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        ◇

 いつもの席、頭の上からいつもの声。
「うちのクラスのセキ君が塾をサボっていたいけな少女を手篭めにしてるって噂があるんだけどお前どう思う?」
「その噂の発信源の人間の品性を疑うとともにそれを聞いて真っ直ぐ当事者のところに話を持ってきた奴を『アホか』と思うな」
 いつも通り姿勢を変えずに答えると、いつも通りのバカ笑いが降ってくる。そんな授業前のやりとりも今日は久々だった。一週間で久々と言えてしまえる己の生活には虚しさを感じないでもないが。
 塾をサボってるのは本当だろ。正面に回りこんできた松木の言葉に素直に頷きを返す。
 結局中間講評にはラフ画だけを持ってきて、舌先三寸で言い逃れた。あまりの進み具合にかえってお咎めもなかったぐらいだ。普段の上がりが早いので、風邪を引いてたのかとでも思われたのかもしれない。それから今日までずっと、予備校に来るふりをしてあのビル街に足を運んでいた。
 ひとつ息をついて松木が言った。
「お前、あんまり消えてるとそのうちあだ名がセキガイになるぞ」
「セキガイ?」
 頭の中に網の上で湯気を立てる貝の映像が浮かぶ。オウム返しにすると松木は口調をかしこまらせて、
「さらに同状態が続くと赤外線にステップアップする仕様となっています」
 そう続けた。
「可視光線からすら除外されるわけ?」
「うむ」
 勿体ぶって頷く。普段に比べれば多少はひねった命名だ。どうせ付けた本人しか使わない(上に数日しかもたない)ので意味はないが。
「赤外線ね……せめて紫外線にしてくれよ」
「なんで」
「紫外線の方が存在感ありそうじゃん」
 日焼けしたり虫殺したり、と言うと、松木はむうと首をひねって眉を寄せ、ひとこと、
「お前にそこまでの価値はないな」
「普通に考えてみた体で言うなよ」
 不満を返せばまあそれはともかく、と言い出した立場を早々に捨てて、机に出した俺のパネルを覗いて呟く。
「で、まだ下書きだと」
「何が『で』なんだか知らねえけど、仰る通りに下書きだよ」
 弁明する気力もなく、鉛筆の線が走るパネルを叩いて答えた。その進度は中間講評のときと大差ない。結局講評後に消し跡でぼろくなった紙を張り替えて描き直し始めたので、むしろ後退したと言ってもいい。キャンバスの中心に張り付いた十字の枠にはいつまでも青が載らず、十字の夏空はあのビル街に浮かんだまま、手の中に落ちては来ない。
「なに? アーティストブルー?」
 しげしげと灰色の線だけは緻密な下絵を眺める松木の口から、また耳慣れない語が場に放り出される。
「なんだそりゃ」
「絵描き特有の悩み」
「絶対それお前の造語だろ」
 ああともいいやとも言わず、松木は隣の椅子に真っ直ぐ腰を下ろし、
「君が絵を描く理由はなんですか? 赤口くん」
 ごく唐突に、そう言った。
 思考の波が一瞬スローモーションになる。開いて閉じてまた開いた口の端からぼろりと言葉がこぼれる。
「……そこに画板と絵の具があるからさ」
「生まれてからこれまでに聞いてきた棒読みの中で一番の棒読みだな」
 なんともシャクな顔であー、と松木がため息をつく。確かにしょうもないセリフだったのは認めるが、こいつがアホだと知ってなければ脳天に渾身のチョップをかましているところだ。
 それが絵描きの悩みかよ、と問うと、さあ、と返る。お前が言い出したんだろ。そうだけど。話を進めろ、話を。んー、覇気のない音を喉で鳴らして、松木のいわく。
 ――誰でも一度は考えるんじゃないかと思ってさ。
 そんなもんか、と言葉を返してから、俺は、と頭を巡らせてみる。考えたことがない。少なくともその記憶はない。ガキの頃はサッカーが好きだった。中学に入るとなぜか美術部に所属していた。高校の半ばから気付けば美大芸大の要綱ばかり眺めていた。多分その事柄に関しては、二部構成の俺の頭の半分は働かなかったんだろう。
「大した理由なんて要らない気もするけどな」
「そんな大層な理由じゃなくてもさ……つーか、ここにいるってことはなんかしら理由があるわけだろ絶対。どっかでそれを自覚しなきゃ結局続かないんじゃね?」
 そう言って松木はまだ人のまばらな教室を見渡した。授業が始まっても、誰が決めたのだかグラスグリーンのカーテンだけが爽やかな画材臭い教室内の人間の数は、春の時点より減っている。
 美大の受験は一浪二浪が当たり前だと言われている。それでも一度目の失敗の時点で諦める人間は少なくはない。ドロップアウトする予備校生は、ちょうどここ最近の俺のように少しずつ授業に顔を出さなくなり、気付くと消えている。
「別にやめようとは思ってないけど」
 週六日、長期とは言えない休み、課題、課題、課題。根気がなければ続かないのは確かだが、頭のどちら側もまだ不平を訴えてはこない。それは理由があるということだろうか。俺の記憶中枢はそんな大事なはずのもんもどこかに置き去りにしてきたんだろうか。
 駅のコインロッカーにでも残ってりゃいいのにな。それでこの空に色が入るなら、超過料金も惜しくはない。
「お前の作品、割と評判いいじゃん。俺はいいと思うけどな」
「『磨けば光る』と言われ続けて七年てとこだな」
「うちに大量に余ってる水やすり、今度持ってきてやるよ」

