※読む前に※

 この小説は「結びつかない33*3のお題」から
  ●赤外線
  ●三途の川
  ●ラメ入りマニキュア
 の3つのお題を元に書いたものです。
in the air


 確かに俺は記憶能力に関して人に威張れることなんぞ何ひとつない。耳に染み込むほど聞いたはずの人の名前も重要な出来事も昨日の晩飯のメニューも、何が気に入らないのか徒党を組んでダッシュで脳から去っていく。もともと記憶の弱い家系の一員として、それについては半ばどころか腹の底から丸ごと諦めているわけなので、もし見覚えがなくともまぁ無理はないだろうと予想はしていた。
 確かに俺の頭はその場所を覚えていなかった。薄情なぐらいに綺麗さっぱり忘れていた。とは言えこうまでがらりと景色が変わっていれば、例え元をはっきり覚えていたところで大した意味はなかっただろう。

 ガキの頃に遊び場にしていた辺りの土地が、大掛かりな区画整理でいわゆるビル街になったことは知っていた。その頃から既に工事は始まっていて、厳つい土方のおっさん達の目を抜けて馬鹿なガキが数人、鉄筋が転がる空き地で遊び回っていた。十年以上前のことだ。工事が本格的に進み始めた頃には、俺は三つ隣の町に引っ越していた。それきりこの場所には来ることもなく、気にかけることもなかった。
 そして今日、こうしてかの地にいざと立って眺めてみても、感じるのは目新しさと納得だけで、感慨やら郷愁やら、そんな気分はどうにも涌いてこない。それが自分を含めたガキが暴れ回った事実と、おっさん達のブロック顔しか覚えていなかった俺の記憶力に由来するものなのか、それとも青春時代を過ごしたとでもいうような重みでもなければ誰でもそんなものなのか、信号の赤が消えて疑問は保留。腰を据えてじっくり考察するには、八月ただ中真昼間のビル街、直射と反射のサンドイッチ太陽光線はあまりに暑過ぎる。
 汗だくのサラリーマンの間を抜けて、とりあえず目星をつけたビルとビルの隙間に入る。日陰なら涼しいかと思いきや、三歩目でエアコン室外機の熱風をまともに顔横に喰らい、汗と間抜けな叫び声が吹き出た。視界の隅で猫が飛び上がって逃げていく。でか重い紙袋を日除けに掲げて歩きを速めた。こんな狭苦しい場所で熱射病でぶっ倒れでもしたら救助の隊員も弱るだろう。発見されずにそのまま三途の川片道横断旅行になる可能性も大いにある。それはさすがに笑えない。
 結局そのまま五分歩き回って、やっと少しばかり広い空間を探し当てた。室外機もない、虫もいない、ネズミもいない。ひとつひとつ指差し点検をして、最後に空を見上げる。
 都会の谷間。四角に並ぶ低層ビル。十字型の空。
 よし、決まりだ。
 物事の始めは迷わない。迷わずにした後悔も迷ってからの後悔も、どうせ直しを入れることになるなら、後悔をしないわけがない未熟者にとっては筆が乾く前に仕事を始めた方がいくらかマシだ。センスのいい友人がいれば「早筆」なんぞという恥ずかし過ぎるあだ名も頂戴できる。
 紙袋から折り畳み式のディレクターチェアを引っ張り出して立て、地面に広げた新聞紙の上に道具を並べる。本当は机も本式の折り畳みの物を使いたいところだったが、家からの距離と真夏の気温と懐の貧しさとの関係で保留になった。使い古した筆と鉛筆、生地そのものより汚れの方が目立つくたびれタオルにぬるくなった水入りペットボトル、最後に前もってパネルに水張りしておいた白象紙。本当はイーゼルも以下同文だ。あとは俺自身さえいれば、なんとかなる。
