく自分の骨を介して受け取ったのです。骨伝導と呼ばれるものですよ。もちろん、彼の場合は天才的な音楽センスによるものもあったのでしょうが、一般の人間でも日常的に行っていることなんです」
「それと氏が『殺された』ことと、どんな関係が?」
 初老の刑事が言う。書記のペンが動き出す。
「彼は確かに無音の世界にいました。しかし、本当に彼を苦しませる音は、静寂の中にこそあった」
 真の静寂ではなく、見せかけの静寂の中に。骨を通して響く音が彼を日毎に追い詰めた。
「先ほどお話したように、彼は神経症のせいで普段からひどく不安定な精神状態でした。衝動的に音を――例えば時計などを、破壊してしまうことが昔から良くあった。それだけのことなんです。彼は自殺しようとしたんじゃない。自分を苦しめる音を消そうとした、ただそれだけのことなんです。そうするしかなかったんですよ」
 彼は弾丸に身を貫かれて死んだ。撃たれたのは、胸。
「そうするしか、なかった……」
 来るべき時、全ては必然の内に。
「ええ。だってそうでしょう、刑事さん」


 誰だって、心臓の音は止められないわけですから。


          ◇

「ご協力ありがとうございました」
「どうも、釈放ですか」
 意地悪く尋ねると刑事は頭を掻きながらいえいえ、と愛想笑いをした。第一容疑者からは格下げだろう。アリバイの問題もある。こちらとしては、ともかく座り心地の良くない椅子から立ち上がれたことが有り難かった。
「邪魔はしませんから、少しだけ残っていていいですか。友人を偲びたい」
「少しならどうぞ。どの部屋にも警察がごろごろしてますがね。あ、あまり素手で物に触らないようにお願いします」
 わかっていますよ、と返し、私はリビングのドアを抜けた。

「やあ、よく来てくれた」
 玄関で白い息を吐く私を友人はそう言って出迎えた。笑顔を作ってはいるが、隠せない目の下の隈が彼の苦悩の日々を如実に表している。
「ワインを持ってきた」
 言って鞄からビンを差し出す。私たちは友人が鼓膜を失ってからもほとんど声のやり取りで会話をしていた。いや、鼓膜を失ってやっと声を出すようになった。と言うのも、大学を卒業した頃から私と友人の会話は専ら友人だけが声を出し、私の側の意思伝達は読唇と手話で行われていたためだ。今までどおりでも全く問題はなかったが、やはり私は声を出した方が話しやすかった。
 客間にテーブルを挟んで座り、ワインの栓を抜く。軽い食事に他愛ない話。毎年繰り返される同じ時間。
「家の人は元気かい」
「変わりないよ。娘は少し妻に似てきたな」
 独り暮らしの彼は私の家族の話をしては悲しげな顔になる。そうか、と俯かせた顔をワインに映していたが、ややあって、
「そうだ、クリスマスプレゼントを」
 そう言ってスーツの胸から細長い箱を私に差し出した。受け取り、開ける。黒いボディの上品な万年筆だった。
「やあ、いい万年筆だな。ありがとう。高かったろう。……いや、すまない。実は私の方は忘れてきてしまったんだ。明日必ず持ってくるよ」
「ああ、構わないさ。いつもなら明日なんだから」
 それもそうだと返す私に、
――なあ」
 ゆっくりと口を開き、しかし私が相槌を打つ前に、いやなんでもないと首を振る。毎年の同じ行動。眉間の皺の前で組んだ手ががたりとテーブルの上のガラスのオブジェを床に落とす。私はさり気なくそれを拾って立ち上がりがてら手洗いを借りるよ、と部屋を出た。鼓膜を失ってからの友人は、特に周りの物に細かく気を向けられなくなっていた。
 もう何年も通う家。リビング、書斎、客間、寝室、位置も内装も家主と同じほどに知っている。それだけではない。口に出さない彼の新たな音の苦悩も、もう幾年も前から言いかけ飲み込んできた願いも、盗作騒ぎの際の思惑も全て。