 重い腰を上げて来た日に限って教諭の都合で昼前に授業が終わり、松木に捕まって近くのラーメン屋に入った。学生御用達の量は多いが味はそれほどでもないラーメンをすすりながら、俺は十字の空に流すべき青を想像しようとした。だが頭に浮かんだ青は深い夏空のそれではなく、ビル街の灰色の風に揺れる、軽いパール・ブルーだった。
 俺はいつの間にか人魚姫と三途の川の話をしていた。
 取り止めもない発想を聞いて、水を指すんだけどセキ君、おもむろに松木が言う。
「三途の川って歩いて渡れるぐらい浅いぞ」
「マジ?」
「棺桶に入れるじゃん。川を渡る時に使う杖」
 なんか金払って船で渡るんじゃなかったか? それはギリシャ神話だろ確か。覚えててもズレてちゃ意味ないですねセキガイ君。
 馬鹿なやり取りが引っかかって、気付くと俺は真っ直ぐに帰るつもりだった足をビル街に向けていた。
 以前ほど暑さは感じなくなったが、相変わらず狭苦しいビルの隙間に潜る。十字路にワンピースの少女の姿はなかった。椅子を持ってこなかったので、いつもサキが座っているパイプ管に腰掛ける。良くこんな硬くて安定の悪いところにずっと座ってられるもんだ。
 そのまましばらくぼうっとしていた。耳元で声が聞こえた時にはパイプから落ちかけた。
「大丈夫?」
 驚かせた本人はそう言いつつ笑っている。こっちはなんとか持ちこたえた尻をパイプの真ん中にずり上げて大丈夫と返すしかない。
「セキ君、お空の絵、描けた? やめちゃったの?」
 小さく首を傾げてサキが尋ねてくる。
「やめてないよ。理屈っぽい脳味噌の方でちょっと考えてみろ、だとさ」
 と言われても何のことやらだろう、またことりと首が傾げられた。
「今日は描かないの」
「まあ」
 ふうん、と声を口の先で鳴らしてから数秒の沈黙の後、サキはおもむろにワンピースのポケットから何かを取り出し、
「ね、私、セキ君にプレゼントがあるの」
 そう言って、握った拳を俺の顔の前で開いた。薄ぺらい掌の上に細長いロイヤルパープルが転がった。
「この絵の具、セキ君にあげる」
 にこりと少女は笑う。
「絵の具?」
 絵の具にしては妙な形だ。知らないメーカーの物かと取り上げて見ると、日光をかすめてちらちらと光った。ラメが入っている。
「ああこりゃ絵の具じゃないよ。マニキュアだ」
「マニキュア?」
「爪を飾る道具。まあ、塗るってとこでは同じだけど」
 もちろん詳しくは知らないが、普通のマニキュアの容器はガラス瓶のはずだ。プラスチックのチューブに入ったこのマニキュアは、確かに絵の具のようにも見える。
「じゃあ、使えないの?」
「普通は女の子が持つもんだな」
 ほい、と返そうとすると、サキは一瞬考える素振りを見せてから、甲の方を上にして手を差し出した。
「塗ってみたい。ね、やって。セキ君」
「へ? や、いいけど。つーかこれ、どうしたんだ?」
 聞くと、
「拾ったの」
 あっさりと、短い答えが返る。
 見たところほとんど中身が減っていない。元の持ち主も不運なことだが交番に届けても仕方がない。了解を伝えてパイプ管から立ち上がり、換わってサキを座らせる。
 何しろ加減がわからないので、とりあえず平筆と同じ要領でいいことに勝手に決めて、液を薄く延ばしながら順番に塗っていく。緊張すると言うか、こそばゆい感じだ。傍から見るとかなり異様な図に映るだろう。
 深いロイヤルパープルが細い爪のひとつひとつに落ちて、ラメが瞬きを増していく。
 ん。
 ほんの三週間ばかり前に知り合った小さな女の子に化粧を施しているだとか、そんな珍奇な体験から来るものじゃあない、奇妙な高揚感が唐突に沸き出した。
 なんだった、これ。
 何かを、
 ああ、ちょっと待て、終わるな。
 何かを思い出しかけている。ただそう感じて胸の中で唱えたその時、最後の爪にマニキュアがぴたりと張り付いた。
「綺麗?」
 出来上がった爪を日にかざし、サキが言う。ふっと気が抜けて、思考の糸はぷつりと切れた。