 指で長方形のフレームを作り、かざして覗き上げる。縦か横か。空の風景画というと普通なら横だろうが、この景色には合わない。ビルの壁に沿って空は上下(南北と言うべきか)に伸び、同じくビルの頭の線に沿って横切る空とぶつかっている。紙は縦、天側から三分の一のあたりに十字の合流地点。とりあえずの構図を頭に描いて、不安定な椅子に腰掛ける。
 都会の空は狭い。何度も聞いてきたその嫌味のような言葉に、修学旅行で北海道の空を見上げて以来、俺も頭から同意するようになった。とは言えこうして人間が地面に張り付いて生きている以上、三百六十度見渡す限りの空なんてものは見ることが出来ないわけで、天地の感覚が狂ってしまうようなだだっ広い空も、四本の指の中に収まってしまうような狭苦しい空も、結局のところは同じものだ。何にどれほど切り取られているか、違いはそこにしかない。
 理屈を抜きにして結論から言えば(周りの人間の有難い言葉に従うなら、俺の頭は完全に分離した二部構成で、半分が反射と直感、もう半分が理屈で出来ている)、俺は狭い空がそう嫌いでもない。
 三日前に友人の下手な運転で通りがかった時には、そこが自分に縁のあった土地だということなんぞさっぱり思い出さなかった。目に映ったのは閑散とした休日のビル街と、その灰色の壁に切り取られた、十字の夏空だけだった。翌日、俺の部屋には新しい紙を張った新しいパネルが転がっていた。そういうわけで明日はサボタージュする、と松木に連絡を入れると、明日は閉講式のあと打ち上げだこのフロッピー人間、と説教を喰らった。容量1.44メガバイト(この間の松木の空間モデリングCGがちょうどこの倍のサイズだとか言っていたような気がする)の俺の頭は、予備校の貴重な夏期休暇さえ忘れていた。

 パネルを膝に乗せて紙の上に鉛筆を薄く走らせる。本塗りの時に構図をいじることが多い関係で、筆でのスケッチは大雑把にするぶん、下描きは丁寧にやっておく。矛盾しているとも余計な手間だとも言われるが、土台がしっかりしていれば後で変更を入れ易いのだ。これでもかというぐらい薄い線で、これでもかというぐらい細部まで写し取る。確かに骨な作業だが、習慣というのはなかなか変えられるもんじゃない。
 そしていつもの流れの通り、まず構図の主線、空を区切る縦の枠を引き終えて、十字の横枠に取り掛かろうとした時だった。
 かつん、と軽い音が背中で聞こえ、椅子の足の隣を小さな石が前へと滑っていった。俺は鉛筆を持ったまま体をねじって振り向いた。さっきの猫の姿を思い浮かべていた。
 だがビル街のど真ん中、灰色の壁と壁の隙間に立っていたのは、パール・ブルーのワンピースを着た、小さな猫ではなく、小さな人間だった。
 目を一度思い切り閉じて、また開く。間違いない。人間の子供だ。多分幼児の域はとっくに出ていて、それでも中学生まではまだ少しあるぐらいの、少年か少女かで言ったら間違いなく少女と呼ぶべき姿の子供。当たり前のように立っているのが逆にこの場所では不自然過ぎる人間の子供。
「こんにちは」
 そんな「少女」に爽やかに挨拶されて、
「こんちは」
 開きっぱなしの口から爽やかとは言いがたい、それでも一応場には合った声が勝手にこぼれた。初対面の相手に対する今までで最高に間の抜けた挨拶だった。
「……え、迷子?」
 ほとんど独り言の音嵩でも、こんな場所では消えようがない。「少女」は首を傾げた。肩にかかるカフェブラウンの髪がさらりと揺れる。
「なんで?」
「え、なんでって?」
 DOの疑問にWHYで返されて、閉じかけた口がまた開いた。
「お兄さんは迷子なの」