「もう十一時か。そろそろお暇するよ」
「ああ、もうそんな時間か……」
 壁の電子時計を確かめて椅子から立ち上がった私にコートを差し出しながら、
「また遊びに来てくれ。独りだとどうにも静か過ぎて……最近も良く寝付けなくてね」
 友人はそう言って眉間を指でこすった。憂鬱の皺は彫刻のように深く肌に刻み込まれ、濃い影を消すことがない。昨日よりも今日、今日よりも明日、身の内から現れ静寂にこだまする苦悩は日に日に彼を蝕んでいく。
 親愛なるベートーヴェン。玄関で向かい合わせになり、手話を使って私はいつもの別れの合図をする。声が重なる。
「聖夜に安らかな眠りがあらんことを」
「聖夜に安らかな眠りがあらんことを」

          ◇

 警官の緩やかな監視の中、客間の暖炉に身を寄せる。マントルピースの上にはあの水時計が乗っている。ハンカチを取り出して布越しに掴み、返す。粘性の水がゆっくりと渦を巻きながら落ちていく。この時計の出来事以来、クリスマスにはプレゼントを贈り合うのが習慣だった。
 目を上げると壁に真新しい傷があった。ゆうべ私が帰ってから彼が作ったものだろうか。平然を装ってはいたが、彼の精神はもはや崩壊を待つだけの状態であったに違いない。
 だが私は知っていた。友人が何を思っていたか。
 彼は神経質で、敬虔なクリスチャンで、そしてまた非常に臆病な人間だった。彼の書斎の机の引き出しに何がしまってあり、彼がそれを使うことを切望しながら同時に恐怖していることを知っていた。彼がどんな願いをもって私の作品を盗んだか、彼が毎年クリスマスにどんな依頼を持ちかけようとしているのか、本人と同じほどに、或いは本人よりも深く私は知っていた。
 彼は私を好いていた。私の家族を好いていた。だから私が犯罪者になることを恐れた。彼は誰よりも気難しく誰よりも優しい人間だった。

「これは、ここに置いていこう」

 胸に差していた黒いボディの万年筆を水時計の隣に並べる。

「最初のプレゼントと、最後のプレゼント二つ……全て同じ場所にある。なかなか洒落た話じゃないか」

 彼は自殺などするような人間ではない。彼は自分の性癖を良くわかっていた。突然湧き上がる破壊の衝動と周りに細かい気が向けられない己を良くわかっていた。突発的に自分や人を殺してしまうような物を枕元になど置いておくような人間ではない。彼は何より死を望みながら、友人に自分を殺してくれるよう心の底から願ってさえいながら、何より死を恐れていた。余程のことがなければそんなこと起こり得ようはずがない。
 例えば、奇妙なクリスマスプレゼントがなければ。
 例えば、家のことを良く知った――書斎の机の引き出しの鍵の在り処さえ知っているような親しい人間が、手洗いに行くついでにハンカチを手に拳銃を取り出して、枕元に出しておくようなことがなければ。

 友人は神経質だった。
 クリスマスの夜、彼は弾丸に胸を貫かれて死んだ。
 来るべき時が来たと私は思った。


 我が親愛なる憂鬱なベートーヴェン。

 君に永遠の静寂があらんことを。



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 部誌より再録。いまいちジャンルがはっきり致しません。そして相変わらず警察の描写に難……

備考>執筆後、当作品がテレビ放送された(いつのかまではわからないのですが)「世にも奇妙な物語」の1エピソードに筋が酷似しているというご指摘をオンオフ共に頂きました。
 作者は当該の番組を見ておらず、盗作としてこの作品が書かれたものでないということを念のためお断りしておきます。あまりひねりのない話とは言えこういうことはあるのですね。精進精進。ちなみにオチは違うのだとか。

<05/02/13>
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