 促されるまま少女の手を見た。小さな爪にラメ入りマニキュアが映える。
 ああ綺麗だなあと、ガキみたいな言葉が浮かんだ。
「上出来。ネイルアーティストになれるかも俺」
 悦に入ってぽつりと漏らすと、サキはにこりと笑ってから、でも、と言う。
「セキ君は絵を描く人になるんでしょ?」
 痛いところを突かれた。本当、子供ってのは正直だ。
「なれればいいけど」
 描く理由か。美大に合格したい、筆で食っていきたい。もちろんそれも確かな理由だ。だがそれだけでは松木の言った通り、いつか壁にぶち当たるのだろう。
「つーか、壁、今だな」
 パイプ管に腰を下ろして情けない息を落とすと、隣でサキが囁くように言った。
「あの人魚みたいな絵はもう描かないの」
「人魚? ああ、スケッチブックの? あれは特にいい絵でもないと思うけどな」
 そう返すと、ゆるりと首が横に振られる。色どころか影もついていないざら描きの人魚の何がそれほどこの少女の気に入ったのだろう。
 それに、三途の川は浅過ぎて泳げないんだとさ。
 ぼんやり頭に流したその言葉を俺は確かに声にはしなかったが、サキは返事をするように、また「でも」と言った。
「でも、あの絵の人魚は消えないんでしょ」
「ん?」
「ずっと海で、幸せに暮らすんでしょ?」
 マニキュアを付けた手を膝に置いて、足を揺らしながらサキは淡々と繋げる。俺は少女の語る言葉の意味が取れず、相槌を返せなかった。言葉が続く。
「ね、セキ君。なんで」
 カフェブラウンの髪が揺れて、大きな目がこちらを向いた。声が響いた。
 なんで、お空の絵を描いてるの?
「なんで――
 馬鹿みたいに問いをオウム返しにする。
 車の窓から見えた十字の空。見つけたと思った。それは、
 ―― それは、なんでだった?
 答えが出てこない。その瞬間のことは確かに覚えている。頭に張り付いたモチーフを少しでも早く自分の手で描こうと、新しいパネルを持ってビルの隙間に潜り込んで、この十字路で。
 パール・ブルーのワンピースを着た少女に会った。
「あれ?」
 どうもおかしい。確かに俺は記憶能力に関して人に威張れることなんぞ何ひとつない。だがこれは思い出せませんだとか、すっかり忘れましただとか、そんないつも通りの問題じゃない。混乱している。完全に。
「サキ」
 無意識に呼びかけた。俺の記憶のリストからは正解を見つけられなかった、仮の名前。
 俺は多分、埃臭いビルの隙間で突然――本当に突然に知り合いになったこの小さな女の子のことを、もっと奇妙に思わなければならなかったんだろう。そうだな、多分、「理由」を考えてみるのと同じように。
 浪人生の一年は大雑把な季節の移り変わりでしかない。日付なんて気にしている暇があるなら、少しでも多く手を動かせが信条だ。以前より暑さを感じなくなった? 当たり前だ。カレンダーの真ん中にでかく張り付いた数字は、もう9だ。多分おおかたの現役学生に嫌われている月――
「ね、セキ君。そのお空の絵、綺麗に描いてね」
 ゆったりとした口調で言って、ひょいとパイプから飛び降りる。日焼けの跡のこれっぽっちもない、白い手足。
「え、ああ、うん」
 上ずった相槌を打つと、
「綺麗に描いてくれたら、私、とっても嬉しいな」
 独り言のような囁きが落ちて、ふわとビルの隙間を通り抜けてきた風にワンピースの裾が揺れた。目の裏のぼやけた古めかしい映像に、風景が二重写しになる。
「サキ、俺」
 俺、お前にどっかで会ったことないか?
 口をついて出た奇妙な問いに、正解を告げる言葉は返らず、代わりにサキはにこりと笑って言った。
「頑張ってね。ソウ君」
 きびすを返して駆けていくのを引き止めようとも考えず、俺は翻ったパール・ブルーにただひとつのことを思っていた。
 現れたときと同じぐらい唐突にワンピースの少女の姿はなくなって、あとには間抜けな浪人男が一人、自宅からのコールで我に帰るまで十字型の空をぼんやり眺めていた。