 ことりと首を横に倒して、「少女」が言う。
「いや、違うけど」
「じゃあ何してるの?」
「絵描いてる」
「迷子じゃないんでしょ」
 良くわからないまま頷く。「少女」は続ける。
「私はここに立って、お兄さんと話してるの」
 ね、と言う。俺はもう一度頷く。
「だから、迷子じゃないでしょ」
 や、ビコーズおかしくない? と真面目に返す方がより間抜けな気がしたので、口の中でごにょごにょと曖昧に言葉を揉み潰した。「少女」は花飾りのついたオレンジ色のサンダルで小石を蹴りながらゆっくり足を進めて、俺の隣に並んだ。
「この辺に住んでんの?」
 膝の上のパネルを覗き込んでくる「少女」に尋ねる。
「そう。ねぇ、何を描いてるの」
「そう、って、え」
「何を描いてるの?」
「あ、えー。ビルと空」
 尋ねたはずの言葉は消えて、何故か逆に「少女」の問いに答えている。小さい女の子と話すのは、多分同年代の普通の男並みに慣れていない。「少女」は絵と同じ方向の景色を体ごと振り仰いで、三秒ほど黙って見詰めてみせたあと、またこっちに向き直って言った。
「そんなの描いて、綺麗な絵になるの」
「さあ。出来てみないとわからない」
 嘘をつく意味もないので、無味乾燥な答えを正直に口にした。ふうん、と気なさげな相槌を打っておいて、「少女」の言葉はまだ続く。
「いつ出来るの」
「始めたばっかだから、まだ結構かかる」
「色は塗る?」
「塗るよ」
「何で塗るの?」
「水彩」
「水色に塗るんでしょ」
「空はね」
 次々に絵のことを尋ねられて、俺は「少女」から視線を外し、やり取りにつられるように下描きを再開していた。限りなく薄く、限りなく細く。首の上げ下げと筆先の移動を繰り返しているうちにいつの間にか口も閉じていた。縦と横の枠を繋げ、パネルを十字に切り取ったところで隣を見ると細っこい身体は消えていて、ありゃ、と思って首を回せば反対側の斜め横、壁に這う太いパイプ管に腰掛けた足が揺れた。
「帰らなくていいの?」
 今日は塗りまで行かないだろうし、見てても暇だと思うけど、と長居を決めたような姿に訊く。「少女」は首を小さく傾げて考える仕草をした後、
「じゃあ、何かお話して」
 あっさりと言った。
「……俺は絵を描きに来たんであって、キミの暇をつぶしにきたわけじゃないんだけど」
 八月ただ中、小学生のガキんちょ達は遊び呆けるのが仕事みたいなものなんだろうが、あいにく夏の大学浪人生には何もかも忘れて遊ぶ資格なんぞハナからありはしないのだ。
「絵やりながらでいいから。ね、お話して」
 ありはしないのだが――だからと言って子供を邪険に扱う権利も多分ないと思う。
「片手間でいいなら」
 幸いと言うのか、俺は話しながらでも絵の作業に支障が出ないタチだ(二部構成の頭が役に立っているんだろう)。少し複雑な話になると逆にそっちの方を後でてんで覚えていなかったりするのだが、まさか子供と政治だの経済だのを語り合うわけでもなし、別に構わないだろう。ただひとつ自分に難を挙げるなら、話をするのは嫌いじゃないが、話を始めるのが好きじゃない。何故、なんてほどの大層な理由はない。ただそう、
「じゃあね、お兄さんの名前はなんていうの」
 初対面の人間との会話でこの質問が出ないわけがないという、それだけの話だ。
 セキグチ、と苗字だけはっきり言ったつもりだったが、勢いが足りない声は相手の耳に届かず落ちて、逆に重ねて返事を促される。
「え、なあに?」
 ああもう面倒だ、と思ったのがどちら側の脳なのかはわからないが、俺はもう一度、今度はフルネームを不必要にきっぱりと投げ出した。
「赤口、宗辰」
 いわゆる人名らしくは響かないその音に、きょとんとした視線が返る。沈黙が数秒。そして、
「ソウタツ? 変な名前」
 小さな笑い。こうやって正直な反応をされたほうがいっそ清々しい。
「俺はこの名前じゃなかったら太郎でも良かったと思ってる」
 由来はもちろん風神雷神で有名なあの画家で、親は新婚旅行で行った京都で見て感動した思い出の絵なの、などと言っているが、普段は物覚えが悪い癖にそんなことだけ後に反映させるのはなんでなんだと言いたい。まだまっとうな人生コースを歩いていたら「変わった名前」程度の認識で済んだんだろうが、なんの因果かそれと同じ道を選んでしまった今は、恐ろしく名前負けでみすぼらしいにも程がある。下手な絵を描いたら本家の宗達に祟られるんじゃないかと思うとため息が出る。
「もし呼ぶんなら苗字で頼むよ」
 そんな内情をこれぐらいの子供が理解できるわけがないとは思うが、名前を呼ばれる度に風神雷神に睨まれるのも正直なところ嫌なので、それだけ頭を下げて頼んだ。
「セキグチ?」
「セキでもいいけど。大概そう呼ばれてるから」
「うん」
「で、そっちは?」
 流れのまま尋ねると、またことんと首が横に倒された。
「私の名前?」
「そう」
 それ以外に何を聞くのかと相槌を打つと、「少女」は傾げた首のままでしばし沈黙して、
「セキ君、当ててみて」
 俺が? うん。小さな頭がこっくりと頷く。なんで? と問いを重ねられる雰囲気じゃない。
「……ヨウコ」
「ううん」
「ミカ」
「違うわ」
 わからないって、と訴えても、「少女」はにこりとして名前を言おうとはしない。仕方なしに、体の向きを若干戻して紙に筆を進めながら、俺は今までのクラスメイトの名前を思い出せるだけ――もちろん俺の頭じゃ数はたかが知れているが――片っ端から口に並べた。アユミ、エリコ、サヤカ、マイ、ユキ、ひねり出す名前一つ一つに丁寧に首が振られる。
 ほとんど何かの工場作業のように惰性で流していた音の列に、
「サキ」
 その名前が入り込んだ時も、俺は視界の隅の小さな頭が動かなかったことに気付かず、すぐ次の名前を口に乗せかけていた。ので、
――サキ」
 細い声が落ちてベルトコンベアが停止した拍子に泡を食い、絵に見事な余分の線を走らせてしまった。だあ。間抜けな声が漏れる。
「サキ、ううん」
 あたふたと消しゴムを取り上げる俺を尻目に、「少女」が足を揺らしながら呟く。そして、
「それでもいいわ」
 そんなことを言った。
「いいって、正解じゃぁないわけ?」
「それでいいわ」
 つまり正解ではないらしい。どうも釈然とせず、
「ミサキ?」
「ううん」
 サキコ、サキエ、また思い付きを挙げていくが、首が縦に動く気配はない。十も並べないうちに俺の頭の中のリストには「サキチ」しかなくなった。
 寄る辺なしに頭を倒して空を見上げる。キャンバスの影が送られて、ブライトブルーに長方形の穴が開く。
 人間ひとりにとってみれば充分でかいビルの隙間にも収まり切らない青に吸い込まれれば、稀代の絵の巨匠の大層な名前も、それと良く似た浪人生の貧相な名前も、同じぐらいちびけた存在なんだろう。
 思ったのがどちら側の脳なのかはわからないが、思った通りが口から転がった。
「俺も、それでいいや」

 全体の構図をだいたい紙の上にまとめたところで、だいぶ日が陰ってきたことに気付いた。暑さは少しも和らがないが腕の時計を確かめると六時を過ぎている。うちは夕飯の時間にうるさい家で、予告なしに帰宅が八時を過ぎるともれなく小言がプレゼントだ。