        ◇

 三日後の夕暮れ時、ビル街に運ばなくなった足を床に投げ出してだらだらとしていると、頭の上で電話が鳴った。家には俺しかいない。のろくさ起き上がり、受話器を取り上げる。
「はい、赤口ですが」
『ああ、宗か?』
 返ってきたのは母方の従兄の声だった。
「貴兄(たかにい)? 久しぶり。なんか用」
『うちの母親から叔母さんに伝言』
 携帯あるんだから直接メールしろよな、などと言い合いながら、大した内容でもない伝言を受け取る。そのまま少し話していると受話器の向こうがざわざわし始めた。
「貴兄どうかした?」
 尋ねかけると、
『ソウ、元気かーっ?』
 馬鹿に明るい声が大音量で戻ってきて、一瞬耳が殴られたようになった。少し遅れてオレオレ、健一、と振り込め詐欺まがいの短い名乗りが上がる。
 健うるさいもう少し音量を下げろ。貴兄の叱責が後ろから小さく聞こえる。ごめんごめんと全く悪びれた様子もなく笑う健こと健一は、引っ越す前ガキの頃に良く一緒に遊び回っていたひとつ年上の幼馴染だ。松木と高校の先輩後輩だという縁もある。なぜか貴兄の親に気に入られていて、たびたび家に上がりこんでいるらしい。
『昨日マッキーに会ってさ。聞いたよ。なんからしくもなく参ってんだって?』
「本当に参ってたとしたら物凄く不謹慎な態度だな」
『そんなお前に〔空中脳閣〕の称号を捧げる、だとさ』
 人の話聞けよ、という言葉となんだその妙ちきりんな名前は、という言葉とが同時に浮かんで、結局後の方だけを口に出した。健は向こうの電話をハンズフリーモードにしたらしく、貴兄の解説が返ってきた。
『〔空中楼閣〕のもじりだろ』
『なにそれ?』
『〔castle in the air〕の和訳。根拠のないことだの、幻だの、もやがかってるだの、そんな意味だよ』
「俺の脳味噌は二つに分割されてる上にもやまでかかってんのか」
 受話器の向こうで健が笑いを爆発させる。松木の奴、次に会ったら油彩で眉毛つなげてやる。
 健はひとしきり笑ってから、そうだ、聞いてくれよ、とおもむろに話題を切り替えた。
『さっきから貴兄が酷いんだよ。オレがせっかく昔話に花を咲かせようとしてんのにさ、なんも覚えてないんだよ』
「そんなの、今さらだろ」
 健忘症一家の血をひく人間として従兄の記憶力は、或いは俺より程度が低い。昔からの知り合いが使う「ソウ」のあだ名は、今となっては有難いがもとは貴兄が俺のフルネームを忘れて呼んでからついたものでもある。相変わらずヤだなお前らの家は、とそんな家にいつも世話になっている健はひとつ息をついて、
「ソウ、お前は覚えてないか? ガキの頃、工事現場で良く遊んだだろ」
「覚えてるよ」
 ああ、それでさ。健は続ける。
『あの頃は別に変にも思わなかったことなんだけどさあ……その、いつだったかさ、どこの子だかわからない女の子、いたよな? 一緒に遊んで、いつも、いつの間にかいなくなってて』
 口調が重くなったのに気付いたが、黙って続く言葉を聞く。