「もう帰るの?」
 道具を片付け始めた俺にサキが言う。どちらかと言えば俺の方が「もう帰らなくていいのか」と聞くべき立場なんじゃないだろうか。もっとも今時の子供なんていうのはこんな感じが普通なのかもしれないが。
 荷物を紙袋に適当に突っ込んで、どうやって収まっていたのかわからなくなった椅子だけ脇に抱えて立ち上がる。サキもパイプ管からひょいと飛び降り、服をぱたぱたと払った。
「セキくん、また来る?」
 ことりと首が傾げられる。
「絵が仕上がるまでは来る」
「私もまた来ていい?」
「いいけど、そんな構えないよ」
 今日話していたことでさえ既に俺の頭にはぼんやりだ。投げられる言葉にただ返すのを繰り返して、結局絵のことばかり話していたような気がする。この年頃の女の子というのはこんな地味な会話で楽しめるもんなんだろうか。
 それでもサキは頷いて、次に来る日を俺に訊いた。明日は用があるから来れない。明後日から来る、雨が降ったら来ない、と大雑把な予定を告げる。どのくらい時間がかかるかわからないが、出来れば今週来週で目処を付けてしまいたかった。一週間の短い夏休みにも普段と変わらず絵を描き続けることになるわけだが、文句を言える立場でもない。
 じゃ、帰るか、と声をかけて来た方に戻りかけると、
「私、こっちなの」
 逆側を指差してサキが言う。何の気ない言葉だが、ここはビル街のど真ん中、「こっち」というのはビルとビルの隙間のことであって、傍からするとどうにも奇妙なやり取りだ。頷いて手を振る。
「またね」
 花飾りのついたサンダルがぱたぱたと小石を蹴立てて遠ざかっていく。変な一日だった。俺がごく一般的な学生として筆の代わりに赤本を手に取っていたら、こんな汚い狭苦しい場所で、ワンピースの少女に「またね」と言われるなんて瞬間は、おそらく一生身に訪れなかったに違いない。

        ◇

「おはようフロッピー」
「どこの教育番組?」
 言葉を返し、鉛筆の線を二本ゆっくり繋げ、さらに紙の上の消しカスを吹き払ってから視線を上げてもまだ少しうんざりするほど見慣れた顔。どこが夏期休暇なんだよな? 手にした針金を捻じ曲げながら松木が言う。それは同時に俺のセリフでもある。
「これ作品展に出すやつ?」
「一応」
 夏期休暇は短い代わりに課題はないが、十月の展示会に出す作品の製作時間が授業で取られない不遇のデザイン科の生徒にとっては貴重な作業時間だ。お陰で家に使えるスペースのない類友たちは、午前開放の自習室でいつものようにいつもの顔を付き合わせることになる。平面デザインは俺のように絵が多いのでまだマシだが、松木を含め空間デザインの生徒は異様なオブジェを背負って家と予備校を往復している人間も多い。正直なところあまりお近づきになりたくない光景が夏期休暇四日目の今日もそこここで見られた。
「まだ塗り入ってないじゃん。初日から描いてたんだろ? 珍しいなマッハペインターのセキ君が」
「外で描いてるからなかなか進まないんだよ。ていうかダサいにも程がある」
 人前で言わないでくれよその言葉、と真剣に頼んだ俺の声を聞き流して、松木が中途半端な下絵を後ろから覗き込んでくる。
「これじゃ休み中に終わらないんじゃん?」
「だな」
 それはごく正しい評価だ。実のところ、休み中に終わらないどころか八月中に終わるかどうかも怪しいと思っている。松木が続ける。
「けどさすがに中間講評までには下絵終わらせといた方がいいんじゃね?」
 は?