『細っこくて色の白い、茶色っぽい髪で、オレンジ色のサンダル履いて』
――パール・ブルーの、ワンピース着た?」
 思わず口が開いた。沈黙が張った。
 俺の近況と同時に、健は松木に例のろくでもない噂を聞いたんだろう。あのビル街が昔工事現場だったことも、少なくとも俺以上には覚えているはずだ。
『ソウ、んなわけないと思うけどさ、お前、今、その――も、もし亡霊とかだったら』
「俺、悪いけどちょっと出かけてくるわ」
 健の言葉を遮って受話器を投げ出し、鍵と財布をジーンズにねじ込んで、次の瞬間には俺は家の前の道を走っていた。

「……とり殺されなきゃいいけど」
「いたか? そんな子供」
「貴兄は覚えてないんだろ。それにあの女の子、……ソウが引っ越してから、来なくなったよな」



 陽はすっかり落ちていた。スーツを着た人の波とざわめきが無いだけで、昼間とは随分印象が変わって見える。駅から七分、いつものビルの隙間に入って十字路までゆっくりと歩いた。ワンピースの少女の姿はなかった。
 十字路の中心に立って空を仰ぐ。表の通りと違って明かりがほとんどないからか、星が良く見える。十字に切り取られた空に収まり切らない光の束がゆらめきながら流れている。
 もっと首を反らせようと足を動かすと、かつんと何かが靴に当たって跳ねた。腰をかがめ、手に取り上げる。薄い明かりにちらちらと瞬きが返る。
 もう一度ビルの線に沿って視線を上げた。閃きを散らす濃紫の空。青を忘れた空。朝と昼には夜が幻に、夜には昼と朝が幻になる。ひと繋ぎの幻がひとつの世界を象っている。人間の目に灼き付く一瞬の幻は、途方もなくでかい世界のちびけた欠片、本にもならない数ページのフィクションみたいなものだ。
 健の言ったことを気にして来たわけじゃなかった。狭苦しいビルの隙間で出会った小さな少女の正体なんぞ、どうでもいいと思っていた。
 だが手の中にほとんど新品同様の、ロイヤルパープルのラメ入りマニキュアが転がったとき、俺は漠然と悟った。サキは亡霊なんぞじゃあない。
 ガキの頃のことはほとんど覚えていない。覚えていないが、きっと俺はこの場所から、その頃は鉄筋がむき出しになっていたビルの隙間から、十字の空を見上げたんだろう。昼間の青空と、そして夜の、深い紫の星空を。そしてきっと、マニキュアの光る小さな爪を見たとき、翻ったパール・ブルーを見たときと同じことを、その他愛もない一瞬に他愛もなく思ったんだろう。
 綺麗だなあ。
 ガキみたいなことを、ガキだった俺は思っていた。ガキとは到底言えない今も、思う。思って、叫ぶ。見つけた。指で長方形のフレームを作り、かざして覗き上げる。
 深いムラサキの夜空。
 ひとつ宣言をしたくなった。もう二度と会わないだろう小さな少女に。
「俺、描くからな。とびきり綺麗な空の絵」
 マニキュアを手に握り込んだままビルの隙間を早足に抜けた。明日は休みだ。さっさと布団にもぐって寝てしまえば、朝イチで新しい紙を買いに行ける。