 心の声が同時に口に出た。目を見合わせて沈黙数秒、息と同時に平坦な言葉が落ちる。
「中間講評は休み明け二十日ですヨ。2DDフロッピー君」

 下絵が進まないのは松木に言ったように、外での作業だという理由ももちろんある。まとめて取ることの出来ない時間。暑さ。そして予期せぬ風変わりなギャラリー。
「こんにちは」
 いつでも狭苦しいビルの陰にのそのそ入っていくと、俺が腰を据える十字路(あえて呼ぼうと思えばそうなるがつまりは隙間の合流地点)に細いシルエットが立って、欠かさず挨拶をよこす。全くもって、奇妙な習慣が出来たもんだ。
 松木に記憶容量メガ切り認定をされた今日も、俺は午後からビルの谷間に潜り込んでいた。一応写真として記録してはいるが、実際の風景を前にした方が描きやすいのはまぁ当然のことで、この場で作業を大まかに進めて家か予備校で細かく手を入れる、というのが効率のいい描き方だろう。
 と、それについては充分わかっているものの、膝にパネルを置いたきり、肝心の手は動かない。
「セキ君、どうかしたの」
 横から投げられた声にすぐには答えず、俺はパネルの上に両肘をついて、雲の切れ端が右のビルから左のビルの陰へ流れる間黙って空を見上げた。青の強い十字の夏空。視界を過ぎた一瞬に目に灼き付いた一枚の――いつもなら、絵、と言えるはずの景色。
「紙に乗らない」
「紙?」
「絵にならない」
 どんなに線を描き入れても、どんなに緻密に写し取っても、十字の空は空のまま頭の上にぼんやりと浮かんでいる。掴み取ってキャンバスの上に押し込めなければならない、そこに確かにあるはずの風景が、描いては消しての手をすり抜けていく。
「描けないの?」
 サキが言う。認めたくなかったわけでもないが、他人の口から出てやっとその言葉が胸に着地した。
 普段の授業では平面デザインばかりやっているせいで、確かに最近あまり風景画を描いてはいなかった。だが別に描き方を忘れただとか、勘が戻らないだとか、そういうわけでもない。ただ自分の目指す絵にならない。それどころか自分の中に目指す絵がはっきりとあるのかさえ怪しいほどの有様だ。中間講評を目前に、致命的、と言えば致命的な状態なんだろう。
「平たく言えばね」
 ここで複雑なことを語り出すのも妙な話なので、短くそれだけを答えた。
「どうするの」
「とりあえずひねくり回してみて、駄目ならまた考える」
 サキと一緒に自分もひとまず誤魔化して、パネルを膝の上から袋に戻し、代わりに構図をいじる時や覚描きに使っているスケッチブックを掴み出す。絵のメモ帳とでも言うのか、思いついたときに思いついたことをそのまま描いているので、どのページも尋常ではないマーブルカオス具合だ。余白を探してめくっていると、何枚目かで横からひょいと細い手が伸び、紙を押さえた。
「ね。これ、なあに」
 その指す紙の中には上半身が人間で下半身が魚の、ありきたりな生物が数個泳いでいた。
「人魚?」
 描いたものには確信があるか何をもって描いたかは全く覚えていなかったので、口から出た答えに勝手に疑問符がつく。人魚、とサキは言葉を繰り返し、
「綺麗ね」
 ひとこと、感想を口にした。
「そうか?」
 正直なところそれはイメージを線にしただけの走り描きで、お世辞にも綺麗な絵とは言えない代物だった。まあ確かに小さな女の子にとっては、何の変哲もない風景画なんぞよりはよほど綺麗に映るのかもしれない。 
 スケッチブックから顔を上げて俺と視線を合わせ、サキが言う。
「セキ君、人魚には何かお話がある?」
「話?」
「うん。ね、私、お話が聞きたい。空の絵にはお話がないんだもの。人魚のお話をして、セキ君」
 唐突な物言いにはそろそろ慣れてきたつもりでいたが、まだ完全にこの小さな少女の言葉の先を読むには至っていないようだ。
「人魚の話ねぇ」
 と考える素振りをしてみせたところで、俺の知っている人魚の話なんてのは、誰もが知っているだろうひとつしかない。人魚姫、知ってる? 問いかけると首が横に振られる。
 俺もうろ覚えなんだけど、と先に言い訳しておいて、人魚の泳ぐスケッチブックを膝の上に開いたまま、記憶の地層を掘り返しながらぼつぼつと話し始める。もちろん俺は語りのプロではないわけで、弱い記憶も相まって恐ろしくクオリティの低い童話をそれでもサキは黙って聞いていた。
「それで、えー、王子様が勘違い野郎だったので人魚姫は海に身を投げて泡になって消えてしまいました。めでた……くねーや。おしまい」
 どうも途中で話が歪んだ気がするが、結末は概ね間違っていないはずだ。メルヘンな題材の割にどうしようもないストーリーだという印象が強く残っている。少なくとも「綺麗」な話じゃあない。
「それでおしまい?」
「これでおしまい」
 浮かない顔に否定の言葉を返したくはあったが、事実なので仕方がない。俺が勝手に手を加えたところで、せいぜいどうしようもないストーリーがしょうもないストーリーになるぐらいが関の山だ。
「なんだかつまらないお話なのね」
「そう?」
 救いのない話だとは思うが、つまらないかどうかは何とも言えない。もともと童話なんてものは「狼に気をつけましょう」だの「人間正直が大事です」だのという寓意を込めて作られたもので、話の出来は二の次なんじゃないだろうか。
 俺の声にサキはことりと小さく頷いて、
「誰かがいなくなるだけの話なんて、つまらない」
 簡潔に言葉を落とした。
 そんなもんなんだろうか。物語の出来不出来も小さな女の子の心の内も、俺にはいまいちわからない。サキが続ける。
「セキ君、人魚姫はその後どうなったの?」
「え? だから泡になって」
 繰り返す言葉に首が振られ、さらに問い。
「泡になって消えちゃった後、どうなったの?」
 どうもこの少女は、俺のキャパシティを超える質問をしてくるのが好きらしい。
 泡になって消えた後、か。考えたこともない。物語はそこで終わり、読み手はその裏切りのような結末を渡されて、複雑に思いながらも本を閉じる。シンデレラや白雪姫のように幸せになった登場人物のその後を空想することはあっても、幕が下りた悲劇の後を空想することはない。多分それはごく普通のことだろう。
「天国に行った、かな」
 深く考えたところで出る回答でもない。口から流れるまま答えた。
「天国? 人魚姫は、天国に暮らせるの。どこに住むの?」
「どこにって?」
「だって、天国には海がないんじゃないの」
 そう言われてみれば確かに、天国の海なんてものは聞いたことがない。そもそも天国の地形についてなんぞ考えてみたことがない。海、海ねえ。ぶつぶつと呟きながら巡らせる思考に、ひとつ影がよぎる。
「海じゃなくて、川ならあるな」
「川?」
 尋ね返されて改めて馬鹿馬鹿しくなりながらも、
「三途の川」
 言った。それぐらいしか思い浮かばない。どうにも貧相な思考に我ながら呆れる。
「その川で人魚姫はちゃんと暮らせるの?」
「さあ。でも周りは花畑だって言うし、天国だし。暮らせるんじゃないか?」
 もちろん実際に見たことがないのだから確信があるわけではないが、見たことがないのだから出鱈目にもならないという理屈でもってそう答えた。
「そうだといいな」
 花飾りのついたサンダルを揺らしながらサキは小さく呟いた。
 この歳になってはもう人魚姫の天国での暮らしを案じるほどの純粋さを持つことなんぞ逆にできないが、それでもあの物語の主人公は、せめて天国ぐらいでは幸福にならなければ嘘だと俺も思う。
 天国の空は、ビルの隙間から見上げるこの十字の空より青いだろうか。


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