        ○

「おはようセッキー」
「漫才師みたいなあだ名はやめろ」
「セッキー&マッキーで世界に羽ばたこうセッキー。お?」
 部下の仕事ぶりを見回りに来た管理職よろしく肩に置こうとしたのだろう手を宙に止めて、松木はイーゼルに立てたパネルと俺の手の中のパレットとを交互に覗き込んできた。
「進んだじゃん。つーか、何で塗ってんだ? なんか光ってるな」
「これ」
 指差した先のチューブを松木が手に取る。ワンテンポ遅れて、予想通りの頓狂な声が上がった。
「へ、マニキュア?」
「そう」
 下絵を終わらせてからすぐに空を塗ることに決めた。迷っていてもしょうがない。ラメ入りマニキュアに黒と紫の絵の具を足して、十字の空の上にぶちまけた。
「昼の空かと思ってた」
「最初はそうするつもりだったんだけどな」
 いや、正確に言えば、そうなるところだった、だ。
 習慣通りに細かく紙に映したビルの輪郭線を、ただし今度は思い切り曲げた。そうすれば空と地面が同時に画面に収まる。十字の空を横切るラメの天の川を、十字路に張った広い水溜りの中にも浮かばせる。
「構図これで終わり?」
「や、まだ描き足す」
「何を?」
「……女の子」
 十字路の――キャンバスの中心に、水溜りの中の天の川を花飾りのついたオレンジ色のサンダルで渡る、パール・ブルーのワンピースを着た少女を一人。
 死人の渡る浅い三途の川よりも、空を渡る星の川の方が物語には似合っている。

 「誰かがいなくなるだけの話なんてつまらない」と少女は言った。だが人間の一生なんてそんなもんだと思うのだ。ある一瞬が現れて、ある一瞬が無くなる。その繰り返しだ。どんなに綺麗な一瞬も、泡になる暇さえなく消えていく。
 だから、俺は絵を描く。
 castle in the air. 突然現れて突然消えるその風景を手に掴み取って、キャンバスの中に押し込める。赤外線も紫外線も見えないところで実在して役に立っているんだろうが、重要なのは本当にあるかないかじゃあない。存在しない風景を、ガキみたいに綺麗だなあと思ったその一瞬を紙の上に乗せて、自分の手で自分だけの世界を象り、物語を描く。
 そこに得たいと思った幻があるから、俺は絵を描く。
「ふうん。そうだな、やっとセキの絵って感じになったよな。なんか半端に幻想的で」
「喧嘩売ってんのか」
「褒め言葉だよセッキー。題名決まった?」
「ぼんやりな」
 俺の目から記憶から、街から消えてなくなっても、絵だけはずっと憶えている。ひと夏を限りに現れた、あのビル街の蜃気楼を。

 story in the air.――本当はいなかった少女へ。


 fin.
後書きを表示する
 サークルの創作コース企画で書いた三題小説でした。
 前回(『冬花火』)に続き微妙なお題を引き当ててしまい四苦八苦しながら、数年前に構想していた話を大幅に発展させてまとめました。また掛け合いを書いてしまった……。
 執筆にあたり画塾生の友人に色々とご協力頂いております。有難う友よ。

 既に読んだ方がいらっしゃったらすぐにわかったかと思うのですが、ちょい役で出ている従兄はあの作品のアイツです。

<07/02/17>
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